世田谷散策記 タイトル
せたがや百景 No.2

大山道と池尻稲荷

せたがや地域風景資産 #1-1

池尻稲荷神社を中心とする旧大山道

池尻2-34-15(池尻稲荷神社)

大山道の面影を訪ねることができる。街道沿いにあった池尻稲荷には「涸れずの井戸」がいまもこんこんと湧いている。江戸市中を発った旅人は道筋ここまで飲み水がなく、この井戸で喉を潤したという。(せたがや百景公式紹介文の引用)

広告

1、大山道について

池尻稲荷神社から見る国道246号
池尻稲荷神社から見る国道246号

頭上には首都高、地下には田園都市線が通るという交通の大動脈となっています。

世田谷区内を通っている幹線道路の一つに国道246号、通称、玉川通りがあります。玉川通りは世田谷区の東端の池尻から西端の二子玉川を横断しているだけではなく、東京と神奈川の内陸部を結ぶ首都圏交通の大動脈にもなっています。

この玉川通りが多摩川を渡って神奈川県に入ると、通称が厚木大山街道に変わります。この名前の通り、国道246号は江戸時代の旧街道である大山道になぞって整備されたものです。

旧大山道は赤坂見附から始まり、青山~渋谷~三軒茶屋~ボロ市通り~二子玉川~溝口~厚木、そして山岳信仰の聖地である大山阿夫利神社へと続いていました。

ただ、現在の国道246号の大部分は新たにバイパス化して整備されているので、昔の道筋と重なる部分は少なかったりします。

大山阿夫利神社の門前町
大山阿夫利神社の門前町(神奈川県伊勢原市)

宿坊や講碑が並ぶ旧参道は今もなお昔ながらの雰囲気が残っています。

で、街道の名にもなっている大山阿夫利神社というのは、なんの神社なの。いったい何があるの?ということになるのですが、大山阿夫利神社は関東では雨乞いの神様として名が知れた存在で、実際、江戸から多くの人が参拝に訪れていました。農村であった世田谷からも雨乞いの講が出ていたようです。

もっとも農業にあまり関係のない江戸の中心部に住む江戸っ子には、伊勢神宮や富士山は遠いので、比較的手軽な大山でいいかなといった感じで人気があったようです。そもそもとして、伊勢参りにしても、大山参りにしても、江戸時代の人には旅に出る口実というのが本音で、実際のところは娯楽要素が強い旅でした。

弦巻にある大山詣の旅人の像
弦巻にある大山詣の旅人の像

池尻稲荷神社の像とセットで設置された感じです。

えぇ~!娯楽で大山まで歩いていくの・・・。現代人の発想では、途中や目的地に娯楽があったとしても、長い距離を何日もかけて歩いて参拝することは、娯楽ではなく、立派な苦行の旅。正気の沙汰ではない。となるでしょう。

「旅とは辿り着くことよりも旅の経過を楽しむことにあり」というのが、昔の、いや、本来の旅のスタイルになります。

しかし、現代の世の中では移動が簡単になり、苦労することなく遠くへ行くことができてしまうものだから、移動できることは当たり前、いかにストレスなく移動できるかが肝になっていて、移動の部分よりも、目的地でいかに楽しむかという事の方が重要になってしまいました。

だから現代では、旅の移動に醍醐味を感じる人は少なくなり、長い時間がかかったり、体力を使ったり、手間がかかるような移動に苦痛を感じたり、拒否反応が出る人が多いのです。

それに時間的制約の多い現代ですから、仮にそういった旅に興味や憧れを抱いたとしても、旅に長い時間を費やすことが難しいといった現実もあります。

池尻稲荷神社付近の旧大山道
池尻稲荷神社付近の旧大山道

ゆったりとカーブしているぐらいで普通の道です。

話を大山道に戻すと、池尻大橋駅の南口付近、国道246号の南側から斜めに枝分かれしていく細い道があります。この道は緩やかに湾曲した道で、道なりに進んで行くと、三宿の交差点付近で再び国道246号に合流します。

