稲荷森稲荷神社と秋祭り
桜丘2ー29-3地域の若者が古紙、段ボールを収集して建造した自慢の大太鼓が神輿の前を先導する祭り。その大きさは東京でも有数で、稲荷森稲荷神社の象徴となっています。
1、桜丘と稲荷森稲荷神社について
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室町時代から戦国時代にかけて、世田谷城を拠点にしていた吉良氏が世田谷を治めていました。江戸時代になると徳川家に古くから仕える彦根藩井伊家の所領となり、代官職を賜った大場家が世田谷を治めました。
こういった時代から世田谷の中心となっていたのは、世田谷村です。世田谷区の名の由来にもなっているのですが、明治頃までは世田谷の事を「せたかい」と呼んでいたり、その昔は世田ヶ谷村、勢多郷、瀬田萱、瀬田谷などと呼ばれていたそうです。
その世田谷村はボロ市通りや区役所のある世田谷を中心に世田谷城があった豪徳寺、世田谷八幡神社のある宮坂、そして梅ヶ丘、桜、桜丘の他、羽根木などの飛び地が幾つかあるという大きな村でした。
その世田谷村の西の端に位置するのが旧世田谷5丁目にあたる桜丘です。現在の町域では環八が西端、世田谷通りが南端にあたり、東は農大付近で桜と接し、北は経堂、船橋と接しています。
千歳通りには多くの桜が植えられています。
桜丘・・・、なかなか素敵な町名です。桜の多く植わっている丘があり、その印象的な光景から地名が付けられたのでは・・・などと、その名から想像することでしょう。
実際、かつての品川用水の跡地を整備した千歳通り沿いには、桜並木が続いていて、ちょっとした桜の名所となっています。
しかも、この品川用水の護岸には、多摩川から運んできた玉石を使った玉石垣が設けられていて、それが今でも部分的に残っています。これがなかなか素敵な風景となっていて、せたがや地域風景資産にも選定されています。
この桜並木を見ると、この桜が地名の由来になってのでは・・・と思ってしまいますが、残念ながら桜丘の地名の由来は、この桜並木でも、この地にあった桜や桜に関する事柄でもありません。
桜丘という地名は、昭和41年に世田谷町から分離した際につけられたもので、元をただせば桜木という世田ヶ谷村の小字に由来します。
この桜木という小字は、吉良家墓所がある勝光院の裏手にある桜木中学校にその名をとどめるだけとなってしまいましたが、世田谷城内にあった「御所桜」という桜にちなんだものだそうです。
この桜木の地にできた最初の小学校が桜小学校で、その後、現在の桜丘付近に開校したのが第二桜小学校(現在の桜丘小学校)でした。その後、桜丘国民学校と改名され、昭和41年に世田谷町から独立する際、小学校の名がそのまま「桜」と「桜丘」という住所になりました。
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現在の桜丘は1~5丁目で構成されています。見た目は一つの町域となっていますが、目に見えない境界が存在していて、簡潔に書くと4丁目以外の横根地区と4丁目の宇山地区に分かれています。
それは歴史的なもので、宇山地区というのは宇奈根山谷と呼ばれた地域で、多摩川沿いにある宇奈根地域の人々が洪水などを機に移り住んだ土地と言われています。後に宇奈根山谷が短縮して宇山となりました。
とはいえ、それは江戸時代のこと。現在では普通に暮らす分には同じ桜丘の住民となり、なんら対立とか、不平等なことはありません。
ただ、村としての文化、一番顕著なのは氏子町域が異なっていて、横根地区は稲荷森稲荷神社、宇山地区では宇山稲荷神社を信仰していて、今でも祭礼や盆踊りなどは別々に行っています。
ちなみに古い地図を見ると、この付近には横根という小字がたくさんあり、ちょっとややこしいです。すぐ近く、大蔵一丁目の世田谷市場横にある横根稲荷神社を中心とする旧・横根村もそうで、同じ横根という名だっただけで、同じ町域というわけではありません。
細い商店街の通り沿いにあります。
