世田谷散策記 タイトル
せたがや百景 No.93

玉川野毛町公園

野毛1-25

公園内に直径66メートル、高さ9メートルの野毛大塚古墳がある。小高い丘とも見えるこの円墳は現在都の史跡に指定されている。プール、野球場、テニスコート、遊び場などが設けられ、スポーツと憩いの場となっている公園だ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

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1、玉川野毛町公園について

玉川野毛町公園 公園案内図の写真
公園の案内図

昭和といった感じの案内図がまだ使われていました。

第三京浜は、世田谷と横浜を結んでいる高速道路です。世田谷からだと、第三京浜からそのまま横浜新道に接続すれば、国道1号線に合流できるので、神奈川の湘南とか小田原、あるいはもっと先の伊豆を訪れる場合にはとても便利です。

その第三京浜の入り口となっているのが、野毛の環八にある玉川IC。そのすぐそばには、この項目の玉川野毛町公園があります。

玉川野毛町公園は、野球場あり、テニスコートあり、子供の遊び場があり、屋外プールやデイキャンプコーナーまでもある総合公園です。

しかも、ここには他の公園にないような凄いものがあります。それは百景の紹介文にもある野毛大塚古墳です。公園内にドカってあり、古墳の周りには、埴輪なども並べてあって、古代の雰囲気も満点です。しかも全国的に・・・、といっても考古学の世界ですが、有名な古墳だったりします。

また、すぐ近くに等々力渓谷もあることから、幼稚園や小学生の定番遠足コースにもなっています。

1940年頃の野毛の航空写真(国土地理院)
1940年頃の野毛

国土地理院地図を使用

この野毛町公園のある場所は、等々力渓谷の延長で自然豊かな場所でした。この地が変わっていったのは、昭和6年のこと。等々力渓谷の入り口にあるゴルフ橋に名残があるように、鳩山氏、五島氏といった政財界の大物によってゴルフ場としてこの付近一帯が切り開かれました。

等々力駅から第三京浜の入り口の辺りまで等々力ゴルフ場のコースとなり、この野毛大塚古墳は無事に残されるには残されたのですが、ゴルフ場のコースの中に埋もれてしまいました。

地元の人をそこで働かせるという条件だったので、この開発は地元にとっては決して悪い条件ではなかったようです。

玉川野毛町公園 古墳の上からの眺めの写真
古墳の上からの眺め

結構眺めが良いです。周囲は集合住宅が多く、園内は木々が多く、芝生の広場もありといった環境です。

しかし、このゴルフ場は短命で、昭和14年に廃止されます。その跡地は内務省が購入しました。

その後、戦争になると高射砲の基地となり、敵機が飛んできたら迎撃するはずだったのですが・・・、結局、訓練場としてしか使われなく、敵機を打ち落とすどころか爆撃を喰らってしまい、その時に残っていたゴルフ場の施設などは壊れてしまったとの話です。

1940年代後半の野毛の航空写真(国土地理院)
1940年代後半の野毛

国土地理院地図を使用

1960年代の野毛の航空写真(国土地理院)
1960年代の野毛

国土地理院地図を使用

戦後になると都の公園課、さらに住宅課の所有となり、古墳周辺は公園や集合住宅団地に変わっていきます。極度に住宅難の時代だったので、古墳の周辺はあっという間に住宅で埋め尽くされていきます。

公園が開設されたのもこの頃。現在と比べると狭い面積ですが、古墳を中心とし、1956年(昭和31年)に都立公園として開園しました。

1970年代の野毛の航空写真(国土地理院)
1970年代の野毛

国土地理院地図を使用

1965年(昭和40年)になると、第三京浜道路が開通し、環八が整備されていきました。時を同じくして、管理が都から世田谷区に移り、区立公園となりました。環八沿いにあった集合住宅が取り壊され、公園用地となったことで、野球場やテニスコート、プールが造られました。