この道はかつての大山道で、明治40年に玉電の軌道を施設する際に大山道が真っ直ぐに整備されたので、今では交通量の少ない旧道となっています。

バイパス化などによって取り残された旧街道が、昔の面影を色濃く残している事は多いのですが、残念ながらここではゆったりと道が旧道らしくカーブしていることぐらいしか昔の面影を感じることはありません。

そもそも池尻稲荷神社を中心とした池尻地域は、江戸時代には農家が数十軒あるほどの農村地域で、普通の人が旧街道といって真っ先に想像するような宿場町のような街並みはありませんでした。

それは目黒川の北部に幕府の狩猟地や薬園地などがあった事も一因のようで、今では想像もできないような寂れた地域だったようです。

戦時中の三宿の航空写真(国土地理院)
1944年頃の三宿

国土地理院地図を書き込んで使用

そんな寂れた地域に変化が訪れたのは、明治24年。現在の池尻4丁目に騎兵第一大隊の兵舎が造られました。

明治30年になると、現在の池尻1丁目と2丁目の一部に広大な駒沢練兵場が造られ、翌年には近衛野砲兵連隊、野砲兵第一連隊が練兵場の西部、現在の昭和女子大や都営住宅の場所に造られました。

何もない農村だった地域が急に軍事地域となったことで、地域が活性化していき、兵隊相手の商店や旅館が街道沿いに並び、池尻周辺の人口が増大していきました。

大正時代になると、鉄道の開通と共に世田谷自体の人口が増えていき、関東大震災後は爆発的に人口が流入していきます。

昭和になり、太平洋戦争が勃発すると、軍事基地のある池尻が空襲の標的にならないはずはなく、多くの家々が焼けることとなります。

戦後の三宿の航空写真(国土地理院)
戦後の駒沢練兵場

国土地理院地図を使用

戦後になると、軍事施設は役割を終えます。ただ、敗戦した日本、特に東京は極度の住宅不足に陥っていました。そこで各地の軍事施設がそういった人達の受け皿になりました。

池尻や三宿にあった駒沢練兵場や近衛野砲兵連隊営などといった軍事施設も、外地からの引揚者や空襲によって焼け出された人などが暮らす場所となり、演習場は畑で埋め尽くされます。

この地域は都内におけるもっとも大規模な戦後型スラムとなり、世田谷郷と呼ばれていたという話です。

都営住宅の建設や生活向上などでスラムが解消したのち、その跡地は世田谷公園や小中学校などへと変わっていき、町の環境は格段に向上します。そして都心から近い地の利もあって多くの家やアパートが建てられていき、賑やかで、お洒落な町へと変わっていきました。

池尻稲荷神社付近の旧大山道 池尻稲荷神社例大祭の日の旧大山道
池尻稲荷神社例大祭の日の旧大山道

一年で一番賑わうのではないでしょうか。

といったわけで、江戸時代は何もない農村だったし、明治になって賑やかになってもそれは兵隊相手の町として開けたものだし、明治30年頃には現在の246号の場所に新道が作られて旧道となっているし、更には戦災にも遭っているので、池尻の旧大山道を歩いても、昭和初期まで盛んに行われていた大山詣を彷彿させるような面影は感じられません。