桜丘の大部分を占める横根地区の氏神となっているのは、稲荷森稲荷神社です。稲荷の文字が続きますが、読み方は「とうかもりいなり」と、同じ読みを繰り返しません。ただ、神社の公式サイトを見ると、「いなりもりいなり」という表記もあるので、実際はどちらでもいいのかもしれません。
由緒に関しては、詳細な資料は残っていなく、恐らく室町時代以降、吉良氏が世田谷を治めていた時期に創建されたのではないか・・・と推測されています。
ただ、もっと古い話も残っていて、明治時代に土地の古老たちが話すには、「奥州へ落ち延びた源義経を追って静御前がやってきて、この神社で一夜を明かした」と、言い伝えられてきたそうです。
とはいうものの、源義経と静御前の伝説は日本各地に残っていて、それを全部信じると義経や静御前はいったい何人いたんだ・・・といった話になり、こういった類の話の信憑性は薄いというのが、一般的な見解になります。
毎年1月と12月の15、16日にボロ市通りで行われます。
吉良氏の統治時代には、この神社、或いは周辺で六斎市が開かれ、天正六年(1578年)には小田原城主北条氏政がそれを上町に移し、後にボロ市になったともいわれています。その名残で、以前はボロ市の日には神社前に数軒の店が出ていたそうです。
江戸時代に書かれた「新編武蔵風土記稿」では、「菅刈社」と称されていて、この付近も「菅刈庄」といわれていたことから、「地名を冠するのだから、古く由緒ある社であろう」と、適当な感じに記されています。
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世田谷通り(旧・登戸道、津久井往還、黒駒街道・・・様々な呼び方がある)から分かれ、滝坂道や府中方面へ抜ける黒駒裏街道(横根道)が稲荷森稲荷神社前を通っていました。神社の前の細い商店街通りがそうで、現在でもこの細い道を東へ道なりに進んでいくと、ボロ市通りにたどり着けます。
神社には江戸時代の馬方達が奉納した木彫が残っています。なんでも、神社の杉の森は古木がうっそうと茂っていて、「どんなに雨や雪が降っても稲荷森まで行けば焚き火ができる」「稲荷森神社では傘がいらない」と言われるほどだったとか。
往来する人々や荷物の運搬を生業とする馬方達は、この森で雨宿りや休憩する事も多く、時として旅の安全を祈願し、木彫りなどを奉納したとされています。
その他、昔は境内で馬の市が立ったことから横根道を馬喰横丁と呼んでいたといった記述もありますが、どうなのでしょう。
明治18年(1885年)の記録では、547坪(約1,800㎡)の境内に100本余りの杉があり、44戸の氏子に支えられている・・・とあります。かなりの規模の杉林を有していたことが分かります。
というより、森といった状態だったようで、杉の森があったことから稲荷神社の森、稲荷森という名前が付けられ、いつしか神社の名になりました。
明治40年(1907年)には合祀令が発令され、世田谷村の鎮守である現世田谷八幡神社への合祀、神社の廃社が強要されましたが、氏子有志は結束して独立維持を主張し、政府に立ち向かって神社を護持したそうです。この時なのかわかりませんが、新政府に社地の大半が取り上げられたとか、なんとか。
そういった経緯に拠るものなのか分かりませんが、今でも神社庁に所属しない単立神社として維持されています。世田谷区内の旧・村社相当の神社では、ここだけのはずです。
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現在、神社は小田急線千歳船橋駅のすぐ南に立地しています。駅そばの立地のうえ、神社前の通りは参商会という商店街ということで、商店やマンション、住宅に埋まるように存在しています。
神社前の通りは細く、賑やかな商店街というほどではありませんが、昔ながらの商店街といった感じです。その商店街の中ほどに神社があり、都会の商店街の中にあるのにふさわしく、平坦な土地に神社が建てられているといった境内になっています。
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現在の境内からは稲荷森と呼ばれたころの面影を感じることはできませんが、昭和の初期までは樹齢300~400年を数える杉の神木を中心に鬱蒼とした森のようになっていて、更には大きな湧水池もあったようです。