公園の周囲にも変化があり、一気に大きな集合住宅の建物が増えました。実際に古墳に上がってみると、今でも周りには集合住宅が多いです。地図を見ると、公園の南側は都営住宅で、東側は国家公務員宿舎、国土交通省住宅になるようです。

2012年(平成24年)には、国家公務員宿舎が廃止となり、その敷地の一部(約2.8ヘクタール)を世田谷区が公園用地として買収しました。現在、拡張整備が進められている最中で、2025年に開園をする予定になっています。

玉川野毛町公園 児童遊園側の入り口の写真
児童遊園側の入り口

環八ができる前はこちらの入り口の方がにぎわっていたのでしょう。

玉川野毛町公園 環八側の入り口に咲く源平桃の写真
環八側の入り口に咲く源平桃

赤と薄いピンクの混じった花が特徴的です。

野毛町公園は野球場を中心とした比較的コンパクトな公園です。環八側に駐車場や管理棟があります。敷地の大きな公園ではないので駐車場は20台しか停められないのが難点で、休日などには満車になっていることが多いようです。

この駐車場側の入り口には紅白入り混じった桜が咲いています。赤色の花、ピンク色の花、赤白まだらな花と面白い色をしていて、結構きれいです。こんな種類あったけ?と調べてみると、源平桃という桃になるようです。桃は同じバラ科サクラ属なので、花が咲いている感じが桜と似ています。

そしてこの付近にはどうにも意味不明な像が二体設置されています。作者は知る人ぞ知る掛井五郎。題名は「雲」と「翼を持った女」となるようですが・・・。センスを理解できる人には素晴らしく、私のような人間には駄作にしか見えないといった感じでしょうか。

玉川野毛町公園 野球場と隣り合わせの野毛大塚古墳の写真
野球場と隣り合わせの古墳

この付近も古墳の一部なのですがしょうがないですね。

駐車場から入り、管理棟を過ぎると、右手に野球場、左にテニスコートや古墳とあり、その間の狭い通路を進んでいくことになります。

特に野球場と古墳はすぐそばです。狭いスペースに色々と詰め込んだといった感じです。

野球場は一面のみです。区内の多くが細長い大きなスペースに2面とっているので、ある意味ではとても贅沢な仕様となっています。

玉川野毛町公園 児童遊園の遊具の写真
児童遊園の遊具

古墳や古代に因んだ遊具があれば面白いですね。

古墳の前は広々とした広場になっていて、子供が駆け回っています。古墳の空堀や祭壇部分の出っ張りがあるので、広場といえどもアップダウンがあり、また埴輪が置かれているのがいい障害物となっていて、それがかけっこするのにいいようです。

児童遊園として遊具も置いてあり、放課後や休みの日には子供たちが一生懸命遊んでいます。遊具はジャングルジムのようなものだったり、ライオンやパンダの置物だったりと、普通です。

ライオンの代わりにスフィンクスだったら・・・、ラクダの代わりに埴輪の馬だったら・・・、などとなにか古墳や古代にちなんだものがあれば面白いのにと通りすがりの散策人は思ってしまいました。

玉川野毛町公園 プール横の児童遊園の様子の写真
プール横の児童遊園の様子

子供の遊ぶスペースが結構あり、夕方はいつも賑わっている感じです。

児童遊園はプールの前の方にもあり、ブランコや滑り台、砂場なども設置されています。周辺が団地ばかりなので子供達が庭代わりに使っている感じで、夕方訪れるといつもにぎわっている感じです。

夏期(7月1日~9月10日)のみ開いているプールは一般用と幼児用があり、有料となっています。競泳用の広いプールではありませんので、水泳を楽しむといった感じになるのでしょうか。