唯一当時の面影を求めるなら、戦災を免れた池尻の鎮守である池尻稲荷神社と、その境内にある涸れずの井戸という事になります。

広告

2、池尻稲荷神社について

池尻稲荷神社の旧道側の入り口
旧道側の入り口

鳥居前に旧大山道の石碑とかごめかごめの像があります。

池尻稲荷神社は世田谷区の一番東側にある大山道関連の名残りとなります。神社は、現在の幹線道路である国道246号にも、大山道の名残りである旧道にも面しています。

旧道側の入り口付近には枯れずの井戸の碑と遊ぶ子供の像が設置されています。

これは奉公に出された少女が、赤ん坊を背負いながら幼い子どもと「かごめかごめ」の歌いながら遊んでいる光景をイメージして製作されたものだそうです。

きっと昔の境内ではこういった光景が当たり前のように繰り広げられていたのでしょう。

池尻稲荷神社の国道246号側の入り口
国道246号側の入り口

提灯が灯るといい雰囲気になります。

国道246側は、国道ができるときに敷地が削られたので、新しく作られた入り口となります。こちらには多くの提灯が並べられていて、大通りにあることからも少し華やかな感じの入り口です。

ただ、ここは大都会の幹線道路。普通に考えると、赤い提灯がずらっと並んでいればかなり目立つはずなのですが、周りはビルだらけだし、ネオンもあちこちで華やかに灯っています。なにより頭上には首都高速の高架があるので、246号を車で走っていてもあんまり存在感を感じなかったりします。

江戸名所図会 池尻祖師堂 
江戸名所図会 池尻祖師堂

東京都立中央図書館デジタルアーカイブを使用

創建は、由緒書きによると明暦年間(1655~57)で、稲荷の神、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祀っています。江戸時代は池尻村、池沢村の鎮守であり、「火伏せの稲荷、子育て稲荷」として地域の村民の信仰を集めていたようです。

別当(管理寺)となっていたのは、日蓮宗の常光院(こうこういん)。常光院の隅に稲荷社が勧請された形になります。

江戸名所図会(1830年代)では、常光院は池尻祖師堂となっています。この祖師堂というのは、除剣難(けんなんよけ)日蓮大士堂のことで、安置されているのは日蓮上人が自ら彫ったという「除剣難日蓮菩薩」でした。実際のところ、池尻稲荷の井戸よりも、この祖師堂目当てに訪れる人が多かったことでしょう。

ちなみに、この常光院ですが、弾圧によって天台宗の浄光院と改めたり、寺社奉行の裁定によって院の名を浄光庵に改め、無本寺となったりと、なかなか波乱万丈な経歴を持っています。残念ながら明治の神仏分離により廃寺となり、現存していません。

池尻稲荷神社の境内
ビルに囲まれた境内と社殿

ビルの谷間に神社があるといった都会的な感じの境内です。

それなりに歴史と由緒がある常光院と稲荷神社だったので、大きな敷地を擁していましたが、現在の神社境内はビルに囲まれていて、あまり広くありません。

社殿のすぐ横には社務所の入った大きなビルが建っているし、社殿の背後には首都高速が走っているのが見えるし、なんというか都会に多いビルの谷間にある神社ってな感じです。

土地の少ない都会では、神社や寺が都市化して、雰囲気がいまいちな感じになってしまうのはしょうがない事です。横にビルが建てられる前の写真を見ると、うっそうとした感じで木が茂り、首都高なども木々が隠していてそれなりの雰囲気が感じられる神社だったようです。

ちなみに、国道246号の道幅拡張で土地を売却する前は、神社の敷地は230坪余りあったそうです。

池尻稲荷神社 涸れずの井戸の碑
涸れずの井戸の碑

江戸時代は神社よりも常光院の祖師堂が有名だったので、池尻稲荷に関してはほとんど記述はありません。

ただ、「涸れずの井戸」と呼ばれる井戸でが有名だったようで、その記述が多いです。なんでも日照りが続いても涸れる事がなかったからそう呼ばれるようになったとかで、かつては街道を行きかう人々が喉を潤していたそうです。

特に雨乞いで大山に出かけるときには、必ず寄っていたそうです。縁起担ぎみたいなものでしょうか。それとも当時の「大山参り完全攻略」とか、「大山街道の歩き方」というようなガイドブックに書かれていたのでしょうか・・・笑。