戦前の航空写真は鮮明に写っていないので、森のようになっているとしかわかりませんが、戦後(昭和20年)間もない時期の写真では、影の付き方からかなり樹高のある杉が神社を覆うように存在しているのが確認できます。この頃までは稲荷森の名にふさわしい雰囲気が残っていたようです。
その後、世の中が落ち着いてくると、社務所を建てるために境内の杉を伐採して材木として利用したそうです。なかなかワイルドな話ですが、当時は極度の物資の不足でやむを得なかったとか。
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また、世の中の発展とともに大気汚染などの公害もひどくなり、枯れてしまう木もでてきたそうです。オリンピック(昭和39年)頃の写真を見ると、その話の通りに杉の大半がなくなっていて、今に近い境内になっているのが分かります。
それ以降は周囲の風景もどんどんと都会的になっていき、周りの風景に合わせるように神社の風景も都会的な感じになっていきました。
現実問題として、敷地の三方を住宅地と接しているこの場所に、今でも日光街道にあるような何十メートル級の杉が何本も植わっていたなら、日照権やら、周辺に舞い散る落ち葉や枝、花粉、集まってくる鳥や虫などが問題となり、いくら神社とはいえ周囲との共存が難しいでしょう。
朱色の宮島型の鳥居です。
昭和44年に建てられたものです。
社殿前に立派な枝垂れ桜があります。
商店街側に入り口があり、大きな鳥居が設置されています。その鳥居をくぐって参道を進んでいくと、赤い二の鳥居と、手水舎があり、その奥に赤い社殿があります。
現在の拝殿や本殿などの社殿一式は、昭和44年(1969年)に建てられました。コンクリート造りの建物は、大きさは違えど世田谷八幡宮(昭和39年築)に似ていて、さながらミニ世田谷八幡宮といった佇まいです。この神社は世田谷八幡宮から宮司を迎えているので、似た造りになったのでしょうか。
二の鳥居と拝殿との間にはなかなか立派な枝垂れ桜が植えられていて、春の開花時期は赤い鳥居や社殿と合わさって素敵です。
かつての本殿の内宮社を利用しています。
社殿に向かって右手、覆屋の中に境内社が祀られています。案内板によると、八坂神社になり、素戔嗚尊が祀られています。使われている社は、昭和44年以前に本殿の内宮として使われていたもので、寛政11年(1799年)に建造と、なかなか年季が入っています。
境内社の横には神輿や大太鼓が収められている神輿庫があります。こちらは旧拝殿を再利用しています。 あと、神楽殿はなく、祭りの時には舞台を組み立てて使用しています。
境内には大きな銀杏の木がそびえています。
それなりに敷地を擁していますが、境内はあまり広く感じないというか、広々としたスペースが少ないです。その原因となっているのは、境内の真ん中にあるイチョウの木。
一の鳥居と二の鳥居の間にはそれなりにスペースがあるのですが、その真ん中で場所をとっているのがこのイチョウの木です。このイチョウの木があることで、境内の使い勝手が悪く、盆踊りの会場になるときには、このイチョウの木を囲むように櫓が設置されたり、秋祭りでも、このイチョウの木を取り囲むように屋台が並びます。
でも・・・、紅葉の時期に訪れてはいませんが、紅葉時分には社殿や鳥居の赤とイチョウの黄色で、素敵な雰囲気の境内となるのではないでしょうか。
その他、この広場の隅っこに子供用の遊具が置かれています。神社が子供のために置いているのかと思っていたのですが、桜丘とうかんもり稲荷広場と、公園登録されていました。よくある神社の敷地を区が借りて公園にしているパターンになるはずです。
2、参商会納涼盆踊り大会
7月中旬の週末に行われます。
7月中旬の土日、多分夏休み入って最初の土日になると思いますが、神社の境内で「参商会納涼盆踊り大会」が行われます。
参商会は神社前の通りを中心とした千歳船橋参商会商店街のことで、この盆踊り大会の主催をしています。後援というか、協力は、桜丘町会や神社の横根睦、消防などです。
