世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.93

玉川野毛町公園

公園内に直径66メートル、高さ9メートルの野毛大塚古墳がある。小高い丘とも見えるこの円墳は現在都の史跡に指定されている。プール、野球場、テニスコート、遊び場などが設けられ、スポーツと憩いの場となっている公園だ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

・場所 : 野毛1-25
・備考 : 野毛大塚古墳は東京都指定史跡。園内入場自由。古墳に関する資料は郷土資料館内に展示されています。古墳まつりは10月の週末。

*** 玉川野毛町公園の写真 ***

玉川野毛町公園の写真
公園の入り口

入り口はあちこちにあります。

玉川野毛町公園の写真
花と古墳

 

玉川野毛町公園の写真
子供達の遊び場

古墳や古代に因んだ遊具があれば面白いですね。

玉川野毛町公園の写真
桜のある広場

少ないながらも桜が植えられています。

野毛大塚古墳の写真
古墳の模型(1/150)

古墳全体が葺石で覆われていたのと
ホタテ貝のような形をしているのが特徴です。

野毛大塚古墳の写真
野球場と隣り合わせの古墳

この付近も古墳の一部なのですがしょうがないですね。

野毛大塚古墳の写真
古墳全景(修復中)

禿山状態になってしまったので養生していました。

野毛大塚古墳の写真
冬の古墳

昔の斜面に入れるときの写真です。

野毛大塚古墳の写真
木が茂る古墳

古墳に木が生えています。

野毛大塚古墳の写真
土器のオブジェが並ぶ様子

壊れているものが多いです。

野毛大塚古墳の写真
古墳の上から

結構眺めが良いです。

野毛大塚古墳の写真
古墳の上

長いのが第1主体部(埋葬施設)です。
全部で4つの主体部があります。

* 古墳まつり *

野毛古墳まつりの写真
教授による古墳の解説

熱心に耳を傾けている人が多かったです。

野毛古墳まつりの写真
古代クッキーを焼く様子

昭和女子大の学生がお手伝いをしていました。

野毛古墳まつりの写真
ミニ土器製作

子供達が頑張っていました。

野毛古墳まつりの写真
試食用の古代食

まあ想像通りの味でした。

* 玉川野毛町公園について *

環八沿いにある第三京浜の入り口近くに玉川野毛町公園があります。野球場あり、テニスコートあり、子供の遊び場があり、屋外プールやデイキャンプコーナーありの総合公園なのですが、世田谷区にある大きな公園の中ではあまり知名度がないような気がします。

しかしながら、ここには他の公園にないような凄い特徴があります。それは百景の文章にもあるように大きな野毛大塚古墳が公園内にドカってあるのです。しかも全国的に・・・、といっても考古学の世界ですが、有名な古墳だったりします。

形は一見丸い円墳に見えますが、正式には帆立貝式前方後円墳で、山のような円墳部分は直径66m、高さ10(9)mという大きさなので、すぐ近くに立つとかなり威圧感を感じる事でしょう。所々に埴輪なども並べてあって、古代の雰囲気も満点。すぐ近くに等々力渓谷もあることから、幼稚園や小学生の遠足コースにもなっているようです。

line

この野毛町公園の周辺は環八、第三京浜の入り口に等々力渓谷があり、そして周りは集合住宅だらけといった変わった場所に立地しています。元々この場所は等々力渓谷の延長で自然豊かな場所でしたが、等々力渓谷の入り口にあるゴルフ橋に名残があるように、鳩山氏、五島氏といった政財界の大物によって、昭和6年にゴルフ場として切り開かれました。地元の人をそこで働かせるという条件だったので、地元にとっては決して悪い条件ではありませんでした。

