世田谷散策記 タイトル
世田谷の秋祭り#2

三宿神社と例大祭

三宿2-27-6

お洒落な町として知られる三宿にあるのは、三宿神社。かつての祭りでは、養老の滝にちなんだタヌキ囃子が上演される事で知られていました。現在は、小ぶりながら関東大震災、戦災と二度の厄を免れた縁起のいい神輿が町を練り歩きます。

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1、旧三宿村と三宿神社について

2017年の三宿町域の航空写真(国土地理院)
三宿町域(2017年)

国土地理院地図を書き込んで使用

三宿といえば、オシャレなカフェが建ち並ぶエリアとして全国的にも知られています。その象徴的なのが国道246号線の三宿交差点から南北に延びる三宿通り沿いで、オシャレな飲食店が多く並んでいますが、住所が三宿という店はそんなに多くなく、大部分が池尻、そして太子堂も少し含まれています。

町域としての三宿は池尻と三軒茶屋(太子堂)の間にある小さなエリアで、烏山川緑道で区切られた三宿1丁目と2丁目で構成されています。

隣の町域は、三軒の茶屋があったことで名付けられた三軒茶屋。三宿も三軒の宿があったから三宿になったのでは・・・と考えてしまいがちですが、「水が宿る」が訛って三宿となったというのが有力な説のようです。

都市化の影響で現在では水の流れがなくなってしまいましたが、かつては三宿の真ん中を烏山川が流れ、北の端を北沢川が流れ、その二つの川が村の東端で合流していました。

また、三宿の北に池之上という地名があり、東には池尻や池沢という地名があることからも想像できますが、かつては大きな池があったり、川の合流地点付近などは湿地帯になっていたりと、水が豊かというか、水が多い村だったようです。

三宿周辺の地図(国土地理院)
区画がぐちゃぐちゃな三宿周辺

国土地理院地図を書き込んで使用

現在の三宿は、お洒落な町といったイメージが先行していますが、それは大通りだけ。一歩住宅地に入ると、建物が煩雑に建ち、路地も狭く、とてもごちゃごちゃしています。都心に近く便利な反面、鉄道駅からも少し離れているし、少し暮らしにくい町域になるでしょうか。

古い話をすると、江戸時代の池尻、三宿はほとんど人が住んでいませんでした。目黒川の北部に幕府の狩猟地や薬園地などがあった事も一因で、今では想像もできないような寂れた地域だったようです。実際、明治21年の調査では、三宿村に暮らしているのは27戸、128人だけでした。

そんな寂れた地域に変化が訪れたのは、明治24年。目黒川の北側、現在の池尻4丁目に騎兵第一大隊の兵舎が造られ、翌年以降は東側に拡大。目黒区の駒場にかけて駒場練兵場など大規模な軍事施設が造られました。

明治30年になると、現在の池尻1丁目と2丁目の一部に広大な駒沢練兵場が造られ、翌年には近衛野砲兵連隊、野砲兵第一連隊が練兵場の西部、現在の昭和女子大や都営住宅の場所に造られました。

何もない農村だった地域が急に軍事地域となったことで、地域が活性化していき、池尻の街道沿いには兵隊相手の商店や旅館が並び、三宿、池尻周辺には軍事工場が出来たり、軍事関係者が家を持つなど、人口が増大していきました。

大正時代になると、鉄道の開通と共に世田谷自体の人口が増えていき、関東大震災後は爆発的に人口が流入していきます。この明治後半から大正時期に無秩序に町が開かれたのが、現在の三宿の町の原型です。

1940年代後半(戦後)の三宿町域の航空写真(国土地理院)
1940年代後半(戦後)

国土地理院地図を書き込んで使用

昭和になり、太平洋戦争が勃発すると、大規模な軍事基地のある池尻界隈が空襲の標的にならないはずはなく、大規模な空襲を受け、三宿でも多くの家々が焼けることとなります。

戦後の写真を見るとよくわかるのですが、かなり激しい空襲と火災に遭ったようで、広範囲が焼け野原になっています。特に昭和20年5月の空襲時の被害は大きく、三宿神社も本殿などが消失しました。