玉川野毛町公園 桜のある広場の写真
桜のある広場

少ないながらも桜が植えられています。

園内には桜が植えられています。桜スポットとしては有名ではありませんが、結構立派な桜の木もあります。

遊具もそろっているし、古墳もあるし、家族で弁当を持ってくるのにはちょうどいいかもしれません。そこまで多くの人が訪れないのでのんびりと花見できそうな感じです。

玉川野毛町公園 野毛大塚古墳 はげ山状態の古墳の写真
はげ山状態の古墳

昔の斜面に入れるときの写真です。

公園にある古墳・・・。しかも結構高かさがある。となると、子供が登らないわけがありません。

砧公園にある小さな砧大塚でさえも見つけたら子供が駆け上がっていきます。何が楽しくて一目散に楽しそうに登ってしまうのか。きっと子供の本能なのでしょう。

この野毛古墳も11mと、高さにすると三階建ての建物と同じぐらいの高さなので、ちょっとした丘と例えるのがふさわしいぐらいです。

昔は斜面も自由に登ったりできたので、斜面を利用してダンボールなどでソリ遊びをしている子供たちもいました。雪の日なんていうのはさぞ楽しかったことでしょう。

玉川野毛町公園 野毛大塚古墳 修復中の写真
修復中の古墳

禿山状態になってしまったので養生していました。

さすがに禿げ山状態になってしまい、これはまずいと修復する事となり、それ以降階段を使って古墳の上部に行く事はできますが、斜面などへの立ち入りはできなくなりました。

といっても、鬼ごっこをして遊ぶ子供達には関係ない事でしょうか・・・笑。腕白に遊ぶ子供を見るとうれしくなってしまいます。

さて古墳は登ったりしていいものでしょうか。日本国内でも登れる古墳と登れない古墳とあります。まして○○天皇稜となると登るどころか厳重にフェンスが張り巡らされていて、「立ち入り禁止 宮内庁管轄」といった仰々しい看板が立っていたりします。

例えば近くにある大田区の亀甲山古墳は入れないようになっていましたし、日本全国的に見ても様々です。

結局のところ管理者の方針次第のようです。しかしながら近年では登れなくしているところが多くなった感じです。とりわけ崩壊や事故を防ぐため、「文化財保護」「安全性」という意見が主流になってしまったようです。

全ての人間が土に帰っていくのが自然の理なら、古墳も自然のままで存在し、風化したり、子供達が遊んで壊れていくのならそれはそれでしょうがないような気もしますが、税金できれいに直したものが壊れていくとなると、また別の問題となってきます。それに公園にある古墳ということで、役所の管轄や責任の所在も複雑そうです。

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2、野毛大塚古墳や周辺の古墳などに関して

玉川野毛町公園 野毛大塚古墳 桜と古墳に登る階段の写真
桜と古墳に登る階段

野球場側に古墳上部に登る階段が設置されています。

野毛大塚古墳は、5世紀初め、古墳時代中期に造られたものとされています。

この古墳が考古学者の間で注目されているのは、全国でも最大級の帆立貝式前方後円墳であり、また多くの鉄製の副葬品や武具が埋葬されていた事です。

そのことからかなりの権力者(恐らく南武蔵地域の大首長)が埋葬されていたと推測されています。

大きな古墳である事と、多くの副葬品から古代の関東地域の権力図などが少しずつ解き明かされています。ただ、古代の様子というのはハッキリ分かっていないことが多いので、どうしても様々な説がでてきてしまいます。ここで書いていることはその一例といった感じです。

玉川野毛町公園 野毛大塚古墳 古墳の模型(1/150)の写真
古墳の模型(1/150)

古墳全体が葺石で覆われていたのとホタテ貝のような形をしているのが特徴です。

墳丘の全長は約82mで、前方後円墳といいながら後円墳部分が大きく、前方墳部分が極端に小さいのが特徴です。ですから普通の前方後円墳と区別し、ホタテ貝式といった言い方をするのが一般的です。

後円墳部分は直径66m、高さ約10mの大きさで、実際は三段に分かれていて、全面が葺石で覆われ、円周の通路には埴輪が並べられていました。古墳自体は整備の際に保護目的で少し土が盛られていて、実物は少し小さいようです。

