世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.33

松原の菅原神社

世田谷の秋祭り File.20

菅原神社例大祭

境内に朱塗りの社殿が目立つ。江戸時代、石井兵助という人が寺小屋を開き、学問の神様である菅原道真公を祀ったのが始まりだろうと伝えられる。いまも学業祈願、合格祈願の絵馬札がたくさん下がっている。(百景紹介文の引用)

鎮座地 : 松原3-20-17  氏子地域 : 松原1~6丁目、赤堤の一部
御祭神 : 菅原道真公  社格 : 旧松原村村社
例祭日 : 9月第四日曜と前日(5年ごとに式年祭)
神輿渡御 : 町会神輿、4町会(連合渡御あり)
祭りの規模 : 小規模  露店数 : 15店程度
その他 : 奉納演芸が行われます。

*** 菅原神社の写真 ***

一の鳥居の写真
菅原天神通りの入り口

菅原天神通り沿いにあります。

境内の写真
境内の様子

大きな村社の石碑が目に付きます。

拝殿の写真
拝殿

新しめの建物です。

拝殿内の写真
拝殿内

お雛様が飾ってあると雰囲気がいいですね。

神牛と梅の写真
神牛と梅

天神様には欠かせないものです。

絵馬掛けの写真
絵馬掛けの絵馬

牛に乗って道真さんはどちらまで行かれるのでしょうか。

力石の写真
神楽殿の前にあった力石

四拾八貫目という文字が彫ってありました。
現在でいう180kg・・・って重すぎ!

絵馬殿の車輪の写真
絵馬殿の車輪

昔牛車に使われていたものでしょうか。

弁天池と厳島神社の写真
弁天池と厳島神社

緑に囲まれていました。

境内社の写真
御嶽神社(左)と稲荷神社(右)

社殿の脇にあります。

* 弁天祭り *

弁天祭りの写真
弁天社

お供え物が置かれ、多くの人が参拝していました。

弁天祭りの写真
弁天まつりの知恵餅・福銭散供

祭りのハイライト。この餅を食べれば賢くなれるとか・・・

弁天祭りの写真
菅原天神囃子の演奏

秋祭りでも活躍します。

弁天祭りの写真
手裏剣の演舞

松原名物手裏剣おじいさん

弁天祭りの写真
餅つき

つきたてを販売しています。

* 松原と菅原神社について *

京王線の明大前駅から南の羽根木公園付近に広がるのが松原地域です。松原はかつての松原村だった地域ですが、松原村はとても不思議な事に突然歴史に現れます。もともとこの地域は赤堤村でした。といっても水にあまり恵まれない台地上の土地は雑木林が生い茂り、ほとんど人が住んでいなかったようです。

それを開拓したのが豪徳寺の滝坂道沿いに設置されていた松原宿の人々で、赤堤が旗本領でなくなった元禄十年から十六年の間(1697~1703年)に松原村として独立したとされています。或いは単純にこの辺り一帯に赤松林が多かったので松原と名付けられたという説もあり、まあ松林も多いし、松原宿の松原でいいかといった感じで名付けられたのかもしれません。

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松原宿というのは、世田谷城主吉良氏の家臣松原土佐守の三兄弟が滝坂道の途中に宿を開いた事から名付けられたもので、明治22年までは松原村の飛び地でした。松原宿の北の土地が現在の松原地域で、松原宿の通りから北に進むと松原の重要な通りである松原大山通り、菅原天神通りにつながります。

江戸時代になるまでは甲州街道はなく、滝坂街道が府中方面に抜ける重要な道路でした。江戸時代になって甲州街道が整備されるようになると、裏街道となり宿が衰退するのを防ぐために甲州街道に向けて松原宿の人が道を整備し、土地を開墾していったといった説もあります。

それにしても普通に考えるならよそ者がやってきて開墾を始め、勝手に自分たちで村の名前を付けて独立などをしたら血が流れるような争いが起こるはずなのですが、そういった記録は残っていないようです。よほど閑散としていて、荒れ果てた土地だったのでしょうか。