戦後になると、焼け野原となった町域は再開発や区画整理などを行う余裕もなく、建物がどんどんと建てられていき、気が付けば路地は細く入り組み、住宅やアパートが密集する地域となってしまいました。

更には、世田谷区で最も緑被率が低い地域が三宿だったりします。まとまって緑があるといえるのは、烏山川緑道に、三宿神社と三宿の森緑地、三宿公園ぐらい。本当にごちゃごちゃしている町なのです。

三宿神社 一の鳥居前の写真
神社の入り口

三宿神社の石柱と並んで毘沙門天の石柱があります。

三宿の氏神様は烏山川沿いの丘にある三宿神社。創建は明治18年と、比較的新しい神社です。

実は、江戸時代、三宿村には神社と呼べる神社がありませんでした。明治時代になると、政府が推し進める神道国教化政策(俗にいう廃仏毀釈)によって、三宿にあった多聞寺が廃寺になりました。

政府が推奨するのは、天皇制を盤石にする神道。三宿村でも政府の指示で神社を設置することになるののですが、いきなり神社を造れと言われても困ります。

村内には廃寺になった多聞寺の跡地があります。多門寺では本尊として不動明王(大日如来の化身)を祀っていて、その守護者として多聞天も祀っていました。

多聞天というのは毘沙門天のこと(四天王の一尊という扱いだと多聞天、単独の神としてなら毘沙門天と呼ぶ)。多聞天を祀っていた堂をそのまま本殿として使い、堂内に安置されていた像をそのまま祭神として崇める事にしました。そして三宿神社と名付けました。

毘沙門天のイメージ(*イラスト:ララソフワさん)

(*イラスト:ララソフワさん 【イラストAC】

毘沙門天は戦いの神様。上杉謙信が崇拝していたことがよく知られているでしょうか。七福神の一人として知られていますが、元をただせばヒンドゥー教の神様となり、日本では仏教の神様になります。

明治政府が掲げる神仏分離の原則に則ると、仏教の神様は神社で祀ることができません。神社で祀ることができるのは神道の神様。しかも日本神話に登場する天皇所縁の神様だけです。よって神様を改めるように命じられ、大物主命に改めました。

なぜ大物主命にしたのかはわかりませんが、のちにお稲荷様の倉稲魂命に改めています。村人にしてみれば、神様は長年崇めていた毘沙門様(多聞天)であり、それ以外は形式的なもので何でもよかったのかもしれません。

というより、若林の方では幕末の志士、吉田松陰を祀った松陰神社が造られ、府社という世田谷で一番高い格付けが与えられたり(いつ府社になったのかはわかりませんが)と、庶民にとってはなんだかな・・・といった感じで、形だけ政府のやり方に合わせておけばいいや、ってな感じだったのではないでしょうか。

三宿神社 社紋の入った幔幕が取り付けられた拝殿の写真
社紋の入った幔幕が取り付けられた拝殿

三宿神社の社紋は毘沙門亀甲が三つ並んだものです。

三宿神社の社紋は毘沙門亀甲が三つ並んだものになります。いつこの社紋に取り決めたのかわかりませんが、毘沙門天への切なる重いと、政府への反抗心を感じます。

とはいえ、この社紋が平時神社にあるわけではなく、祭礼の時に社殿などに取り付けられる幔幕(まんまく)などに見られるだけです。このへんは隠れキリシタン的な感じがして、ちょっと面白く感じます。

こういった複雑な事情があり、現在でも神社の前に毘沙門天の名が刻まれている門柱が建っていたり、祭礼の際に「毘沙門天」の幟が立てられたりと、地元の人にはお稲荷様でありながら「毘沙門さま」でもあり続けています。

ただ、明治の話のなので、今では毘沙門天を熱心に信仰している人は少なく、慣習的とか、伝統といった感じで毘沙門天を祀っているといった感じになるでしょうか。

で、肝心のご神体である毘沙門天像は、昭和20年のアメリカ軍の爆撃の際に本殿は消失しましたが、無事に持ち出されていて、現在も神社に安置されているそうです。

三宿神社 参道と二の鳥居の写真
参道と二の鳥居

隣は幼稚園ですが、それなりに雰囲気があります。

三宿神社の入り口は烏山川緑道に面してあります。隣には目立つ外観の三宿さくら幼稚園あるので、あまり存在感がないといった感じです。

聞くところによると、三宿神社にはかつては井戸(湧水?)がありましたが、幼稚園を建ててからというもの、水が出なくなってしまったそうです。

三宿神社 神楽殿のある広場の写真
神楽殿のある広場

晩秋にはイチョウの落ち葉で絨毯ができます。

一の鳥居をくぐり、参道を進んでいくと、二の鳥居があり、神楽殿のある広場に至ります。神楽殿は空襲の際に焼け残った建物の一つ。昭和7年に建てられたもので、一応この神社のオリジナルの建物では一番古いです。