また、前方部のすぐ脇には長さ、幅とも約10m、高さ約1mの造出部といわれる小さな方形部分が付設されています。これは一周忌などの祭事に祭壇として利用されたもので、この下から祭事に使われたと思われる供え物を置く土器片などが出土しています。

古墳の周囲は最大幅約13m、深さ約2mの空濠で馬蹄形に囲まれていました。前方墳の辺りはそれとなく実際よりも浅い堀で再現してありますが、それ以外の部分は野球場や道路の下とかになってしまっています。実際のものを復元したなら古墳の全長は104mもの大きさになるそうです。

これは近年の発掘で分かったことなので、しょうがありません。修復以前はゴルフ場のコースとなっていたり、戦時中や戦後の混乱期は斜面が芋畑になっていたので、現状は良い方だといえるかもしれません・・・。

玉川野毛町公園 野毛大塚古墳 葺石と埴輪が並べられている様子の写真
葺石と埴輪が並べられている様子

方墳部分には葺石がなされ、埴輪が並べられています。

これも現状では一部しか再現されていませんが、古墳の表面に多摩川の川原から持ってきた丸石で覆われているのも特徴です。その数100万個だとかいうから結構な数です。

そして、以前は古墳の周囲から出土した円筒埴輪などの埴輪列(レプリカ)が当時の様子を模して置かれていました。月日とともに壊れたものが多くなり、全部取り除かれてしまいました。

古墳らしくてよかったのですが、また復活することはあるのでしょうか・・・。

玉川野毛町公園 野毛大塚古墳 古墳の上の写真
古墳の上

長いのが第1主体部(埋葬施設)です。全部で4つの主体部があります。

埋葬品などに関してですが、古墳の上に登るとタイルで石棺の位置や副葬品が描かれているので、どういった状態で埋葬されていたのかわかるようになっています。

この古墳には4基の埋葬施設(主体部)があり、真ん中の一番長いものが最初に造られ、後に追葬で左の第3主体部、右側の第2主体部、一番左端の第4主体部の順に埋葬されました。

中央部の第1主体部に埋葬されている人物がこの古墳の主という事で、棺も長さ8mの割竹型木棺と大きく、埋葬品も多く出土しています。特に鉄製の甲冑、刀剣などは権威の象徴であり、古墳の大きさと共にこの主がどれほどの権力を持っていたのかが分かります。

その他にも銅鏡、石製模造品、玉類などの装身具も出土されています。人骨に関しては完全に土に溶けてしまっていて残っていませんが、装身具などの位置からだいたい160cmぐらいの身長だったと推測されています。

第3主体部は長さ4mの箱形木棺で、ここからは32本の鉄製の刀剣類と大量の矢じりなどが出土されています。結構な量の埋蔵品なので、王を軍事的に補佐した人物が埋葬されていたのでは・・・、いや次の代の王ではないか・・・といった感じの説がありますが、そもそも甲冑、装身具などは出てきていないので、人が埋葬されていたのだろうか・・・といった疑問もあるわけで、結構謎の多い主体部でもあります。

第2主体部は、唯一石棺が埋葬されていました。この石棺は東京湾産岸の砂岩を加工した8枚の板石を組み合わせた箱形石棺で、長さは2.7m程です。中からは甲冑、刀剣、玉類などの装身具が出土しています。

明らかに世代や様式が違うので、古墳にしては珍しい二世帯住宅方式になっているのでは・・・といった感じでしょうか。ただ埋葬者に関しては王になれなかった王子なのか、世襲した王子なのかは議論の余地が大いにあります。

第4主体部は一番左端に設けられたもので、第1主体部から50年ほど後に造られたのでは推測されています。長さ約3.2mの組合せ式箱形木棺で、埋葬品は刀剣2本と水晶の丸玉が2個と少なく、恐らく埋葬者は女性ではないだろうかと推測されています。