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また、経堂駅の南に福昌寺というお寺があります。正式には経堂山福昌寺というようで、中国からの帰化人で幕府の医師とも、或いは松原宿を設置した松原土佐守の子孫とも伝わる松原弥右衛門が敷地内に開基した寺になります。経堂山というのも医者である松原氏がお堂の中に多くの書物をしまっているのを地元の人が書物=お経の本と勘違いし、お経のあるお堂、経堂と名付けたのを気に入って寛永三年(1926年)に経堂山としたとか。そしてそれが地名になったともいわれています。

その経堂には松原性の地主が多くいますが、現在の松原や松原宿があった豪徳寺に松原性はほとんどいないのも妙な話です。松原氏とは関係なく松原宿が発展していき、松原宿の住民が自主的に土地を求めて北へ向っていったような感じだったのでしょうか。色々と謎が多い土地です。

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松原村の村社は菅原神社で、松原と赤堤一部の氏神として崇拝されてきました。社伝によると、石井兵助がこの地に移住してきて寺子屋を開き、寛文五年(1665年)に学問の大切さを教えるために学問の神様である菅原道真公を祀る「大願成就南無天満宮自在天神」と刻んだ石碑を建てたのが始まりだとされています。

宝暦十一年(1761年)には神社が建てられ、菅原天満宮としてこの地の氏神様となりました。明治7年には明治政府が「宮」の称号や「菅原」の名を一般の民社で使用する事を禁じたので、松原神社と改め、終戦後はそういった縛りがなくなったことから松原神社から菅原神社に社号が改められました。

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昭和38年から古くなった社殿などが建て直されていきます。その頃は神社から少し離れた場所に社地として赤堤川の水源となっている弁天池を所有していたのですが、周辺の宅地化が進んだ為に湧き水が出なくなり、荒廃した状態となっていました。氏子が相談してこの土地を公園地(弁天池児童公園)として世田谷区に売却し、その資金を基本金として神社の再建が行われました。

その際、境内に人工的に池を造り、中ノ島に厳島神社を弁天池から移築してきました。現在社殿の左側にあるのがそうです。社務所は昭和39年に、社殿は40年に、神楽殿は41年に再建されています。平成14年は管公御神忌1100年祭にあたり、境内の再整備が行われました。

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現在の境内は特に何があるわけではありませんが、一応菅原道真公を祀っている天神様としての要素は全て兼ね備えています。それは神牛、梅の木、合格祈願の絵馬といったものです。ちょっと道真公について書くと、道真公は平安時代の政治家であり、優れた漢詩人でもありました。時の宇多天皇に重用され、右大臣にまで出世したのですが、左大臣藤原時平に妬まれ、そして謀られ大宰府へ左遷されました。延喜3年(903年)に大宰府で亡くなり、同地(現在の太宰府天満宮)に葬られました。その後京では不吉な事件が続き、道真公の祟りではないかということで、天神として祀られました。そして現在では学問の神として崇められています。

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これを踏まえて、まず梅の木ですが、道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という句は有名で、道真公が梅が好きだった事がよく表れています。それに伝説ですが、その梅が京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も伝わっています。そういったことで道真と梅という組み合わせは絶対的で、天神様では賽銭箱や絵馬にも梅の花柄をあしらった紋が付けられています。ですから一応天満宮や天神様では梅の花の時期が訪れるのに最適な時期となります。ちょっと離れていますが、谷保天満宮では先の梅の句から作った巫女舞を梅林で披露していたりします。

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牛に関してですが、道真公が生まれたのが丑の年、そして亡くなったのも丑の日だったことから、その縁の深い牛を奉っているそうです。何処の天満宮でも牛の像が置いてあるのですが、たいていどれも牛の鼻の辺りがピカピカに光っているはずです。それは撫でると智恵が授かるとか、御利益があるとかいわれているからです。訪れたらなでなでしておきましょう。特に受験生は。

絵馬に関しては湯島天神や谷保天満宮などの凄まじいほど絵馬がかかっている絵馬掛けを見てしまうと、ここの絵馬の数はちょっと寂しい感じがします。それに世田谷には松陰神社というまた別の学問の神様もいるわけで、どちらかというと知名度のある松陰神社の方が繁盛しているかなといった感じでしょうか。もちろん学問の神様とはいえ、合格するもしないも最終的には本人次第です。