三宿神社 武者小路実篤の筆による石碑の写真
武者小路実篤の筆による石碑

物置の横に無造作に置かれています

この広場の隅っこには、武者小路実篤の筆による石碑がひっそりと置かれています。

武者小路実篤といえば学校の教科書に出てくる有名な小説家。一体この石碑にどんな謂れがあるのだろう。どんな言葉が書かれているのだろう。と、期待してしまうのですが、武者小路実篤の筆で書かれたものを彫刻しただけで、武者小路実篤の作品などとは関係ありませんでした。

この石碑は昭和31年に太田道灌の江戸築城五百年を記念して地元の有志が建立したものです。かなり字が薄くなっていますが、江戸城の石垣に使われた石に「過去五百年之進歩道灌不知、未来五百年之進歩我等不知、石又沈黙」と刻まれています。

なんでこんなものを制作したの。お金をかけてまで。江戸城と三宿とは関係ないんじゃない。などと、今の感覚では思ってしまいます。

調べてみると、太田道灌が江戸城を築城したのが1457年で、それから500年目にあたるのが、1956年(昭和31年)。この年の10月1日から15日まで「開都500年記念 大東京祭」が東京全都で行われ、期間中には豪華多彩な数々の行事が繰り広げられました。その盛り上がりは万博並み・・・というのは大袈裟ですが、東京全体で凄まじく盛り上がったようです。

そういった当時の「開都500年記念 大東京祭」の盛り上がりの中で、地元の人々が何かしようといった感じで、石碑を建てることにしたのではないでしょうか。

三宿神社 社殿前の階段の写真
社殿前の階段

急な階段を上ると社殿があります。

三宿神社 狛犬の写真
狛犬

大正時代のもの。

神楽殿のある広場から急な階段を登ると拝殿と本殿、そして境内社の稲荷社があります。その階段の上と下に一対の狛犬が置かれています。

上の拝殿前にあるものは戦後に制作されたもので、階段下のは大正時代のもの。この大正時代の狛犬がなかなか独創的で、ユニークな顔つきをしています。今風に言うなら、ブサカワ犬といった感じでしょうか。刻まれた銘によると、世田谷町太子堂石工・北村花五郎作で、大正15年(1926)10月28日建造となっています。

三宿神社 拝殿の写真
拝殿

左にあるのは境内社の稲荷神社。

本殿は多聞寺の毘沙門堂を利用したものが最初に使われ、昭和7年に新しく建て直されました。

しかし、昭和20年5月の空襲で焼けてしまい、現在の本殿は昭和24年に郊外の軍需工場(旧中島飛行機工場)にあった建物を譲り受け、移築したものだそうです。拝殿は昭和42年に新築しているので、まだ新しい感じがします。

本殿や拝殿の横には、独立して稲荷社があります。本殿の祭神が倉稲魂命とお稲荷様なので、ちょっと違和感を感じる配置になるでしょうか。このお稲荷様は多聞寺の境内にあったものと言われていますが、本殿と同様に空襲で焼け、同じく譲り受けたものが置かれているようです。

そのほかでは、昭和60年に社務所を新築、平成12年に稲荷社の移設、平成13年に神輿庫の新築、平成16年に神楽殿の屋根の葺き替えなど境内の整備が行われ、平成18年には境内入口に玉垣を新設し、毘沙門天の標柱を建立したりと、氏子によって少しずつ整備が行われています。