とまあ、そういったこともあったかもしれませんが、実際問題として赤坂からここまでの間に飲用水がなく、街道を行き来する人はここの井戸の水を頼りにしていたとも言われています。

街道沿いに全く人が住んでいなかったわけでもないので、きっと誰でも気軽に休める道の駅的な存在だったのかもしれません。それに渋谷の坂を登って、下り、また緩やかに登っている場所に立地しているので、一休みするのにちょうどよかったのかもしれません。

江戸名所図会 池尻祖師堂
川の中の井戸?(江戸名所図会 池尻祖師堂)

東京都立中央図書館デジタルアーカイブを使用

それほど有名な井戸なら江戸名所図会にも描かれているのでは。と探してみるものの、そういった描画も記載もありませんでした。ただ、川の中に井戸っぽいものが描かれています。これが涸れずの井戸になるのでしょうか。川底から出る湧き水を囲って井戸のようにしたとか?それとも単なる洗い場?ミニいけす?よく分かりません。

もしかしたら神仏分離で常光院が廃寺となり、稲荷神社としての箔も話題もないので、井戸について強調したかった・・・といった切実な事情があったのかもしれません。

ちなみに、池尻の地名は池の端という意味からつけられたそうです。すぐそばを目黒川が流れ、そして隣の三宿は三軒の宿の意味ではなく、「水が宿る」という意味からなまって三宿になったことを考えれば、元々この辺りは池が多く、水の豊かな土地だったようです。江戸名所会の図でも神社周辺に多くの川や水路が流れているのを確認できます。

池尻稲荷神社の手水舎
手水舎

涸れずの井戸から水が引かれています。いろいろとご利益があるようです。

池尻稲荷神社 薬水の井戸の由緒書き
薬水の井戸の由緒書き

現在でも井戸(水脈)は涸れていないようで、手水舎の水はその井戸からポンプで汲み上げています。手水舎の後ろには案内板(神社によるもの)が設置されていて、それによると「薬水の井戸」というのが正式名称となるようです。

なんでも伏見稲荷のありがたい謂れがあり、「神の道を信じ勤めその病気の平癒を心に三度念じ、神の薬として飲みほせば薬力明神の力により、病気たちどころに快癒する」との事で、信仰心や強い想いがあれば病気が治ってしまう・・・かもしれません。

池尻稲荷神社の清姫稲荷神社
清姫稲荷神社

狐が逃げないように檻に入れられています・・・笑。

本殿に向かって左側にある小さなお社は清姫稲荷神社です。御神体が白蛇ではないかと伝えられているそうです。

清姫様が叶わぬ恋のために池に身を投げて白蛇の化身になったのでしょうか。特に由緒が書かれていませんでしたので勝手な推測で書いたのですが、きっと当たらずとも遠からずといった感じではないでしょうか。

池尻稲荷神社の水神社
水神社

また、手水舎の前にある社は水神社です。こちらもまた「水の神様=ヘビ」として祀られています。そう考えると、境内にはお稲荷様の狐だけではなく、実は蛇も沢山祀られている神社だったりします。「ヘビ」は智恵の象徴なので、よくお参りすると「学業成就」がかなうかもしれません。

その他、空襲で近隣が焼けたとき、境内にある二本の大ケヤキによって社殿が守られ、神社の消失が免れたという逸話や、祭りの時に境内に住み着いていた白蛇を蛇屋が持ち去ってしまい、その祟りで秋祭りの日には必ず雨が降るといった話も残っています。

3、地域風景資産について

高津の区民祭での大山講行列
高津の区民祭での大山講行列(川崎市高津区)

池尻からも参加したそうですが、ただ歩いているだけでした・・・。

せたがや地域風景資産でも「池尻稲荷神社を中心とする旧大山道」として登録されています。地域風景資産の活動は、平成20年11月の時点で「せたがや道楽会」「大山みちの会」という二つの団体がこの項目に携わっています。