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天神様以外でいうなら、表の鳥居の横にある「村社 菅原神社」という文字がかつての鎮守様といった事を想像させてくれます。また神楽殿の前にある力石も由緒ある鎮守様の証なのかもしれません。鎮守ならかつては奉納相撲や力比べといった事が行われていてもおかしくないですから。入り口の鳥居近くには絵馬殿があり、文政頃(1818~1829年)の天満宮と書かれた扁額や奉納された古い時代の絵馬等が飾ってあり、牛車のものらしき車輪までも置いてあります。

その他には境内社として御嶽神社と稲荷神社の祠があります。町内に祀られていたものが移されのでしょう。弁天池は先に書いたように少し北にある弁天児童公園からこちらへ移ってきたものです。小さいながら今でも水のはられた池の中にあり、小橋を渡ってお参りするようになっています。

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松原村は高台にあり、普段から水に乏しい土地でした。日照りが続いたりすると大変で、雨乞いも盛んに行われていました。大山阿夫利神社や御嶽神社に雨乞いのために向い、水をもらって戻ると弁天池に入ってその水をまいて祈願したそうです。そういった名残か毎年五月の第二日曜日には弁天まつりが行われます。といってもとても小さなお祭りです。

一応この祭りの特徴的というか、ハイライトになるのは知恵餅・福銭散供でしょうか。餅や福銭を節分の時みたいに投げるのですが、この餅を食べると知恵が付いて賢くなるそうです。受験生には大受けしそうなお餅ですが、訪れたときは小さな子供達が必死になって拾っていました。見ていると、福銭よりも腹の足しになる知恵餅の方が当りといった感じでした。争奪戦には違いありませんが、投げる方も拾う方も楽しんでいる感じで、そんな様子を見ると地元限定の小さなお祭りだなとほのぼのとした気分になれます。

*** 秋祭りの様子 ***

秋祭りのポスターの写真
秋祭りのポスター

 

秋祭りの様子を写した写真
秋祭りのときの入り口

幟や提灯が立ち、秋祭りといった雰囲気です。

秋祭りの様子を写した写真
参道の様子

所狭しと屋台が並びます。

秋祭りの様子を写した写真
夜の境内

そこそこ賑やかな感じです。

秋祭りの様子を写した写真
担ぎ手が参拝す様子

神輿が神社に到着すると境内は担ぎ手で溢れます。

秋祭りの様子を写した写真
宵宮祭

社殿で厳かに行われます。

秋祭りの様子を写した写真
太鼓の演奏

見せ太鼓、大漁祭

秋祭りの様子を写した写真
夜の神楽殿

舞踊の奉納演芸が行われます。

稚児行列の様子を写した写真
稚児行列

列を取り巻く親の数にもビックリしました。

稚児行列の様子を写した写真
神社にやってきた稚児達

この後、社殿でお祓いを受けます。

* 菅原神社の秋祭りについて *

菅原神社は天神様、菅原道真公を祀っているので、25日が天神の日といった特別な日になります。25日というのは全て旧暦ですが、菅原道真が生まれた日、太宰府に左遷された日、そして命日だった日にあたり、天神さまに縁深い特別な日という事から決められたものです。

昔は菅原神社も9月25日に本祭を行っていて、その日に合わせて松原の学校が休みになっていたそうです。今では学校の祭日が動かすのは難しく、会社勤めの人も多くなり、神社の方が休みを合わせて9月の第四日曜日に本宮祭、その前日に宵宮祭が行われています。

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また天神様では5年ごとに式年祭が行われます。西暦でいうなら2と7が末尾につく年になります。これは全国の天神様で行われていることで、この付近では国立の谷保天満宮で大規模な神幸祭が行われているのが知られているでしょうか。昔は菅原神社でも神主が馬上の人となり、氏子の農家が牛を提供し、天神様らしく牛車も加わった神幸祭が行われていたようです。境内に入ってすぐ左側に色々な物が飾ってある絵馬殿がありますが、その中に大きな木製の車輪があるのでそれが牛車に利用していた車輪ではないでしょうか。