三宿神社 墓地と布袋様の写真
墓地と布袋様

なぜか敷地を分けるフェンスのところに布袋様の像が置かれていました。

社殿のある広場の東側はフェンスを隔てて墓地があります。これは多聞寺だった名残で、当時の墓地がそのまま残されています。

多聞寺は区役所の北側にある勝国寺の末寺になり、現在、この墓地は勝国寺の三宿墓地という扱いになっています。三宿神社の祭礼は9月22、23日。ちょうど秋の彼岸にあたり、昼間に祭礼を訪れると、線香のにおいが漂ってきたりします。

三宿神社 境内から見える三宿の森緑地の写真
境内から見える三宿の森緑地

石垣の上は広い三宿の森緑地です。

神社の後ろ側は三宿の森緑地です。かつて法務省の研修所などに使われてきた土地で、住民運動によって再開発を免れ、区が買い取り、公園として整備しました。

木々の多い三宿の森緑地が隣接していることで、実際よりも木々の多い神社といった印象になっています。特に本殿のある付近の緑地は、木々が茂って入れないようになっているので、鳥居から入っていくと鎮守の森のような雰囲気を感じます。

三宿神社 参道の紅葉の写真
参道の紅葉

二の鳥居前にはモミジもあります。

三宿神社 拝殿前にそびえるイチョウの木の写真
拝殿前にそびえるイチョウの木

拝殿を守るように存在しています。

三宿神社 落ち葉が降り積もる境内の写真
落ち葉が降り積もる境内

落ち葉が溜まった風景も素敵です。

最後に三宿神社でお勧めなのは紅葉です。丘の斜面に広がる境内にはイチョウの木が多く、11月後半から12月初旬にかけての紅葉の時期にはとても素敵な雰囲気になります。その後の落葉の時期も素敵で、広場一面が黄色い絨毯を敷き詰めたようになります。

世田谷区内の神社は境内が狭かったり、公園のように淡白な境内だったり、木々が植えられていてもケヤキなどの地味な感じの木が多かったりするのですが、ここはなかなか感動的です。元々がお寺だったからでしょうか。

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2、三宿神社の秋祭りについて

三宿神社の秋祭りのポスター 2009年
2009年の告知

三宿神社の秋祭り(例大祭)が行われるのは、古くから毎年9月22、23日で、22日が宵宮、秋分の日と重なる23日が本祭となっています。ただ、近年はその日にこだわっていなく、カレンダーの休日次第で、少しずれることもあるようです。

お隣の町域で、近所にある池尻稲荷神社は、かつて20、21日が祭礼日でした。その事を考えると、続けて祭礼を行うと色々と都合がよく、この日になったのかな・・・と推測するのですが、どうなのでしょう。

三宿神社の秋祭り 秋祭りのときの入り口の様子
秋祭りのときの入り口(2009年、以下全て)

参道に屋台が並び、毘沙門天の登りも設置されます。

三宿神社の秋祭り 拝殿にお参りする人の列の様子
お参りする人の列

多くの人がお参りしていました。
拝殿などには社紋の入った幔幕が取り付けられています。

祭礼では、宵宮の夕方から奉納演芸が行われ、本祭の日は10時から大祭式、12時から神輿渡御が行われます。三宿神社には常駐している宮司がいないので、松陰神社の宮司が兼務しています。祭礼も松陰神社の宮司が執り行います。

ここの祭りの特徴の一つは、祭礼の日には稲荷社から毘沙門天の神社に変わることです。祭りの日には参道に毘沙門天の幟が立ち、毘沙門亀甲が三つ並んだ社紋が入った幔幕が、本殿や拝殿、神輿倉などに巻かれ、この神社の真の祭神が毘沙門天であることをさりげなくアピールしています。

昼間はそんなに違和感を感じませんが、暗くなってから訪れると、密教的な雰囲気を感じたりもします。このへんの空気感は、同じように明治政府から弾圧された牛頭天王を崇拝してきた喜多見の須賀神社の祭礼と似ているでしょうか。

三宿神社の秋祭り 神楽殿での奉納演芸が行われる様子
神楽殿での奉納演芸が行われる様子

結構多くの人が奉納芸能を楽しんでいました。

もう一つの特徴は、夜に神楽殿で「狸囃子(たぬきばやし)」という神楽が奉納されることでした。過去形になってしまっているのは、神楽師(大森の池田社中)の老齢化によって平成13年(平成11年かも)を最後に現在途絶えてしまっているからです。

