瀬田の行善寺と行善寺坂
瀬田1-12-23急勾配の行善寺坂を登りきったところに行善寺がある。昔、寺の境内からは多摩川の眺望が開け、行善寺八景とうたわれた。行善寺坂はもと大山道の一部だった道で、この街道は八十八坂七曲といわれるほど起伏の多い地形を通っていた。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、瀬田の行善寺について

環八と玉川通りが交わる交差点です。
瀬田と言えば、交通の大動脈である国道246号と環八(環状8号線)が交わる瀬田交差点が一番広く世間に知られているでしょうか。
瀬田の交差点では、国道246号はアンダーパス化されているからいいものの、環八の方は内回り、外回りとも渋滞が激しく、交通情報で「瀬田交差点を先頭に3キロ渋滞中」などと聞くことが多いです。
渋滞の原因は、交通集中に拠ることが一番ですが、渋滞を増長させている要因の一つに、この交差点に用賀から斜めに入って来る第三の道がある事です。この道にも信号の時間が割り当てられているので、その分、渋滞の列が長くなってしまいます。

*国土地理院地図を書き込んで使用
この用賀からの道は、バイパスができる前の国道246号で、かつての大山道と重なります。大山道は、用賀を過ぎると行善寺坂ルート(南大山道)と、慈眼寺坂ルート(北大山道)に分かれていました。ちょうど延命地蔵がある場所です。
南大山道は、現在の瀬田交差点を斜めに突っ切るような形で交差していき、交差点の近くにある交番から脇道にそれていきます。この道はいかにも旧道っぽい一車線の道で、緩やかにカーブしながら国分寺崖線を下っていき、多摩川に設置されていた二子の渡しへ向かいます。

旧大山道に面しています。
この道が本格的に下り始める前、二子玉川からなら坂を上りきった場所に行善寺があります。
行善寺について書く前に、寺が立地している瀬田についてちょっと触れておきたいと思います。瀬田の歴史は古く、地名は奈良時代から平安初期に書かれた倭名抄に多磨郡勢多郷と記されているほどです。(*世田谷全体を差しているという説もあり)
その当時は、昭和になって分離した玉川(二子玉川)や玉川台はもちろん、用賀などを含むもっと広い地域のことを勢田と呼んでいたのでは・・・と考えられています。
瀬田が発展していた理由は、鎌倉時代には鎌倉を中心とした鎌倉道が整備され、東へ向かう主要な3本の道の真ん中、「中の道」が二子の渡しで多摩川を渡り、瀬田を通っていた事が挙げられます。

ゴールデンウィークに行われます。
室町~戦国時代、瀬田は世田谷城に拠点を持つ吉良氏の支配地域になります。ただ、吉良氏の世田谷統治の後半は、関東一円を支配していた北条氏に従属するような形でした。
永禄年間(1558~69年)には、北条氏の直臣長崎伊予守重光と、その子、重高がこの瀬田の地を賜って居を移し、瀬田城を築いたとされています。
瀬田城は行善寺の少し北側、少し前まで瀬田小学校の南側にゴルフ練習場があったのですが、その付近に立地していたとされています。
ただ、同じ時期にやってきた北条氏の家臣、南条氏が深沢に造った兎々呂城も簡単な土塁で囲った砦のような存在だった事を考えると、ここも小規模な簡易的な砦だったと思われます。
城の遺構は全く残っていなく、小さな「長崎館跡」と刻まれた石柱がゴルフ練習場の入り口付近に設置されているだけでしたが、ゴルフ練習場がなくなり、区画全体で再開発が行われたので、今では撤去されているかもしれません。

