粕谷八幡神社
粕谷1-23-18芦花恒春園は、文豪徳富蘆花が明治40年から昭和3年の死亡までの20年間を、愛子夫人とともに過ごしたところで、園内には蘆花記念館と当時のままの書院、母屋が残されている。裏手には、児童公園や散策によい公園が続いている。近くの粕谷八幡には蘆花ゆかりの「別れの杉」二代目が植えられている。このあたりは緑の深い趣のあるところだ。(せたがや百景公式紹介文の引用)
*芦花恒春園については前項No.39-1で紹介しています。
1、粕谷村と粕谷八幡神社について

芦花公園の一部といった感じで、芦花公園に隣接するように粕谷八幡神社があります。もちろん神社なので、公園の敷地とは別の敷地になります。
蘆花恒春園は徳冨蘆花の旧宅を公園にしたもの。粕谷八幡があるのは、蘆花邸のすぐ裏ということになります。蘆花とも関係があり、明治14年と大正14年に社殿の改築が行われているのですが、その時に氏子の一人として450円を寄進した記録が残っています。

切り株として保存されています。
著書にも粕谷八幡神社のことがたびたび登場していて、鳥居のそばにある杉は蘆花の著書「みみずのたはごと」に出てくる「別れの杉」になります。ただ・・・、残念ながら今では枯れてしまい、根本部分しか残っていません。
その代わりというか、鳥居横に若い杉が植えられています。設置されている案内板によると、由緒ある杉なので、みんなで話し合って新しく植えたそうです。まだまだ若木なので、存在感のある立派な杉になるには、いましばらく時間がかかりそうです。

大きなイチョウの木があるので、秋には参道がいい雰囲気になります。
粕谷八幡神社は粕谷村の村社でした。詳しい由緒は分かりませんが、鎌倉時代に豪族粕谷三郎兼時の館がこの近くにあり、八幡様を勧請、或いは守護神にしたといった事が伝わっていることから、鎌倉時代には存在していたのでは・・・と推測されています。
粕谷の地名についても詳しく分かっていませんが、この粕谷兼時が住んでいた事に関係があるのでは・・・と言われています。
粕谷氏は後に吉良氏の配下となり、野呂田・・・、現在の中町付近を治めていたとかで、中町付近の古くからの大きな家の表札は、粕谷姓が多いです。中町の村社は中町天祖神社。ここの祭礼を訪れると、神輿の休憩所となっているお宅が粕谷家ばかりだったり、奉納者掲示板に粕谷姓が多かったりします。

蘆花が粕谷にやってきてから百年を記念して境内に設置されました。
粕谷は、江戸時代には天領となり、ちゃんとした村が形成されたのは、1648年頃と推測されています。天領のため開墾が積極的に進むことなく明治を迎え、明治40年には徳冨蘆花が青山から引っ越してきます。
当時の様子を「みみずのたはこと」に書いていますが、「人家はまばらで、四方が寂しく、色々な物音が響く」と表現しています。明治40年頃の粕谷は、全26戸だったそうです。大正九年の国勢調査でも、33世帯、235人となっているので、本当に閑散とした地域だったようです。

*国土地理院地図を書き込んで使用
昭和に入り、小田急線、京王線が開通すると世田谷の人口が爆発的に増えていきます。ただ・・・、ここ粕谷は駅から離れていたせいもあり、昭和30年頃まであまり人口が増えず、町が本格的に発展するのは昭和46年の環八通りの開通後となります。

社殿の裏手が蘆花の家になります。現在の社殿は昭和34年に建てられたものです。
粕谷八幡神社は明治6年に粕谷村の村社となり、明治14年社殿を改築、大正14年にも改築が行われ、昭和2年に改築奉祝祭が盛大に執り行われています。
蘆花も氏子の一人として450円を奉納していて、その記録が残っていますが、当時の社殿は昭和34年には放火によって全焼してしまったので、蘆花の時代の面影は残っていません。
現在の社殿は、放火があった年の12月に氏子の努力によって鉄筋コンクリート製で建てられたものです。社殿の前には大きなイチョウの木、そして後ろの方にはモミジがあるので、秋には社殿がとてもいい雰囲気となります。

*国土地理院地図を書き込んで使用
神社の建て直し等が行われる場合、社地を売ってというのが、世田谷では多いのですが、ここでもそうだったのでしょうか。再建後の航空写真を見ると、神社周辺に家屋がたくさん並んでいます。
それとも、元々他の方の土地で、同じタイミングで土地を分譲したのでしょうか。その土地は最終的に都によって買い上げられて、公園地になっていますが・・・。ちょっと気になってしまいました。