この「狸囃子」の神楽は、滝の水がお酒に変わるという養老の滝伝説をベースにした三宿の民謡を神楽にしたものです。

簡単に書くと、三宿村には大変親孝行な少年が暮らしていました。しかし、その父親が病気になってしまいます。少年は父親の回復を願い、日々三宿の神様にお参りをしに行きました。

ある日の帰り道、少年は怪我をした子どものたぬきに出会いました。やさしい少年はすぐに怪我の手当てをしてやりました。

それから少し経ったある日、少年がいつものように三宿の神様にお参りに行くと、どこからとなく「神社の裏にある湧水(滝)のところへ行ってみるがよい」という声が聞こえてきました。

その声の通りに湧水のところへ行くと、いつもと水が違う。すぐにその水を持ち帰り父親に飲ませると、父親の病気がたちまちよくなりました。

狸ばやしのイメージ(*イラスト:ヨッシーさん)

(*イラスト:ヨッシーさん 【イラストAC】

その後、少年がお礼参りに訪れると、神社の裏ではたぬきたちが楽しそうに踊りを踊っていたとか。このあたりは証城寺の狸ばやしが組み込まれている感じがします。

これが三宿のたぬき囃子のストーリーで、この神楽は周辺地域にも知られるほどでした。この他にも「三宿の多聞寺山のタヌキ」という別の昔話も伝わっていて、タスキが三宿のシンボル的な動物として描かれたり、緑道や公園などに狸のオブジェがあったりします。

もう狸囃子が復活することはないかな・・・と思っていたのですが、2024年から台東区の吉福社中によって狸舞が復活したようです。以前と同じなのか、別の内容で行われているのかわかりませんが、20年ぶりの狸神楽の復活に地元の人は喜んでいるのではないでしょうか。

三宿神社の秋祭り 神楽殿での奉納演芸の様子
神楽殿での奉納演芸

神楽や神前舞、奉納演芸がおこなわれます。

現在、夜の神楽殿での奉納演芸はカラオケ大会が中心です。あまりこういうのは見る人が多くないものですが、ここでは結構多くの人が観覧していて、地味に盛り上がっていました。

ただ、細長く狭い境内なのでしょうがないのですが、神楽殿と観客席の間に参道があるのが、微妙なところ。神社にお参りしようにも、演目が終わるのを待ったり、かがんで通ったりと、苦労します。見ている方も、演じる人も落ち着かないことでしょう。

三宿神社の秋祭り 参道に並ぶ屋台の様子
参道に並ぶ屋台

普段静かな境内がにぎわいます。

三宿神社の秋祭り 烏山川緑道に並ぶ屋台の様子
烏山川緑道に並ぶ屋台

神社の外も賑やかです。

神社や祭りの規模は大きくないものの、ここのお祭りでは露店の数だけは多く出ます。ちゃんとは数えていませんが、25店ぐらいでしょうか。露店は境内だけではなく、目の前の烏山川緑道にも並び、夜にもなると多くの人で賑わいます。

すぐ隣が幼稚園だし、小学校もすぐ近くにあるし、狭い町域だし、あまり季節的な風物詩を感じることのない地域だしと、なんやかんやと祭りの日が住民に周知され、情緒を求めて繰り出してくるといった感じでしょうか。

奉納演芸のカラオケにしても意外と盛り上がっているし、参拝する人の行列もできるし、屋台も盛況だしと、普段の静かな境内からは想像もできないほど賑わっていて、正直驚きました。

3、三宿神社の神輿渡御

三宿神社の秋祭り 三宿神社の神輿
三宿神社の神輿

大・中・小の三つのサイズの神輿と大太鼓があります。

三宿神社では、毎年本祭の23日に宮神輿の渡御が行われます。ここの宮神輿は延軒屋根、勾欄造りで、台座は2尺と少し小振りです。

建造は大正12年です。大正12年といえば関東大震災の年。浅草の神輿店に注文し、9月23日の祭礼に間に合うように神輿店が納めてくれることになっていたそうですが、完成したとの連絡を受けると、すぐにでも手元に置きたい。早く担ぎたい。と、わざわざ自分たちで引き取りに出向いたため、9月1日の関東大震災の被害に遭わずに済んだそうです。