近代的な建物です。
この瀬田城を築いた北条家臣、長崎伊予守重光が行善寺の開基となります。小田原からこの地に移ってくる際、菩提寺だった道栄寺から先祖の位牌を携えてきました。そして、それを祀るための寺を建てました。これが行善寺の前身となるようです。
開山は法蓮社印誉上人伝公和尚。寺の名前はそのまま道栄寺にしたのか、別の名にしたのか、最初っから行善寺にしていたのかは分かりません。
この長崎伊予守重光の法名が行善である事から考えるに、その子、重高が、父の死後に中興開基を行い、寺の名前を「行善寺」にしたというのが一番しっくりするような気がします。

民家園の母屋です。紅葉時は背景が彩り豊かになります。
戦国時代末期、豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏は滅亡しました。同盟関係の世田谷吉良氏もこの地を追われ、世田谷は徳川の直轄地になります。瀬田の領主だった長崎家は、そのまま土着し、名主として帰農しました。
武将から農民になっても瀬田で影響力を持ち続けていたようで、瀬田玉川神社は長崎家が戦国時代に勧請したものを、江戸時代に名主の財力で、現在の場所に社殿を建て、遷宮したとされています。
岡本民家園には、本家なのか、分家なのかわかりませんが、長崎家で使われていた江戸時代の立派な藁葺きの家屋が保存展示されています。

山門横のヒノキはとても立派な大木です。
行善寺も長崎家の菩提寺として、ずっと守られてきました。現在の正式寺名は、獅子山西光院行善寺で、浄土宗の寺となります。あまり往来のない道沿いにひっそりとあるといった感じです。
開基当時は坂の下にあり、寛永の初め頃、度重なる多摩川の洪水により、坂の上に移築したという話も残っています。
近代的な門から境内に入ると、参道の真ん中に古めかしい木製の山門がポツンとあります。建立年代は木鼻の渦紋等から江戸末期と推定されているそうです。ちょっと変わった配置になりますが、明治期に起きた火災で焼失せずに残った大事な門なので、このような配置になっているのでしょう。
この山門の横には三つ叉の立派なヒノキがあります。保存樹に指定されていて、世田谷銘木百選の番外編に、その珍しい形状から三叉ヒノキとして紹介されています。

入り口すぐ横に建てられています。
山門の奥に本堂があるのですが、近代的な建物です。行善寺の本堂は明治19年に火災で多くの寺宝とともに焼失してしまったそうです。
その後、木造で再建されたものの、昭和39年に現代風のデザインをした鉄筋コンクリート造りの建物を建立しています。客殿なども、同じように近代的な建物となっています。

三味線に使用された猫を供養した塚です。
境内には猫塚という変わった塚があります。何ゆえにここに猫塚があるの?住職が猫好きなのかな。実はここにも招き猫伝説があったりして・・・。いやいや、二子玉のセレブが飼いネコのために寄贈したのかもしれない・・・。一番最初に見たときは、そんなことを想像したのですが、全然違いました。
江戸から昭和の初めにかけて、多摩川は水が清く、景色がいいため、人々の格好の行楽地となっていました。とりわけ、明治の終わりに玉電が開通してからは、大いに賑わったそうです。

*国土地理院地図を書き込んで使用
川沿いには多くの料亭が建ち並び、また遊郭などもあって、世田谷随一の歓楽街となっていました。特に鮎漁の季節に賑わい、料亭や屋形船でとれたての鮎を食べて楽しんだそうです。明治の終わりには、料亭街が企画して花火大会を行ったという記録もあります。
歓楽街では芸者遊びに欠かせない三味線が多く必要でした。昔の三味線は猫の皮を胴体部分に張って作っていました。その為、多くの猫が三味線の材料となるために殺されました。その霊を鎮魂し、猫に感謝するために作られたのが、この猫塚です。
もともとは川沿いの歓楽街にあったようですが、周辺の住宅地化のおりにここの境内に移されました。

中には如意輪観音様が祀られています。
その他、境内に入ってすぐ左側に小さな観音堂があります。堂内には如意輪観音が祀られていて、時間帯によっては窓からの光がスポットライトのようになり、とても幻想的です。
本堂の前には大石をくりぬいた水盤へ水を注ぐ観音様がいたり、墓地にも大きな観音様の姿があるなど、多くの観音様が境内に祀られています。
2、行善寺八景