活動といっても、大山参りをしていた頃の街道の面影を取り戻すようなことをしているわけではなく、写真展を行ったり、瓦版を制作したり、大山詣がデザインされた手ぬぐいを製作、販売したり、池尻稲荷神社で寄席を行ったり、大山道が通じている区外の地域との交流や町歩きを行ったりしているようです。

要は大山道を利用して地域のコミュニケーションを活性化させ、また他の街道沿いの地域とも交流することによってお互いに刺激し合いながら活動の幅を広げようといった趣旨のようです。かつては人や物を運ぶ街道でしたが、今では人の絆を運んでいるのですね。人があるところに道があり!ってなところでしょうか。

4、池尻五町会連合納涼盆踊り大会

池尻稲荷神社 池尻五町会連合納涼盆踊り大会
夏の池尻五町会連合納涼盆踊り大会

子供たちが太鼓をたたき、ご婦人方が踊るといった感じです。

池尻稲荷神社には宮司さんが常駐しています。受付時間内ならいつでも祈祷を受けることができ、神前結婚式も行うことができます。神社としてしっかり業務をしているので、秋祭り以外にも歳旦祭や節分祭、勧学祭などといった一般的な神事も行われています。こういった神事の日程などは神社の公式サイトで確認できます。

神事以外でも境内や社務所で地域の行事が行われます。一番規模の大きなものは夏に行われる池尻五町会連合納涼盆踊り大会。池尻地域の町会が協力して行う盆踊り大会で、境内に櫓が組まれ、櫓では各町の揃いの浴衣を着た婦人会の方々が見本となる踊りをし、櫓の周囲で一般の人などが踊ります。境内には出店も並ぶので、時間帯によってはそこそこ賑わいます。

太鼓の叩き手を担うのは地域の子供たち。櫓の前で子供たちが順番に太鼓を楽しそうに叩いているのが印象的な盆踊りでした。

池尻五町会連合納涼盆踊り大会 5町会の代表のあいさつ
5町会の代表のあいさつ

浴衣の色によって町会が分かれているようです。

「池尻五町会」と名がついていますが、これは池沢村が合併して池尻村になった時の小字が「北町」「東町」「西町」「中町」「南町」の五つだったことに由来します。

一番北の旧池沢村だった4丁目の池尻四丁目会と、3丁目の東側部分の池尻北自治会。同じく3丁目の西側部分の池尻西町会。2丁目の神社より東と南側の池尻東親会。同じく2丁目の神社を含めた西側と1丁目の池尻南睦会が現在の町会名で、秋祭りでの町会神輿も同じく5基あります。

5、池尻稲荷神社の秋祭り

池尻稲荷神社 雨の日の秋祭りの写真
雨の日の秋祭り

池尻の祭りには雨が似合う・・・のかもしれません。

池尻稲荷神社の秋祭り(例大祭)が行われるのは、9月の第三日曜日とその前日です(*場合によって前後1週間ずれることがあります)。以前は9月20、21日の固定日に行われていましたが、平日だと人が集まらないという事情もあり、週末に変更されました。

お祭りに関して面白い逸話が残っていて、かつて祭礼日には必ず雨が降ったそうです。なんでも境内の大ケヤキに主として住み着いていた白蛇を、ある祭りの時に蛇屋が持っていってしまったとか。それ以降は祭りの日になると白蛇の祟りで必ず雨が降る・・・といった感じのようです。

池尻稲荷神社 雨の中の祭り準備
雨の中での準備

たまたまとびっきりの雨男が参加していただけじゃない。大袈裟な。話を盛り過ぎ。と思うかもしれませんが、いやいや、これが結構深刻な話だったりします。ちょうどこの時期は周辺の地域でも秋祭りが行われるのですが、祭礼日の近い神社でも同じように毎年雨に祟られたといった記録が残っていたりします。