その後の昭和20年5月の大空襲の時にも、本殿は焼失したものの、神輿舎や神楽殿は何とか消失を免れたという経緯もあり、二度の災難を免れた縁起の良い神輿として三宿の自慢となっています。

三宿神社の祭礼 御霊移しの神事
御霊移しの神事(2009年、以下全て)

神様を神輿に移す神事です。

三宿神社の祭礼 氏子総代からのあいさつ
氏子総代からのあいさつ

気を付けて回っていきましょうといった感じです。

年によって時間は違うかもしれませんが、訪れた2009年は、本祭の10時に大祭式が行われ、12時から神輿に御霊を移す神事が拝殿前で行われ、その後、神輿の渡御となりました。

拝殿の周辺は木々が多く、神事の様子はなかなか雰囲気がよかったです。ただ、拝殿の東側は墓地。祭礼日は9月23日と彼岸の中日。拝殿の東側に立って見学していると、ほんのりと線香のにおいが漂ってきて、神仏習合的な雰囲気を感じたりします。

三宿神社の祭礼 神輿の移動
神輿の移動

境内の中はただ運んでいるだけです。

三宿神社の祭礼 苦戦しながら参道を進む神輿
苦戦する参道

屋台並ぶ一の鳥居付近は狭くて苦労していました。

神事が終了し、総代のあいさつが終わると、いよいよ神輿渡御となるのですが、このまま拝殿前から出発していくのではなく、いったん神輿を神社の外に降ろします。

ただ運んでいくだけですが、木々が多い境内の移動は雰囲気がよく、素敵でした。問題は一の鳥居付近の参道。ここは両脇に屋台が並んでいるので、神輿を通すのが大変で、苦労していました。神輿が小ぶりで良かった・・・という感じでしょうか。

三宿神社の祭礼 太鼓車などのお祓い
太鼓車などのお祓い

多くの子供が参加し、多くの保護者が見守ります。

神輿は参道横のスペース、社務所前になるでしょうか。そこに置かれ、拝殿まで上がれなかった太鼓車、そして神事に参加できなかった子供たちのお祓いが神職によって行われます。

神事が始まる前に通った時にも子供たちが多くいるな・・・と感じたのですが、神事を行っている間にさらに増えていて、神社前の路上は参加する子供たちとその保護者であふれかえっていました。

三宿に暮らす子供たちがすべて集結したのでは・・・というのは大袈裟ですが、想像していた以上の人数にとてもビックリしました。

三宿神社の祭礼 太鼓引きに参加する子供たち
太鼓引きに参加する子供たち

大勢参加し、とても長い列になっていました。

三宿神社の祭礼 太鼓車の出発と見守る総代と神職
太鼓車の出発と見守る総代と神職

ここの太鼓山車は車の上に人が乗って太鼓を叩くようになっています。

町内を渡御するのは、太鼓車、子供神輿2基、そして大人神輿となります。お祓いが終わると、まず先陣を切って太鼓車が出発していきます。

太鼓引きに参加する子供は多く、太鼓車を引くロープの前にはとても長い列ができます。隣が幼稚園という立地がその原因の一つになっているのは間違いありません。

祭礼関係者にとっては、参加する子供が多ければ多いほど賑やかな渡御となるので、この光景に笑みがこぼれてくるはずです。

ただ、現実問題として、あまりに子供が多いと、参加賞として配布するお菓子が足りるだろうか・・・といった心配になり、複雑な表情をしている関係者も多かったりします。ここではいつも通りといった感じで、そんな不安そうな表情はなかったです。

三宿神社の祭礼 出発前の神輿
出発前の神輿

大中小の三つの神輿が町を周ります。

三宿神社の祭礼 子供神輿・小の出発
子供神輿・小の出発

いかにも子供サイズの神輿です。

三宿神社の祭礼 子供御輿・中の渡御
子供御輿・中の渡御

少し大きめの神輿です。慣れないながらも元気よく進んでいました。

太鼓車が出発すると、子供神輿の出発になります。まずは小さい方の子供神輿が出発していきます。担ぎ手は小学生の低学年ぐらいでしょうか。

次に中型の子供神輿が出発します。こちらは小学生の中~高学年になるでしょうか。この神輿は子供が担ぐには少し大きく、担ぎ棒を4本取り付け、大勢で担ぎます。大勢の子供たちが元気に担ぐ様子はなかなか迫力があります。神輿はあまり揺れませんが・・・。