この奥は眺望が開けています。
行善寺は街道である大山道に面していて、しかも眺めのいい国分寺崖線の先端に位置していることから、風光明媚というと大袈裟ですが、境内からの眺望がよく、その眺めは江戸時代には行善寺八景として知られていました。
なんでも徳川将軍家も遊覧の際にしばしば立ち寄ったそうです。例えば、天保3年に徳川家慶が玉川鮎御成の際に長崎家で休息していますが、こういった折に行善寺にも立ち寄っていたのかもしれません。その他、多くの文人墨客が訪れたという話です。

夕日が玉川高島屋に沈んでいきました・・・。
本殿の脇に行善寺八景の石柱が立ち、現在でも本殿の裏からその眺望を眺めることができます。
行善寺八景というのは、江戸時代後期の儒学者であり、歌人でもある成島司直の「玉川遊記」に書かれている「瀬田黄稲」「岡本紅葉」「大蔵夜雨」「登戸晩鐘」「富士晴雪」「川辺夕烟」「吉沢暁月」「二子帰帆」の八つです。

現在の二子玉川地域は一面建物で埋め尽くされています。
最初訪れた時は、行善寺八景ってなんだろう?解説もないし・・・。と、よく分からずに帰ったのですが、後日、詳細を知り、改めて訪れて確認してみましたが、多摩川さえほとんど見えないほど、崖下の土地は住宅で埋め尽くされていました。
目の前には玉川高島屋がドンとあり、辺り一面にビルと住宅が建ち並んでいます。本当に建物だらけで、行善寺八景的に表現するなら、「玉川居満」って感じでしょうか。

富士山は今でも見えるのですが・・・
「瀬田黄稲」「二子帰帆」は完全に過去のもの。「登戸晩鐘」も現在の騒々しい世の中では聞こえないでしょう。「大蔵夜雨」「川辺夕烟」「吉沢暁月」は、条件次第でかろうじて見えるかも・・・といった感じで、絶景とは程遠い状態です。
「富士晴雪」ならいけるかも。と、冬の晴れた朝に訪れてみると、「富士晴雪」の通りに雪をかぶった富士山はきれいに見ることができましたが、風景として考えるなら、国道246号の高架橋や対岸のマンションが邪魔をしていて、絶景とは言えませんでした。

もみじが丘方面の眺めですが、緑が多いもののいまいちです。
岡本の紅葉も、建物が邪魔をしているのと、温暖化の影響なのか、いまいちきれいに紅葉していませんでした(71、岡本もみじが丘参照)。
残念ながら、行善寺八景は完全に過去の風景となってしまったようです。でも、そんなに悪い風景ではないので、江戸時代に思いを馳せながら眺めてみるのも悪くないかと思います。
ちなみに、行善寺のある場所は中世に瀬田城の城郭の一部をなしていた場所と推測されていますが、それ以前では弥生時代に環濠集落があった事で知られています。境内から環濠の跡と多くの土器が見つかっています。
すぐ北側にあるマンション(パークコート)の建設の際にも、古墳時代前期の村跡が見つかっているので、古代人もここからの眺めを堪能していたようです。
3、行善寺坂と大山道

とても雰囲気の良い坂です。
用賀駅前の旧玉川通りを瀬田の交差点方向へ向かうと、途中に延命地蔵堂があります。当時ここで大山道は行善寺ルート(南大山道)と慈願寺ルート(北大山道)と別れていました。
なぜ二つに分かれていたのかはいまいちよく分かっていないので、ここでは触れないことにして、この行善寺の前を通るのが行善寺ルートで、行善寺の前から下っていく坂が行善寺坂と呼ばれています。
現在もこの坂は昔ながらの細い道のままなので、下りのみの一方通行となっています。坂の途中で緩やかに湾曲しているところなどは、昔ながらの坂道といった感じがして情緒を感じます。
それと気になったのが、坂の両脇にあるお宅の生垣がきれいなこと。坂の途中の斜面なので、手入れも普通の住宅以上に大変でしょうが、こういったお宅のおかげで坂全体がとってもいい雰囲気に思えます。