境内に入った直ぐのスペースに櫓が設置されます。
なんと櫓の真ん中からイチョウの木が生えています。
プロレスのリングのような櫓です。太鼓は隅っこで叩いていました。
稲荷森稲荷神社の境内は、駅そば、そして商店街の中に立地していながら、そこそこの広さがあります。しかし、まとまって広いスペースがないので、盆踊りの櫓はイチョウの木を囲むようにして設置されます。
こういった櫓で盆踊りをしているのは、世田谷ではここだけです。きっと東京でも・・・といった感じではないでしょうか。
初めて見たときは、ちょっと笑いました。盆踊りの櫓から木が生えている・・・。って。しかも、高さ的にも、大きさ的にも、まるでプロレスのリングのよう。一回そう見えてしまうと、ずっとそう見えてしまうもので、滞在中、ずっと違和感しか感じませんでした・・・。
イチョウの木の周りにリングを、いや、櫓を設置しなければならないほどなので、大勢で踊るスペースはなく、基本的にはリングのような櫓の上に上がって、イチョウの木を回るように踊ります。太鼓も櫓の隅っこで遠慮がちに叩いていました。
屋台が並び、賑やかな雰囲気です。
夏まつりらしく、様々な種類の店が並びます。
盆踊りの方はいまいち盛り上がりに欠けるように感じましたが、境内には多くの屋台が並び、多くの人が訪れ、賑やかな雰囲気でした。秋に行われる秋祭りと同じぐらいか、それ以上の賑わいとなるでしょうか。
世田谷区内では秋祭りよりも夏の盆踊りの方がにぎわうことが多いです。ここの場合は、駅から近く、人通りの多い商店街に立地していることから、盆踊りよりも商店街の夏まつり的に賑わっているように感じました。
3、稲荷森稲荷神社の秋祭り
稲荷森稲荷神社の祭礼は、10月第2土曜と日曜に行われています(10月が日曜日から始まる場合はどちらの週になるのかはわかりません)。
古い話ですが、戦前には神社には常駐する神主はいなく、豊作の年(3年ぐらいおき)にだけ盛大な豊年祭りが行われていたそうです。その後、世田谷八幡神社から神主を迎え、氏子も増え、毎年盛大に祭りが行われるようになったそうです。
大きな太鼓なのでひと際目立っていました。
現在の稲荷森稲荷神社の祭礼は、色々な特徴があり、面白いと言うと表現が悪いかもしれませんが、地域外の人間が訪れてもけっこう楽しめるかと思います。
なかでも一番の特徴は、巨大な太鼓を所有していること。宵宮、本宮ともに太鼓は太鼓山車となって神輿を先導します。大きいので音の迫力にも驚きますが、何よりその巨大さに驚きます。
8月に馬事公苑で行われる世田谷区民祭にも参加していて、その時に入り口付近に置かれたり、神輿パレードに参加します。その際、「うわぁ~、でかい太鼓・・・」と、多くの人がその大きさに度肝を抜かれています。
夏の盆踊りの時の方が賑やかです。
巫女さんが常駐していました。
土曜日は宵宮になります。少し前までは土日両日、同じように神輿と太鼓車が昼過ぎに出発していたので、朝から準備などでそれなりに境内に人がいましたが、今では土曜日は18時に出発になったようです。
地域の人の歌や踊りが披露されます。
19時になると宵宮祭が行われ、祭りのために設置された舞台で奉納演芸が行われます。宵宮の日には地元の人によるカラオケなどが中心となります。途中で神輿が戻ってきて宮入が行われるので、その時は中断します。
昭和のままといった、とても硬派な応援団です。
やっぱり農大といえばこれですね。
奉納演芸が終わると、同じ桜丘町域にある東京農大の応援団(東京農業大學全学応援団)のパフォーマンス披露となります。これといった特徴のない桜丘なので、全国に名を知られる東京農大は地域の自慢になっているはずです。
近年ではあまり姿を見かけませんが、新春恒例の箱根駅伝の出場回数は70回(第100回、2024年時点)。区内の有名校、駒澤大学よりも多かったりします。
箱根駅伝の中継で時々流れる農大の応援団、そして象徴となっている大根を持った応援は、地域の人にも馴染みのあるものです。大根踊りになると、やんやの歓声が上がります。
とても人気のあるイベントです。