三宿神社の祭礼 大人神輿の出発の手締め
出発の手締め

集まった担ぎ手は・・・少ないです。

三宿神社の祭礼 大人神輿の出発
大人神輿の出発

静かな雰囲気の中を出発していきます。

三宿神社の祭礼 大人御輿の渡御の様子
大人御輿の渡御の様子

人が少ないのもあって静かな渡御でした。

最後に大人神輿が出発します。凄まじい行列となる太鼓車、そして多くの子供たちで担ぐ子供神輿が出発してしまうと、とたんに辺りに人がいなくなります。おまけに担ぐ人まであまりいなく、あらら・・・と、ちょっと肩透かしを食らったような気分。

ちょっと寂しい中を出発していく大人神輿ですが、担ぎ手があまりいなく、年配の方々が少数精鋭で頑張っているといった感じでした。威勢の良さという点では物足りない感じですが、オシャレな町三宿といったイメージで考えるなら、野暮ったさがなくて三宿らしいのかもしれません。

担ぎ方や渡御で特徴的なことはありませんが、ここ三宿では「十締め」の手締めが少し早いテンポで行われるそうです。

三宿神社の祭礼 路地を押し寄せてくる太鼓車の列
太鼓車の先頭

狭い道を大挙してくる感じです。

三宿神社の祭礼 路地を進む太鼓車や子供神輿
路地を進む太鼓車や子供神輿

狭い路地が人で埋め尽くされます。

三宿地域は狭い路地が多い地域です。そういった路地を長い行列となった太鼓車が進んでいくのですが、これがなかなか大変。

曲がり角ではロープや子供達が家の角や電信柱などの障害物に引っかからないようにしなければならないし、小さな子供はなかなか思い通りに動いてくれないしと、運行係は四苦八苦していました。もちろんすれ違う通行人も大変です。

三宿神社の祭礼 商店街を進む太鼓車の行列
商店街を進む太鼓車の行列

ひたすら建物の間を進んでいきます。

三宿地域は世田谷でもあまり名誉ではない称号を持っています。それは区内で緑が一番少ない地域という称号です。

三宿神社がある付近は三宿の中でも緑が集中している地域で、神社の前には烏山川緑道、後ろには三宿の森公園があり、神社の木々と合わせると緑豊かな印象を受けます。

しかし、実際に神輿について三宿の町を歩いてみると、ひたすら住宅地、そして商店街と、無機質な風景ばかり。やっぱり緑が少ないんだ。三宿は・・・といった事を実感しました。

それと同時に、私の中では三宿というのはお洒落な町といったイメージが強かったのですが、実際は下町っぽい雰囲気が強いのでは・・・という事を感じたのも、この時です。

5、感想など

三宿神社 イチョウの落ち葉と拝殿の写真
イチョウの落ち葉と拝殿

紅葉時期の散策はお勧めです。

三宿にある三宿神社は、面白い歴史を持った神社で、稲荷さんを祀っていると見せかけて、実は毘沙門天を祀っているといった隠し要素があります。特に秋祭りの時はそういった要素が強くなり、面白く感じます。

でも、それよりも境内の紅葉、特にイチョウの紅葉が素敵だったことの方が印象に残っています。紅葉時期の散策はお勧めです。

秋祭りの方は、宅地化が早く進んだことで伝統的な風習や芸能が廃れるのも早かったと想像できるのですが、平成13年まで三宿神社の特徴であった「たぬき囃子」が秋祭りで行われていたのはちょっと驚きです。

しかしながら、現在ではそれも行われなくなり、収穫を感謝するような農業関係者はいなく、露店ばかりが多いといったごくありふれた都会の秋祭りになってしまったな・・・といった感想になるでしょうか。

世田谷の秋祭り #2
三宿神社と例大祭
2025年9月改訂 - 風の旅人
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・地図・アクセス等

・住所三宿2-27-6
・アクセス最寄り駅は田園都市線池尻大橋駅、あるいは三軒茶屋駅。駅から少し離れています。
・関連リンクーーー
・備考ーーー
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