微妙な位置にあります。

こっちの狭い坂が行火坂なのでしょうか。
坂の中ほどに行火坂(あんかざか)の石柱が建てられています。微妙な位置に据えられていえ、これは二通りの解釈があります。
一つ目の解釈は、行善寺坂の別称という解釈で、もう一つは、この石柱がある場所から登っていく短い坂のことを指しているという解釈です。
どちらにせよ、勾配が急なために上るだけで体が熱くなるので「あんか坂」と名が付いたようです。ちなみに「行火」とは炭火を入れて手足を暖める小ぶりな暖房具のことです。

行善寺よりも少し瀬田交差点側にあるのどかな雰囲気の坂です。
その他、行善寺よりも少し瀬田交差点側には瀬田夕日坂といった面白い坂もありました。こういう小道っぽい坂は趣きがあっていいですね。
行善寺坂だけではなく、他の坂も一緒に散策してみるのもいいかと思います。

行善寺坂を下った川沿いの狭い道にあります。
行善寺坂を下ると、丸子川にぶつかります。かつての六郷用水を利用した川で、岡本にある水神橋付近から流れが始まり、岡本民家園前などを流れて二子玉川にやって来て、ここからは野毛の善養寺などの前を通り、最終的には田園調布で多摩川に合流しています。
この丸子川に沿って道が通っているのですが、これが狭いこと。車がすれ違うのがやっとの幅しかない道なのに、交通量が多く、自転車で通ると結構怖いです。
この道を左に曲がると、大山道道標が道脇に建っています。ちゃんと台座を付けられて、「南大山道標」と刻した新しい石柱が脇に添えられているものの、その本体たるやボロボロ。補修の後が痛々しいです。
車にぶつけられて破損してしまったのでしょうか。一応これ以上壊れないようにと、台座とガードレールが付けられていますが、ガードレールが既にボコボコになっている現状を考えると・・・心許ないような気がします。

修復の跡が痛々しいです。
行善寺坂から少しずれてこの石碑があるのは、昔は行善寺坂からまっすぐに多摩川へ向かう道がなかったためだと言われています。
なんでそんな不便なことをするの。ってことになりますが、当時の荷を満載した荷車が坂を下るときのブレーキは、棍棒などのズリブレーキ。とてもお粗末なものでした。止まらずに勢いよくまっすぐ行っては危険だからと、安全を考慮してそうしていたようです。
実際、止まりきれず突き当たりの田圃へとひっくり返る荷車が多かったという資料もあり、行善寺坂は結構な難所だったことが伺えます。
4、感想など

光の中で優しくたたずんでいました。
旧大山道沿いにあり、ちょうど崖の上にある行善寺。多くの旅人が崖を登って境内で一休みしたり、行善寺八景とうたわれた眺望を楽しんだに違いありませんが、残念ながらかつて行善寺八景とうたわれた境内からの眺望は今では過去のものとなってしまいました。
とはいえ、今でも境内から二子玉川を眺めることができます。かつては田畑や湿地帯ばかりだった土地がどんどんと造成され、家が一軒、また一軒と建っていった様子は、ここからよく見えたことでしょう。
二子玉川が田畑ばかりで、多摩川に船が浮かんでいたころを想像してみたり、大きな商業地に変貌していった過程などを考えながら二子玉川の町を眺めてみるのも面白いものです。
せたがや百景 No.81瀬田の行善寺と行善寺坂 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 瀬田1丁目12−23(行善寺) |
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・アクセス | 最寄り駅は田園都市線二子玉川駅、坂を上りたくなければ用賀駅。 |
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