ほど近い野沢の稲荷神社では、こりゃ駄目だ。この日は祭りにならない。と、あえて暑い8月に祭礼日を変えているほどです。ほんと、すさまじい白蛇の怨念だったようです。

でもまあ・・・、この時期は雨が多い時期でもあるので、池尻のせいにするのも酷な話ですね。現在では固定日ではなく、年によって祭礼日が移動するので、雨の心配も少なくなったのではないでしょうか。たぶん・・・。

池尻稲荷神社 秋祭りの時の境内の写真
秋祭りの時の境内

露店も少なめで、あまり人も多くありません。

池尻の祭りは隔年で宮神輿が運行され、宮神輿の年と町会神輿のみの年と一年ごとに違った形態で行われます。もちろん華やかな宮神輿が運行される年の方が多く人が集まり賑やかになります。

とはいえ、物凄く人が集まる祭りではなく、宮神輿の年でも露店は境内のみで、だいたい10店弱ほどです。訪れる人も時間帯にもよるのでしょうが、まばらといった感じです。

池尻稲荷神社例大祭 宵宮の奉納演芸の写真
宵宮の奉納演芸

上品な感じの奉納演芸でした。

神楽殿では宵宮の日の昼間に煎茶会が行われ、夜には奉納芸能が行われます。

茶会は池尻稲荷神社の社務所のビル内にある茶室で活動する静中庵流煎茶道によるもので、この時は神楽殿が茶室に変ります。舞台の上で茶会というのも風流というか、なんかいいかもしれません。おまけにフルートの演奏も目の前で行ってくれ、一席500円というのはお安いのではないでしょうか。七夕などにも七夕茶会チャリティーコンサート等を行っています。

奉納演芸はそれぞれの町会の婦人会が演奏等の演目を行うといったものです。たまたま見た演目がそうだったのか分かりませんが、これがなかなか凝っていて、さすが都心に近いだけあって文化的というか、ハイソなご婦人方が多く暮らす地域なのかも・・・なんて勝手に思ってしまいました。

池尻稲荷神社例大祭 神楽の奉納の写真
神楽の奉納

本祭の昼間から夜にかけて断続的に岡田民五郎社中による神楽が奉納されます。祭りに神楽は付きもの。というのは昔の話のようで、訪れたときは天気が悪かったのもあったのですが、見学者がほとんどいなく、ちょっと寂しい感じの舞となっていました。

池尻稲荷神社例大祭 神輿の神事の写真
神輿の神事

神様を神輿に移します。

池尻稲荷神社の例大祭では、隔年で宮神輿が運行されます。西暦で言うなら奇数年が運行年になります。きっと毎年出せればいいのでしょうが、担ぎ手を集めたり、巡幸させるための資金とか色々と事情があるようです。

でも、これはこれで宮神輿渡御に貴重さとか、有り難味があり、祭りにも本祭年、陰祭年といったメリハリができていいように感じます。

宮神輿は延軒屋根、勾欄造りで、大きさは台座が3尺3寸で、製作者は浅草の難波になります。建造は兵隊村としてにぎわっていた昭和4年で、町の人々の寄付によって造られたそうです。

特徴はなんといっても台座や屋根などに施された打ち出し模様の美しさで、東京でも少し有名で、新聞にも載った事もあるそうです。その美しさや調和の取れたすらっとした細身の姿から別名貴婦人とも呼ばれているとか。って、SLの山口号(C57)みたいですね。

池尻稲荷神社例大祭 宮神輿の旧大山道の渡御
旧大山道の渡御

池尻自慢の神輿なので、かつては池尻の各地域で決まった職人や鳶の人しか担ぐことができなかったそうです。現在では担ぎ手不足といったこともあるのですが、そういった事はなくなり、一般人、女性でも担げるようになりました。