という事で等々力駅から第三京浜の入り口の辺りまで等々力ゴルフ場のコースとなり、この野毛大塚古墳は無事に残されるには残されたのですが、ゴルフ場のコースの中に埋もれてしまいました。昭和14年にゴルフ場は廃止され、内務省がその跡地を買収しました。

line

その後戦争になると高射砲の基地となり、敵機が飛んできたら迎撃するはずだったのですが・・・、結局訓練場としてしか使われなく、敵機を打ち落とすどころか爆撃を喰らってしまい、その時にゴルフ場の施設などは壊れてしまったそうです。

戦後になると都の公園課、さらに住宅課の所有となり、公園や集合住宅団地に変わっていきます。後に1965年(昭和40年)に第三京浜道路が開通し、環八が整備されていきます。実際に古墳の上に上がってみると、周りは集合住宅だらけ。地図を見ると、都営住宅に国土交通省住宅のようです。

その中にこんもりある古墳。そして遊び場。この付近の住民の遊び場であり、小さな子供を連れた奥様方の社交場となっている感じでした。

line

古墳といえども普段は子ども達の遊び場になっていました。高さにすると三階建ての建物と同じぐらいの高さなので、ちょっとした丘と例えるのがふさわしいぐらいです。昔は斜面も自由に登ったりできたので、斜面を利用してダンボールなどでソリ遊びをしている子供たちもいました。雪の日なんていうのはさぞ楽しかったことでしょう。

さすがに禿げ山状態になってしまい、これはまずいと修復する事となり、それ以降階段を使って古墳の上部に行く事はできますが、斜面などへの立ち入りはできなくなりました。といっても、鬼ごっこをして遊ぶ子供達には関係ない事でしょうか・・・笑。腕白に遊ぶ子供を見るとうれしくなってしまいます。

line

さて古墳は登ったりしていいものでしょうか。そういった疑問を持つ方もいるのではないでしょうか。日本国内でも登れる古墳と登れない古墳とあります。まして○○天皇稜となると登るどころか厳重にフェンスが張り巡らされていて、「立ち入り禁止 宮内庁管轄」といった仰々しい看板が立っていたりします。例えば近くにある大田区の亀甲山古墳は入れないようになっていましたし、日本全国的に見ても様々です。

結局のところ管理者の方針次第のようです。しかしながら近年では登れなくしているところが多くなった感じです。とりわけ崩壊を防ぐため、「文化財保護」「安全性」という意見が主流になってしまったようです。世田谷区でも全面禁止の方針となってしまったようで、この野毛大塚古墳以外でも以前は入れていた場所でも入れなくなっていました。

line

余談ですが、以前ピラミッドに登った事を書いていたら墓に登るなんて不謹慎なといった非難を幾つか受けました。石でできたものは登ってはいけない墓で土でできた古墳は登っていい墓?といった認識が日本人にはあるのかなと思ってしまいました。

もっとも登ってはいけなかったものに登ってしまったので、それ以上に多くの非難をいただくことになってしまったのですが・・・。そもそも形あるものは壊れていくものです。石文化圏では建物の石材が人工的に破壊されて再利用されることは歴史的に当たり前のことです。

line

古墳も自然のままで存在し、風化していくのも自然の理。子供達が遊んで壊れていくのならそれはそれでしょうがないような気もします。でも、税金できれいに直して公園したものが壊れていくとなると、また別問題です。税金の無駄とか、行政の怠惰とか指摘を受けるとそうせざるを得ないという事情があります。

修復後に訪れてみて、こういった公園を管理するのも大変なんだなと思ったのと同時に、どんどんと子供の遊び場が削られていく現状にも悲しくも思いました。などと書くとまたバッシングを受けそうですが・・・。

line

* 野毛大塚古墳や周辺の古墳などに関して *

この野毛大塚古墳なのですが、5世紀初め、古墳時代中期に造られたものとされています。この古墳が注目されているのは全国でも最大級の帆立貝式前方後円墳であり、また多くの鉄製の副葬品や武具が埋葬されていた事です。そのことからかなりの権力者(恐らく南武蔵地域の大首長)が埋葬されていたと推測されています。