今ではそういった大がかりな神幸祭は行われていなく、式典や神輿渡御などは比べて見ていないので詳しくは分かりませんが、明らかに普段の年と違うのは稚児行列が行われる事です。この稚児行列がなかなか凄く、一日五回、各町域ごとにお稚児さんの行列がやってきて、神社でお祓いを受けます。午前に二回、午後は三回で14時、15時半、17時といった感じでお稚児さんがやってくるのですが、訪れた17時の回は現在の3、4丁目、神社の周辺地域ともあってお稚児さんが80人ぐらいいてビックリしました。

お寺とかで春に行われる花祭りでは最近お稚児さんに参加する子どもが減っていて少し寂しい行列となっているのですが、やはり学問の神様となると違いますね。子どもの将来の受験や出世のために少しでも天神様にあやかりたいという親心がそうさせているでしょうか。

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秋祭りの時の境内は、特別混雑していなければ、ガラガラでもないといった普通の賑わいといったように感じました。露店は境内に15店ぐらい並びます。狭い境内の隅から隅まで並んでいるといった感じです。神楽殿では奉納演芸が行われますが、こちらの方は見る方のスペースがあまりないことや地味な演目が多いのであまり盛り上がっていない感じでした。

祭礼を盛り上げるお囃子を努める菅原天神囃子は江戸時代から続くお囃子で、大正時代にはとても盛んだったそうです。昭和40年代後半に松原囃子保存会が発足し、現在は菅原天神囃子として活動していて、お隣の大原のお祭りでも活躍しています。それから、ここならではなのかは知りませんが、老人武道家による手裏剣の実演などというのもあります。弁天祭りでも演じているので、まあ地元の人にとってはまだ元気にやっているんだといったお決まり事みたいな感じでしょうか。

*** 町会神輿の連合渡御の様子 ***

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
連合渡御の開始前

踏切と甲州街道の間の路地が出発場所です。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
難所の踏切

いきなり鳴り出して慌てることも

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
お囃子車

菅原天神囃子が務めます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
連合渡御の様子

とても楽しそうでした。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
神職にお祓いを受ける町会御輿

神社前の路上で行われます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
木遣りの奉納

お祓い後社殿内で行われます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
旧一丁目神輿

現在でも1丁目を中心とした町会です。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
同じ場所で4年後

女性の担ぎ手が少ない町会です。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
旧二丁目女神輿

年によっては運行されます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
旧二丁目神輿の宮入

現在でも2丁目を中心とした町会です。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
旧二丁目神輿の宮入

狭い参道を進みます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
旧二丁目神輿の宮入

拝殿前で差し上げます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
旧三丁目神輿

神社周辺の3、4丁目の町会です。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
旧三丁目神輿

赤い半纏がよく目に付きます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
旧四丁目神輿

神社より南の5、6丁目の町会です

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
旧四丁目の神社前

年番の年だったので気合が入っていました。

かつては宮神輿があり、それぞれの町域を順番に回っていき、町域の境では引き渡しが行われていたようです。その神輿は「上保神輿」と呼ばれていたとか。上保家は松原の大地主なので、恐らく祭礼にはかなりの額を負担していたのでしょう。現在では町会神輿による渡御となっています。

松原は昭和7年の世田谷区成立の際に1~4丁目が整備され、後の昭和41年に現在の1~6丁目に分けられました。町会は旧町域を基準にしていて4町会あります。新町域に変更の際には周辺の赤堤を中心に大原、羽根木、代田も含めて大きく町域変更がなされたので、旧町域を新町域に照らし合わせるとちょっと複雑になります。

御神輿の駒に合わせて現在の町域をみると、だいたいですが「松原壱」が旧一丁目町会で、現在の一丁目の大部分と大原の一部で、「松二」は旧二丁目町会で、現在の二丁目に一丁目と五丁目の一部を加えた地域になります。「松原睦」は旧三丁目町会で、現在の三丁目、四丁目で、「松原五、六」は旧四丁目町会で、現在の五丁目の大部分と六丁目といった感じです。