なぜ農大の応援団が地域の秋祭りの奉納演芸にやって来るのか。それは地域への親睦もありますが、11月上旬に行われる農大の収穫祭の宣伝の一環になります。
収穫祭は農大の学園祭となり、その盛り上がりは東京でも指折り数えてというほど。地味な印象の強い農大。その収穫祭がなぜそこまで盛り上がるのかは、収穫祭の名の通りで、醸造科や畜産科などの生徒が造った食品や、農業科の生徒が造った野菜、こだわった食材を使った模擬店の数々と、訪れる人に魅力のあるコンテンツがあるからです。本当に多くの人が訪れています。
長い行列ができていました。
で、応援団のパフォーマンスが終わると、恒例の大根の無料配布。現在でもそうなのかわかりませんが、農大というと大根。収穫祭でも大根の無料配布が行われていますが、こういった地域のイベントでもよく大根を配っています。
神輿を担いで、直来で少し食べて、最後に大根をもらって帰るのが、ここの担ぎ手の恒例行事となっているようで、さっきまで神輿を担いでいた半纏を着たおじさんたちが大根を嬉しそうに抱えて帰路についていました。
なんでも神輿を担ぐのを快く思っていない女房の機嫌を取るのにお土産にするのだとか。実際は女房の喜ぶ顔が見たいからといったところでしょうか。
厳粛に行われます。
絵になっている神事です。
身を清めてから神事に向かいます。
本宮の日は午前10時から例大祭が行われます。祭礼は神社の規模にしては・・・と、書くと怒られるかもしれませんが、立派な格式で行われます。
まず舞台前に設置された祓所で修祓が行われます。多くの人に名を知られた神社や一宮、県社、郷社というような格式のある神社では当たり前に行われる神事ですが、普通の神社では省略し、拝殿内の神事の一環として行う事が多いです。
境内で行われる神事はなかなか絵になっていますが、ここは商店街の中にある神社。背景までを考えると、アパートなどが多く、少々残念でもあります。かつての稲荷森と呼ばれていた頃だったらさぞ素敵でしょう。
列を組んで拝殿に向かいます。
修祓が終わると、雅楽の演奏と共に神職、楽師、総代や参列者が拝殿に参進し、拝殿にて祭礼(神事)が行われます。神事自体は一般的な神事になるようです。
マジックや歌唱などが行われます。
12時半頃には神輿と太鼓が宮出しされ、町に繰り出していきます。夜になると、宵宮同様に奉納演芸が行われます。
訪れた2012年は、本宮の日曜日はプロによるステージで、神輿が戻って来る前にマジックショー、神輿が宮入りした後に演歌歌手によるステージが行われていました。現在は、宵宮同様に素人奉納演芸になっているかもしれません。
安宅囃子保存会によるものです。
奉納演芸が終わると、神輿の先導を務めたり、すぐ隣の経堂天祖神社の祭礼でも活躍している安宅囃子保存会によるお囃子の演奏があり、獅子舞がなどが演じられます。
安宅囃子保存会は第二次大戦を境に伝承が絶えていた里神楽やお囃子を復興し、伝承している会になります。
江戸の文化年間(1804~17)、世田谷には周辺にも名を轟かすほどの囃子名人、大場増五郎がいました。その大場直伝の経堂流を興し、安宅崩し(あたかくずし)という秘曲を今に伝えているのが安宅囃子保存会になります。
餅つき歌を歌いながらの古式餅つきです。
祭りの最後を締めくくるのは、伝統的な餅つきです。昔の世田谷では、餅つきの重労働を楽しくやろうということで、大勢で餅つき歌を歌いながら餅をついていました。系統的には田植歌などと同じです。
区内の多くの地域で行われていた風習ですが、今では廃れ、代田地域で保存会を結成し、毎年発表会として行われているぐらいです。
ここで行われる餅つきは代田のような本格的なものではなく、昔はこんな感じで餅つきが行われていたんだよ・・・といった地域の文化紹介って感じのものです。
最後に餅まきが行われます。
餅がつき終わると、餅まきが行われます。これは予め用意されていたもので、もう堅くなったものです。
目の前で餅つきが行われた後での餅まきなので、自然とつきたてに近い餅を期待してしまい、お餅を取ることができてうれしい反面、なんか少し期待外れな気持も湧き上がってくるという、不思議な餅まきでした。
時間帯によってガラガラだったり混雑したりします。