こういった特異的な古墳である事と、多くの副葬品から古代の関東地域の権力図などが少しずつ解き明かされています。ただ古代の様子というのはハッキリ分かっていないことが多いので、どうしても様々な説がでてきてしまいます。ここでの説明はその一例といった感じです。

line

墳丘の全長は約82mで、前方後円墳といいながら後円墳部分が大きく、前方墳部分が極端に小さいのが特徴です。ですから普通の前方後円墳と区別してホタテ貝式といわれています。後円墳部分は直径66m、高さ10mの大きさで、実際は三段に分かれていて、全面が葺石で覆われ、円周の通路には埴輪が並べられていました。

また、前方部のすぐ脇には長さ、幅とも約10m、高さ約1mの造出部といわれる小さな方形部分が付設されています。これは一周忌などの祭事に祭壇として利用されたもので、この下から祭事に使われたと思われる供え物を置く土器片などが出土しています。

古墳の周囲は最大幅約13m、深さ約2mの空濠で馬蹄形に囲まれていました。前方墳の辺りはそれとなく実際よりも浅い堀で再現してありますが、それ以外の部分は野球場や道路の下とかになってしまっています。実際のものを復元したなら古墳の全長は104mもの大きさになるそうです。

残念なところですが、近年の発掘で分かったことなのでしょうがないですね。もっとも修復以前はゴルフ場のコースとなっていたり、戦時中や戦後の混乱期は斜面を利用して芋畑になっていたりと酷い状態だったので、現状は良い方だといえるかもしれません。

またこれも現状では一部しか再現されていませんが、古墳の表面に多摩川の川原から持ってきた丸石で覆われているのも特徴です。その数100万個だとかいうから結構な数です。そして円筒埴輪などの埴輪列が当時の様子を模して置かれています。かなり壊れていましたが・・・。なお、古墳自体は整備の際に保護目的で少し土が盛られていて、実物は少し小さいようです。

line

埋葬品などに関してですが、古墳の上に登るとタイルで石棺の位置が描かれているので、どういった状態で埋葬されていたのかよくわかります。この古墳には4基の埋葬施設(主体部)があり、真ん中の一番長いものが最初に造られ、後に追葬で左の第3主体部、右側の第2主体部、一番左端の第4主体部の順に埋葬されました。

中央部の第1主体部に埋葬されている人物がこの古墳の主という事で、棺も長さ8mの割竹型木棺と大きく、埋葬品も多く出土しています。特に鉄製の甲冑、刀剣などは権威の象徴であり、古墳の大きさと共にこの主がどれほどの権力を持っていたのかが分かります。

その他にも銅鏡、石製模造品、玉類などの装身具も出土されています。人骨に関しては完全に土に溶けてしまっていて残っていませんが、装身具などの位置からだいたい160cmぐらいの身長だったと推測されています。

line

第3主体部は長さ4mの箱形木棺で、ここからは32本の鉄製の刀剣類と大量の矢じりなどが出土されています。結構な量の埋蔵品なので、王を軍事的に補佐した人物が埋葬されていたのでは・・・、いや次の代の王ではないか・・・といった感じの説がありますが、そもそも甲冑、装身具などは出てきていないので人が埋葬されていたのだろうかといった疑問もあるわけで、結構謎の多い主体部でもあります。

第2主体部は唯一石棺が埋葬されていました。この石棺は東京湾産岸の砂岩を加工した8枚の板石を組み合わせた箱形石棺で、長さは2.7m程です。中からは甲冑、刀剣、玉類などの装身具が出土しています。明らかに世代や様式が違うので、古墳にしては珍しい二世帯住宅方式になっているのでは・・・といった感じでしょうか。ただ埋葬者に関しては王になれなかった王子なのか、世襲した王子なのかは議論の余地が大いにあります。

第4主体部は一番左端に設けられたもので、第1主体部から50年ほど後に造られたのでは推測されています。長さ約3.2mの組合せ式箱形木棺で、埋葬品は刀剣2本と水晶の丸玉が2個と少なく、恐らく埋葬者は女性ではないだろうかと推測されています。