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神輿渡御は町会神輿なのでそれぞれの町域を宵宮、本宮と回ります。そして本宮の日の14時頃に菅原天神通りの甲州街道付近、神社から見て踏切の先に各町会の神輿が集まり、そして菅原天神ばやしを先頭に連合で神社に向って渡御していきます。基本は4町会4基の神輿となりますが、松二、松竜会では女神輿も列に加わる事もあります。順番は番号の若い順となり、先頭は毎年一つずれていきます。連合渡御は神社の前までとちょっと短めですが、それぞれの町会が楽しそうに担いでいるのが印象的でした。

ここの特徴は出発していきなり踏切があることです。お神輿が進入したら警報が鳴り出して急げ~とバタバタすることも多々あります。また遮断機が下りたらなかなか上がらないことも。そのため先頭の神輿責任者は一番後ろが踏切を渡り終えるまではゆっくりと後ろを見ながら進まなければなりません。

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神社の前に着くと路上で神輿を納めて、担ぎ手や関係者は神主さんのお祓いを受けます。お祓い受けたらしばらくは休憩時間となりますが、責任者や鳶の頭領は社殿に向かいます。社殿内では神事が行われ、最後に円形に並び木遣りが奉納されます。神事が終わると社務所前で御神酒で乾杯し、終了となります。

この後は各町会、先頭から順番に子供神輿と合流したりして、各町会に戻っていきます。この時、松二の神輿(女神輿がでているときも大神輿のみ)だけ神社に宮入します。関係者の人に「どうして二丁目だけなんですか?」と聞くと、「特に理由はないけど毎年の恒例になっているから・・・」とまあ、あんまり深く聞いてくれるなといった感じでした。

ただ宮入するといっても参道は狭く、社殿前のスペースも狭く、ちょっと大変です。そういった理由から他の町会は宮入してこないのかもしれません。で、宮入してきた神輿は社殿前で差し上げて、きちんと収め、その後はお神輿はそのままで担ぎ手だけが反対向きになり、神社から出て行きます。回転するスペースがないのでしょうがないのですが、後ろ向きに進む神輿というのはちょっと面白い光景です。

この二丁目、松竜会は明大駅前という場所柄もあるのでしょうが、他の町会に比べて担ぎ方が元気で、女神輿も運行しているし、他の神社の神輿渡御でも半纏をよく見かけますし、日曜日の朝甲州街道を通ったら閑散とした大通りを元気に担いでいたりととても神輿が盛んな地域といった印象を受けました。

* 菅原神社例大祭の感想など *

世田谷区内の神社をみると、農業の盛んだった名残りで稲荷神社が多く、また源氏の伝説や世田谷城主であった吉良氏にまつわる地域では八幡神社も多く建てられています。そういった中で菅原道真を祀った天神様の秋祭りというのはやはり少し雰囲気が違った秋祭りに感じます。もちろん他の地域と同様に秋の収穫を祝う村祭りとしてずっと行われている祭りなので、松陰神社のように明らかにイベント的な祭りではなく、ちょっと雰囲気が違うといっただけのことです。天神様は独特の行事が多く、そういった事が頭にあるからそう感じてしまうだけかもしれません。

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それよりも松原らしいと感じたのが松原の人の神輿好きという事です。一番の盛り上がりである神社前の連合渡御が盛り上がるのはもちろん、宵宮から元気に各町会を神輿が渡御しています。そして楽しそうに担いでいます。歴史を紐解いていくと松原は甲州街道に面し、新宿までも近く、野菜を運ぶと簡単に現金収入を得られる土地でした。ちょっと野菜を持って行けばすぐにお金になったことから遊び人の多い土地だったそうです。遊び人=騒ぐのが好き、お祭り好きといった感じなのでしょうか。

或いは松原地域は高台にあるので水の便が悪く、雨乞いが盛んに行われたりと神様に対する信仰心の強い地域でもあったようです。そういった不便さから村や町会での団結も強く、昔の式年祭の写真などを見ると、大勢の人が写っていて、村がまとまって祭礼を行っているんだなといった感じを受けました。信仰心や団結力が御神輿を楽しく担いでいる源になっているのでしょうか。それとも遊び人が多いからでしょうか。どちらが松原らしいのかを考えながら秋祭りを見学してみるのも面白いかもしれません。

<せたがや百景 No.33 松原の菅原神社 2009年4月初稿 - 2015年10月改訂>
( 世田谷の秋祭り File.20 菅原神社例大祭 )