盆踊りの時はここに櫓が設置されます。
露店は境内に15店ぐらい並びます。昼間はそうでもないのですが、夕方ぐらいからかなり混み合います。やはり駅近く、そして商店街の真ん中にあるという立地から、帰宅時に立ち寄ったりする人も多いようです。
商店街も人の往来が多く、混雑します。さすがに狭い通りなので露店は出ませんが、開けている店はいつもよりも繁盛しているようでした。
4、神輿渡御の様子
背中に横根の文字が入った半纏を来ています。
稲荷森稲荷神社の神輿渡御を仕切っているのは、横根睦。祭礼の時に神輿を担ぐことを主目的とした親睦団体で、昭和55年に結成されました。
なぜ横根なのか。それは先に書いたように、かつてこの界隈は横根と呼ばれる地域だったからです。環八の三本杉交差点の向こう側、大蔵1丁目の横根稲荷神社でも横根の文字が入った半纏を着ているので、他地域の人には少々紛らわしいかもしれませんが、こちらは茶色っぽい半纏です。
世田谷で一番大きな太鼓です。
稲荷森稲荷神社といえば、巨大な大太鼓「あ・ん太鼓」が知られています。大きさは直径六尺(約2m)、重さが2トンもあり、新調当時(平成2年)は全国で三番目の大きさだったとか。現在でも東京都23区内では一番大きい太鼓と言われています。
なぜこんなに大きな太鼓がここにあるのか。なんでも、ここは大太鼓で有名な府中の大国魂神社三の宮講の流れを汲む神社になり、府中にあやかって建造する流れになったそうです。
その資金はと言うと、横根睦の有志が昭和62年1月より平成2年12月まで毎夜商店などから古紙や段ボールの回収を行い、1450万円の資金を貯め、それに寄付金を合わせて新調したとのこと。大きいだけではなく、値段もビッグな太鼓になるようです。2023年には大がかりな修繕が行われ、新品のような状態になりました。
ライトアップされている様子も素敵です。
神輿の方は、鳥越神社の町内神輿だったものだといわれています。台座は二尺五寸(75cm)、大正時代に建造されたもので、製作者は浅草・宮本重義。屋根には大きな稲荷社の紋が入り、駒札は「稲荷神社」が掲げられます。
昭和に建造されたものに比べると、少し形に古風さは感じるものの、修繕がきちんと成されているので、年季による古さは感じません。この他、大人神輿を小さくした子供用の小神輿と、昭和三年製のそこそこ大きな太鼓も所有しています。
2012年の様子。この頃は昼間行われていました。
渡御の無事を祈ります。
稲荷森稲荷神社の神輿渡御は、土曜の宵宮、日曜の本祭と両日とも行われます。宵宮の渡御前には発輿祭が行われ、渡御の無事を祈念します。
少し前までは両日ともに昼間の12時半から夕方遅くまで担がれ、世田谷にあって土日共に神社の宮神輿がきちんと運行される数少ない神社のうちの一つでした。
近年の祭りのスケジュールを見ると、宵宮の渡御は夕方からに変更されていました。昭和の頃の世田谷では、土曜日(宵宮)から盛んに神輿が担がれていましたが、平成になると、土曜日の日中から気合を入れて担ぐところはほとんどなくなりました。
祭り自体も、現在、土曜日の昼間から人が多く訪れているのは、奉納相撲を行っている世田谷八幡宮ぐらい。時代は令和となり、宵宮の規模縮小の流れは避けられなかったのでしょう。
・2012年の宵宮、宮出しの様子
渡御前に神様から御加護をいただきます。
稲荷森稲荷神社の神輿渡御は、土曜の宵宮、日曜の本祭と両日とも行われます。訪れた2012年は宵宮の渡御は12時半から。その30分前の12時から発輿祭が行われました(*上の写真)。
発輿祭が終わると、お神酒で乾杯。神様から御加護をいただき、渡御に向かいます。
準備はできたかい。
さあ、腰を入れてといった場面。静かな感じで上がっていました。
お神酒で乾杯した後は渡御の準備にかかります。いかんせん、太鼓が大きいので、準備に手間取ります。
先に神輿の方が準備が整い、神輿が上がりました。初日の昼時ということで、上品な人たちが集まって、遠慮がちというか、静かな感じで神輿が担がれていました。
鳥居の高さぎりぎりです。
太鼓山車の方の準備が整い、宮出しを行います。太鼓は直径が2mあり、それに台座が付くので、3mほどの高さになります。横幅もあるので、鳥居をくぐらせるのが大変です。