その他、古墳の周りから円筒形の埴輪が多数、そして造出部からは柵形埴輪や家や鳥などの器財埴輪が出土しています。

玉川野毛町公園 野毛大塚古墳 土器型の埴輪が並ぶ様子の写真
土器型の埴輪が並ぶ様子

壊れているものが多いです。尖っているとちょっと危ないかも。

古墳といえば昔の貴族のお墓です。この付近に古墳があるのが不思議に思う人もいるかと思いますが、多摩川沿いには多くの古墳が残っています。

それも時代ごとに古墳群を形成していて、少し南の田園調布の多摩川台公園にある亀甲山古墳を中心とした田園調布古墳群、そしてこの寝気大塚古墳を中心とした野毛古墳群、更に多摩川を北上して狛江、喜多見古墳群といった感じです。

古墳群はそのまま勢力を表してて、まず一番大きな亀甲山古墳を持つ田園調布の勢力がこの付近を支配します。亀甲山古墳は全長107メートルもある前方後円墳で、4世紀後半、古墳時代前期に造られたものだとされています。その頃の野毛などの古墳は小さな円墳が主体でした。

その後5世紀になると畿内王権の変動があり、河内や和泉を中心に新たな政権が誕生しています。その事により新たに身分、階級の秩序が生まれたようで、例えば地方酋長の古墳の大きさや形状の制限などが行われたとされ、この時期には日本各地の古墳の形状に変化が見られます。

その時に新しく生まれたのが野毛大塚古墳のような前方後円墳もどきのホタテ貝式前方後円墳です。その文化がいち早く表れたのが野毛で、田園調布古墳群と比べて野毛の古墳は畿内文化が強いと言えます。

それは副葬品にも表れていて、当時畿内にしかなかったような鉄製の甲冑や大量の刀剣など副葬品として埋葬されており、野毛の勢力は新たな政権といち早く手を結んだ事によって田園調布の勢力との力関係が逆転したのではと推測できます。

野毛では大塚古墳をピークに徐々に古墳が小さくなっていきます。野毛の勢力が衰退したのと、時代の流れ的に古墳自体の意義が薄くなったのとが重なっているのでは・・・ということです。

その後は狛江や喜多見で古墳が充実していることから、今度は野毛からそっちへ権力が移ったようです。ただし、古墳の存在意義が薄くなっていたので、古墳自体は小型のものが多いです。

玉川野毛町公園 桜と野毛大塚古墳の写真
桜と野毛大塚古墳

桜の時期の古墳もいいものです。

そもそもなぜ野毛がいきなり権力を持ったのか。なぜこの地がそんなに重要だったのかという事を考えると、それはまず第一に馬の産地としていい放牧地だった事です。畿内の王は関東の質の良い馬を確保するためにこの地を確保しておく必要があったのです。

第二に北関東には毛野(地域首長連合)という大きな勢力があり、その監視(攻略)の要としての役割がありました。そういったわけで畿内の勢力は野毛の勢力と手を結んだようです。ただ野毛の勢力があまりにも急に畿内色が強く表れています。おそらく畿内の人もこっちへ移住してきたから畿内の文化が強まったと考えられます。

その畿内の人々が移住して集落を造ったのが狛江や喜多見の付近で、野毛が勢力をふるっているうちに徐々に力を蓄え、そのうち野毛の勢力は用済みだと判断して自分たちでこの付近の実権を握ったのではないかともいわれています。

玉川野毛町公園 野毛大塚古墳 紅葉する園内と古墳の写真
紅葉する園内と古墳

秋の古墳もいいです。秋には古墳まつりも行われます。

野毛古墳群は造られた順に上野毛稲荷塚古墳、野毛大塚古墳、天慶塚古墳、御岳山古墳、八幡塚古墳、狐塚古墳、その他小さな古墳群で構成されています。

多摩川沿いの一つの丘に一つの古墳があるといった感じで、この地域を王家の丘として整備しようではないかといった案もあったりします。

実際にそうなれば面白いかもしれませんが、一般の人に面白いような施設や展示になるのかと考えると、ちょっと微妙な感じです。

ただ、個人の所有地にあった古墳などを区が買い取ったりしているようなので、もしかしたらそれに近いようなことをやろうとしているのかもしれません。

今のところ古墳の埋葬品など詳しいことに関しては代官屋敷のところにある郷土資料館に展示してあります(レプリカが多いですが)。興味あればそちらもご覧になるといいと思います。