その他、古墳の周囲からは多くの円筒埴輪が出土しています。これは古墳の周りに設置されていたものです。そして造出部からは柵形埴輪や家や鳥などの器財埴輪が出土しています。

line

古墳といえば昔の貴族のお墓です。この付近に古墳があるのが不思議に思う人もいるかと思いますが、多摩川沿いには多くの古墳が残っています。それも時代ごとに古墳群を形成していて、少し南の田園調布の多摩川台公園にある亀甲山古墳を中心とした田園調布古墳群、そしてこの野毛古墳群、更に多摩川を北上して狛江、喜多見古墳群といった感じです。

古墳群はそのまま勢力を表してて、まず一番大きな亀甲山古墳を持つ田園調布の勢力がこの付近を支配します。亀甲山古墳は全長107メートルもある前方後円墳で、4世紀後半、古墳時代前期に造られたものだとされています。その頃の野毛などの古墳は小さな円墳が主体でした。

その後5世紀になると畿内王権の変動があり、河内や和泉を中心に新たな政権が誕生しています。その事により新たに身分、階級の秩序が生まれたようで、例えば地方酋長の古墳の大きさや形状の制限などが行われたとされ、この時期には日本各地の古墳の形状に変化が見られます。

その時に新しく生まれたのが野毛大塚古墳のような前方後円墳もどきのホタテ貝式前方後円墳のようです。そして田園調布古墳群と比べて野毛の古墳は畿内文化が強いのが特徴です。当時畿内にしかなかったような鉄製の甲冑や大量の刀剣などがそうで、野毛の勢力は新たな政権といち早く手を結んだ事によって田園調布の勢力との力関係が逆転したのではと推測できます。

line

野毛では大塚古墳をピークに徐々に古墳が小さくなっていきます。野毛の勢力が衰退したのと、時代の流れ的に古墳自体の意義が薄くなったのではということです。その後は狛江や喜多見で古墳が充実していることから、今度は野毛からそっちへ権力が移ったようです。

そもそもなぜ野毛がいきなり権力を持ったのか。なぜこの地がそんなに重要だったのかという事を考えると、それはまず第一に馬の産地としていい放牧地だった事です。畿内の王は関東の質の良い馬を確保するためにこの地を確保しておく必要があったのです。

第二に北関東には毛野(地域首長連合)という大きな勢力があり、その監視(攻略)の要としての役割がありました。そういったわけで畿内の勢力は野毛の勢力と手を結んだようです。ただ野毛の勢力があまりにも急に畿内色が強く表れています。おそらく畿内の人もこっちへ移住してきたから畿内の文化が強まったと考えられます。

その畿内の人々が移住して集落を造ったのが狛江や喜多見の付近で、野毛が勢力をふるっているうちに徐々に力を蓄え、そのうち野毛の勢力は用済みだと判断して自分たちでこの付近の実権を握ったのではないかともいわれています。

line

野毛古墳群は造られた順に上野毛稲荷塚古墳、野毛大塚古墳、天慶塚古墳、御岳山古墳、八幡塚古墳、狐塚古墳、その他小さな古墳群で構成されています。多摩川沿いの一つの丘に一つの古墳があるといった感じで、この地域を王家の丘として整備しようではないかといった案もあったりします。実際にそうなれば面白いかもしれませんが、一般の人に面白いような施設や展示になるのかと考えるとちょっと微妙な感じです。

ただ個人の所有地にあった古墳などを区が買い取ったりしているようなので、もしかしたらそれに近いようなことをやろうとしているのかもしれません。今のところ古墳の埋葬品など詳しいことに関しては代官屋敷のところにある郷土資料館に展示してあります(レプリカが多いですが)。興味あればそちらもご覧になるといいと思います。

<せたがや百景 No.93 玉川野毛町公園 2008年7月初稿 - 2015年10月改訂>