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せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.84

用賀観音の無量寺

境内に一際高く大イチョウが茂る。用賀観音と呼ばれるのは十一面観音像で、品川の浜で漁師の網にかかったのがここに祀られるようになったという。かつては観音講が組織され賑わったが、今は静かな境内だ。昼下がり近くの小学校のチャイムがのどかに響く。(せたがや百景公式紹介文の引用)

・場所 : 用賀4-20-1
・備考 : ーーー

*** 無量寺の写真 ***

無量寺境内の写真
無量寺の山門付近

イチョウを中心に緑の多い境内です。

無量寺境内の写真
山門

桜の時期も絵になります。

無量寺境内の写真
参道

山門を入ると大きな南無阿弥陀仏の石碑があります。

無量寺境内の写真
境内の様子

参道の真ん中に銀杏の木があります。

無量寺境内の写真
本堂

白壁が美しい建物です。

無量寺境内の写真
本堂の額字

 

無量寺境内の写真
観音堂

用賀観音の十一面観音像が祀られています。

無量寺境内の写真
観音堂前の石仏

これは六面六地蔵となるのでしょうか。

無量寺境内の写真
草木供養の碑
無量寺境内の写真
慈光観世音
無量寺境内の写真
確か開山を行った住職の碑

詳細を忘れました・・・。

無量寺境内の写真
門前前のお地蔵様

ユニークな顔立ちをしています。

無量寺境内の写真
下から見たイチョウの木

背は高いけど下の方には枝がない木です

無量寺境内の写真
墓地から見たイチョウの木

 

* 用賀無量寺について *

新しい町という印象が強い用賀にあって歴史を感じさせる数少ないものの一つがこの無量寺です。どことなく歴史を感じる門構え、そして境内にそびえている大イチョウ。そしてなにより規則正しく碁盤の目のように整備されている用賀地区(用賀駅から世田谷通りの間)にあって、この無量寺のある区画だけは少し歪な形をしています。

玉川地区の区画整備が行われる以前からここに鎮座し、村長によって強行された区画整備(玉川神社の項を参照)にも神仏の力で負けなかったに違いありません。

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無量寺・・・、感無量とか、言葉で表せない感情の大きさを表しているというか、アナログっぽいというか、個人的にはとってもいい響きの名前に感じるお寺です。でも一つ間違えると無料寺って、、、安っぽくなってしまうからご注意。でも主婦の方がお参りすれば買い物上手になれたりして・・・。

とまあそれはさておき、無量寺は浄土宗に属し、芝の西応寺の末寺で、名前の由来は浄土三部経の中に阿弥陀経があり、その無量寿仏から名づけられたそうです。歴史に関してははっきりしませんが、開山は光蓮社明誉寿広和尚で、「文禄三年(1594年)八月十六日示寂ス」と、新編武蔵国風土記稿に記されているそうです。本尊は約45cmほどの三尊阿弥陀如来坐像で、製作者は春日といわれています。

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この無量寺、住宅街の中にあってこの一角だけは緑豊かな空間となっています。用賀と言えば開村の時に建てられ、村人の多くが檀家だった旧街道近くの真福寺の方が名が知れていますが、商店街近くにあるせいか、今では現代的な雰囲気となってしまっています。現在のお寺としての趣きは無量寺の方がいいように思います。

山門の前には幾つものお地蔵さんが置かれていますが、これは用賀界わいに置かれていたお地蔵様が住宅地造成の際などに移転されたものが中心です。個性豊かなお地蔵様が門前に並んでいる様子はとっても和みます。山門から中に入ると、目の前に大きな「南無阿弥陀佛」と書かれた石碑がドカッてあります。これだけ目立っていると思わず拝んでしまいたくなってしまいます。

そしてその奥に大イチョウが聳えています。このイチョウの木の背の高いこと。椰子の木を連想してしまうぐらい不自然に背が高いイチョウです。樹齢はどのくらいでしょうか。記載されていなかったのでよくわかりませんが、私なりに推測すると、森厳寺のイチョウには負けるとして永安寺のイチョウとはいい勝負ができる感じでしょうか。そう考えると、樹齢にすると二百年ぐらいになるのかな・・・。

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イチョウの木の奥に本堂があります。入り口の山門から見ると斜め向き。しかも参道の真ん中に銀杏の木があって邪魔しているしと、ちょっと違和感を感じていたのですが、後で知るところによると、昔は横の細い道沿いに山門があったようです。だから現在の入り口から入ると違和感を感じる配置となっているのです。先に書いたように碁盤の目のようになっている用賀地区にあって、この細い道はとっても違和感のある道です。当時は寺の山門があったから斜めのままの道が残されたようです。

話を戻すと、本堂は何時建てられたものなのか分かりませんが、白壁の美しいお堂です。その本堂の脇にあるのが、無量寺名物の観音堂です。百景の文章を補完すると、天正の頃(1573~86)、用賀の住人であった高橋六右衛門尉直住という人が、品川の浜で漁師の網に上げられた観音様を譲り受け、自宅に祀りました。しかし、夢枕で観音様が無量寺に安置して欲しいと告げてきたので、無量寺に祀ったという伝説があります。これは巻物に残っているそうです。はたして真実のほどは・・・。

実際のところ、この十一面観音は行基の作といわれています。観音様は十二年に一回午の年に開帳されるそうです。タイミングが合えば是非と言いたいのですが、ちょっと気の長くなります。説明文にある観音講とは、お十夜の時に集まり、説法を行い、そのまま寺に泊り込んで、酒を酌み交わしたり、踊りをしたりしたもので、娯楽の少ない時代にあってストレス解消のリクリエーションを兼ねた行事だったようです。境内には古着の市や夜店が並び、冬の前の農民の楽しみとなっていました。太平洋戦争前まで熱心な講中の人々によって続けられていたようです。

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場所柄というか、間口の狭さというか、元々あまり存在感のなかった無量寺ですが、現在では隣(墓地側)には大きなスーパーができ、より影が薄くなってしまった感じです。その墓地側の通りは用賀プロムナードといって砧公園まで続く遊歩道っぽい道になっています。

スーパーができる前までは空き地だったり、レンタカー会社だったり、駐車場だったりと墓地の横のプロムナードは薄暗く、冬などは壁に立てかけられた卒塔婆がバタバタと音を立てて揺れ、ほんのりゲゲゲの鬼太郎の世界。お寺があるんだと身にしみて感じていたのですが、今では明るくなってしまったので、そんな気配さえもなくなってしまいました。時々線香の匂いが漂ってくるときに思い出す程度です。

また紹介文にある近くの小学校チャイムとはすぐ裏手にある京西小学校のことです。この京西小学校は伊藤博文が命名し、明治12年に開校したことで知られています。東京の西にある学校という意味・・・ってそのままですね。もともとは玉川台にあった(玉川台図書館のすぐ近くに碑がたっている)のですが、暴雨風のために校舎が壊れ、真福寺を仮校舎とした後、昭和13年にこの場所に移ってきました。

<せたがや百景 No.84 用賀観音の無量寺 2008年6月初稿 - 2015年10月改訂>