3、野毛古墳まつり

玉川野毛町公園 野毛古墳まつり ミニ土器製作の写真
ミニ土器製作

子供達が悪戦苦闘しながら頑張って製作していました。

毎年10月中~下旬の日曜日にここ野毛町公園を会場に野毛古墳まつりが行われます。

このイベントは2008年から古墳をより多くの方に知ってもらい、保存の大切さを伝えることを目的として行われるようになりました。そう多くの人が訪れるイベントではありませんが、古墳や古代に興味のある人たちを中心に集まり、遠方からの来訪者もあります。

玉川野毛町公園 野毛古墳まつり 教授による古墳の解説の写真
教授による古墳の解説

興味のある人しか来ないので、熱心に耳を傾けている人ばかりでした。

当日は世田谷区の学芸員、あるいは昭和女子大の教授によってによって古墳や歴史の解説が行われます。

午前の部は野毛大塚古墳に上がって発掘で分かった事を中心に古墳に眠っている人や副葬品から推測できること、そしてその時代の背景などを解説してくれます。

午後の部はちょっとスケールが大きくなり、野毛大塚古墳の周辺の古墳群を巡るコースで、約2時間ほどかけて学芸員の人と歩き回ります。

玉川野毛町公園 野毛古墳まつり 古代クッキーを焼く様子の写真
古代クッキーを焼く様子

昭和女子大の学生がお手伝いをしていました。

玉川野毛町公園 野毛古墳まつり 試食用の古代食の写真
試食用の古代食

まあ・・・想像通りの味でした。でも貴重な味覚体験でした。

その他には火おこし体験やミニ土器制作体験といった古代体験ができます。おいしい体験もでき、古代食や古代クッキーを無料で試食することができます。味の方はまあこんなものかなといった感じですが、こういったものを食べる機会はめったにないのでお勧めです。

この他、出土品の展示や地元の野毛町会による綿菓子などのお菓子屋軽食、スーパーボールすくいなどの屋台も出ます。

4、感想など

玉川野毛町公園 緑に埋まる古墳の写真
緑に埋まる古墳

夏に立ち寄ったら雑草の緑に埋まり、遺跡っぽくなっていました。

野毛町公園は、園内に大きな古墳があり、秋には古墳祭りも開かれるといった古代ロマンあふれる公園です。

以前は、古墳自体が公園内にある遊具の一つとなっていて、古墳としての存在感がないというか、親近感のあるお山的な存在でしたが、今ではきちんと整備され古墳らしい古墳になっています。

子供の遊び場のままでもいいのに・・・などと無責任に思っていましたが、きれいに整備されてみると、古墳を訪れたという満足感が上がっていいものですね。この古墳の価値が上がった気がします。

そういったこともあってか、近年、副葬品が国の重要文化財に指定されました。これで全国的に有名な古墳に・・・とはなりそうな感じは全くしませんが、遠足で小学生などが等々力渓谷から野毛大塚古墳を回っているように、散策でも等々力渓谷と一緒に訪れてほしい場所です。

せたがや百景 No.93
玉川野毛町公園
2025年5月改訂 - 風の旅人
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・地図・アクセス等

・住所野毛1丁目25
・アクセス最寄り駅は大井町線等々力駅。
・関連リンク玉川野毛町公園(世田谷区)、野毛大塚古墳(世田谷区)
・備考野毛大塚古墳は東京都指定史跡。古墳に関する資料は郷土資料館内に展示されています。古墳まつりは10月の週末。
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