いい神輿を担ぎたい。美しい神輿を見たいと思うのは祭り好きだけかもしれませんが、宮神輿が運行される年には神輿好きな担ぎ手や見学者が多く訪れます。

池尻稲荷神社例大祭 国道246号の渡御の写真
国道246号の渡御

こういった人通りの多い場所では担ぎ手のテンションが上がります。

宮神輿は日曜日に運行され、10時か10時半に大祭式。12時半に神幸祭。12時50分に宮出。そして町域を巡って17時半から18時ぐらいの間に宮入します。

旧道などが主なルートになりますが、途中国道246号の大通りを通ったり、渡ったりしなければならなく、その時は担ぎ手のテンションが上がります。車で通行の人も何事かといった感じで、興味津々な様子で眺めていました。

池尻稲荷神社例大祭 神輿の宮入の写真
神輿の宮入

神輿の宮入の際は境内が熱気であふれかえります。

神輿のハイライトは、威勢よく神社から出発していく宮出しと、テンションが上がった状態で神社に戻ってくる宮入になります。特に宮入は盛り上がるので、それなりに人が集まってきて、境内が混雑します。そして神輿が境内で揉むときは境内全体が熱気に包まれます。

池尻稲荷神社例大祭 町会神輿の渡御の写真
町会神輿の渡御

旧道を神社に向かって楽しそうに進んでいました。

宮神輿が運行されない年は、五町の各町会神輿が担がれます。詳しい運行形態を知りませんが、昔夕方に訪れたときに2つの神輿がちょうど宮入りしていました。

町会神輿というと威勢がよかったり、ワイワイと賑やかなイメージがありますが、ここでは担ぎ手が多くないのもあって、のんびりと楽しく、マイペースといった感じでした。

本来なら旧道を進む神輿は絵になるものですが、ここではちょっと周りの風景が近代的過ぎて、特別な情緒といった部分は感じられませんでした。でも見物人を含めた渡御の様子はとても雰囲気のいいものでした。

池尻稲荷神社例大祭 神輿の飾りつけの写真
神輿の飾りつけ

神輿の運行前に装飾や飾り紐、台座には担ぎ棒を取り付けていきます。

秋祭りを見学していて感じたのが、ここのお祭りは世田谷の中でも少し雰囲気が違うなということでした。なんというか、凛としているというか、毅然としているといった印象を受けました。

その時は世田谷の中でも一番都会(都心)に近い地域だからかなと思ったのですが、池尻の歴史や他の地域の祭りを知った後で改めて思い直してみると、これは池尻が兵隊相手に商いをしてきた名残りなのでは・・・と思えてきました。

6、感想など

かごめかごめの像と秋祭り
かごめかごめの像と秋祭り

まだ暑い時期なので夏祭りといった感じですが、落ち着いた雰囲気の祭りでした。

池尻は東京を代表する繁華街渋谷と、世田谷を代表する繁華街三軒茶屋の間に立地しています。無機質な都会といった見方をしてしまえばそれ以上の価値観を町並みから見出すのは難しいでしょう。

でも、大山道の歴史を知り、兵隊村だった歴史、その跡地が混乱の中、スラム街になったことを知ってから散策すると、町並みからどことなく懐かしさを感じたり、時の流れに残されたものに気が付いたり、違った価値観を発見できたりするものです。

世田谷区内の東端にある池尻。こう書くと、何か面白いものがあるのではと魅力的に感じてしまうのは旅人気質の人間だけかもしれませんが、ぜひ足を運び、目まぐるしく変わっていく都会の中で、人々に守られ、残り続けてきたものの存在を感じてみてください。

せたがや百景 No.2
大山道と池尻稲荷
せたがや地域風景資産 #1-1
池尻稲荷神社を中心とする旧大山道
2025年2月改訂 - 風の旅人
広告

・地図・アクセス等

・住所池尻2-34-15
・アクセス田園都市線池尻大橋駅から徒歩10分以内。
・関連リンク池尻稲荷神社(公式サイト)
・備考例大祭は9月第3週の週末、その他行事は公式サイトで確認できます。
広告
広告
広告