社殿の奥に緑に囲まれるようにしてあります。
神社は全焼してしまったので、あまり古いものは残っていませんが、天保六年(1835年)建立の石鳥居と文久時代(1861~63年)の手水石が残っています。
また本殿の脇、木々や植物に埋まるような感じで、境内社の五所神社がひっそりとあります。祭神は厳島姫命、宇迦御魂命、日本武命、淤母陀琉命、疽神の五神です。
2、粕谷八幡神社の秋祭り

参道に出店が並んで少しにぎやかになります。
粕谷八幡神社の例大祭は、蘆花が暮らしていた大正の頃には、10月3日が祭礼日で、3~5年に1度、田舎歌舞伎が興行され、大変賑わったそうです。
蘆花の本にも「普段置いてある唐獅子はどこかに取り除かれ、そこになかなか馬鹿にできぬ舞台が設置されている。境内には一面ムシロが敷き詰められ、村はもとより他村の老若男女450人がどよめいている」などと、書いてあります。
現在では体育の日、あるいはその近辺で祭礼が行われています。祭礼は一日のみで、2010年の場合、11時から式典、13時から神輿と太鼓車の巡行。16時半頃に御神輿などが帰ってきて、17時から抽選会が行われます。
露店は5店ほどでしたが、地域の団体のお店なので、焼きそばが200円で売っているなど、とてもお財布に優しいです。

この時は多くの子供たちでにぎわいます。
小さな神社なので、そこまで活気がある祭りではありませんが、神輿が帰ってきた後に行われる抽選会の時は、境内が混雑します。自転車などが景品なので、子どもたちも結構真剣です。
せっかく祭礼のために舞台を設置するなら、何か奉納演芸でも行えばいいのにと思ってしまうのですが、やっぱり参加団体や観客が集まらないのでしょうか。

中学生を中心に担がれます。
粕谷八幡神社の神輿は、13時頃に出発して16時半頃に戻ってきます。
以前は担ぐ人が集まらなく、小さな子供神輿と太鼓車で町内を回っていましたが、2010年から芦花中学の生徒が担いでくれることとなり、小ぶりの神輿を担いで、町内を回ることができるようになりました。

結構長い行列となります。

部活帰りなどで参加の子も多く、色んなユニフォームでの混成チームです。
神輿渡御は太鼓車が先導します。神社を出るときはそうでもありませんでしたが、戻ってくる頃になるとそこそこ長い列になります。
神輿の方は中学生が大勢集まって、見た目は活気があるものの、やっぱり素人の子どもたちが中心になって担いでいるので、普段見慣れている神輿本来の動きからすると不自然です。なんて言うか、あまり揺れない神輿です。
おまけに担ぐ姿も体操服だったり、部活の帰りで野球のユニホームだったりと様々で、担ぐというよりは神輿を運んでいるといった感じでしょうか。

真面目な中学生なので、規則正しく渡っていきます。大人だと・・・、大変です。
正直、他の神社と比べてしまうと、神輿渡御での見所はありません。でも、ここでは神輿が担がれることが重要で、2010年に何年、何十年かぶりになるのかわかりませんが、久しぶりに神輿が担がれるようになった時の役員の方々のうれしそうな顔が忘れられません。大袈裟に言うなら、昔日の思い出が戻ったといった感じでしょうか。

実は、以前の秋祭りのポスターでは、賑やかに神輿を担ぐ写真が使われていました。他の祭りでも見たことがあるので、秋祭りポスターの素材になるでしょうか。
賑やかな祭りをやっているんだ。それは楽しみだ。そう思いながら秋祭り日に神社を訪れてみると、境内は閑散としていて、神輿も子供神輿しか運行されないと知り、ガッカリした思い出があります。
でも、裏を返せば、こういった賑やかな神輿渡御や祭りをしたいといった気持の表れだったのでしょう。今後も蘆花中学の学生に頑張ってもらい、粕谷の神輿が賑やかに町域を歩き続けるられるといいですね。
3、感想など

紅葉の時期には社殿の赤が引き立ちます。
粕谷は人口が少ない寒村でした。それでも蘆花の時代には芝居を呼ぶような祭りを行ったり、神社を改築したりと頑張っています。氏子というより村全体が団結していたからこそできたのでしょう。
しかしながら時代が進むと、どんどん宅地化が進み、今まで住んでいた人よりも新しい移住者の方が多くなってしまいました。地域には住んでいる人は多いのだけど、地域の行事とか、秋祭りの盛り上がりの方は・・・というのが現状のようです。
秋祭りを眺め、「俺たちの時代の方が人は少なかったけど、祭りの熱気は多かったな・・・」などと、神社の裏手にある墓から蘆花が呟いているのではないでしょうか。
せたがや百景 No.39-2粕谷八幡神社 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 粕谷1-23-18 |
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・アクセス | 最寄り駅は京王線芦花公園駅。駅から少し離れています。 |
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