しかも、鳥居をくぐった先は下り坂になっていて、すぐに道路で方向転換をしなければなりません。重さが2トンもあるのも厄介。制御できなくなると大きな事故になります。緊張感が漂う中、慎重に作業がすすめられました。
そんな中、よく見ると、太鼓の上に人が寝そべって鳥居をくぐっていました。いや、そこにいなくてもいいんじゃない・・・。と、その様子に笑ってしまいました。
太鼓に続いて神社から出ます。
太鼓に続いて神輿が神社から出ていきます。太鼓が苦労しているのを見た後なので、神輿はすんなりと出ていった・・・という感想になるでしょうか。
まだ体も心も温まっていないのか、ぞろぞろと進んでいきます。
日中の渡御はさわやかな感じです。
太鼓山車の高さはちょうど家屋の一階部分と同じです。
神社から出てきた太鼓や神輿はそのまま商店街を進んでいきます。今日は宵宮で、本番は明日。しかも宮出ししたばかり。ということで、繁華街ではありますが、大人しい感じで神輿は進んでいました。
そういえば、何か物足りないな・・・と感じていたのですが、それは子供の姿。ここでは太鼓を引っ張るのも大人だし、子供神輿も出ていません。本宮(日曜日)のみなのでしょうか。その辺の事情は分かりませんが、祭りといえば子供の参加が定番だと感じていると、ちょっと寂しい感じがするかと思います。
安宅囃子保存会が努めます。
広々した場所だとよく映えます。
商店街を抜けたところで最初の休憩を行います。ここで今回の見学は離脱しました。
・2012年の本宮、宮入の様子
最後の休憩所から出発し、神社へ向かいます。
翌日、本宮の宮入りを訪れました。20時ころ訪れると、神社前の商店街で最後の休憩を行っていました。商店街には人が溢れかえっていて、かなり混雑していました。
幣を先頭に商店街を進んでいきます。
熱気とともに商店街を押し寄せてきます。
すぐ出発となり、神輿が上がりました。前日の昼間とは打って変わって、担ぎ手の数が多く、テンションも高く、とても賑やかで活気のある渡御でした。凄まじい熱気とともに、担ぎ手と神輿が押し寄せてくるといった感じです。
鳥居の高さがあるので、比較的余裕があります。
押せ、押し返せ、ってなもので、僧是津です。
商店街を進んでいくと、神社に到達。稲荷森神社の鳥居は背が高いので、そこまで神輿を通すのは大変ではありません。実際、出すときは簡単に出ました。
しかし、入るのは大変。押せ、押し返せってなもんで、妨害が入り、何度も行ったり来たりします。地方だとこういうことはよくありますが、世田谷ではあまり見ない光景です。
ちなみに、広島(特に呉地域)だと妨害する鬼役が決められていて、凄まじい攻防となり、激しすぎて流血は当たり前。救急車が来ることもよくある話です。
なだれ込むといった感じでした・・・。
境内に入ってきたものの右往左往していました。
無事に鳥居を通過した神輿は、どっどっとなだれ込むような感じで境内に入ってくると、右へ行ったり、左へ行ったりと、右往左往し、なかなか統制が取れません。
見ていて面白いといえば面白いのだけど、境内が広いとは言えないので、そのうち屋台などに突っ込むのでは・・・と、心配にもなります。
最初に二の鳥居前で収めます。
掛け声や怒号が飛び交う中、徐々に統制が取れるようになり、ようやくといった感じで二の鳥居の前で収めることができました。
最後は総代のいる舞台前で収めます。
無事に収まりました。
二の鳥居の後は総代などのいる舞台に向かい、最後はここで収めます。御幣(白幣)を操り、神輿を制御している様子は、オーケストラの指揮者のようでした。
担ぎ手たちが宮入りしてから二の鳥居までに体力を使い切ってしまったのか、幣の操りが見事だったのかわかりませんが、最後はあっさりと収まっていました。
・2009年の宵宮の様子
2009年は宵宮の昼間と、宮入の時間に訪れました。
狭い路地で叩くと、音が反響します。
二階の部屋が覗ける高さです・・・。
旧道沿いに店が並ぶ商店街です。
土曜日の昼間は静かな感じで担いでいました。
土曜日の宵宮の昼間は2012年と同じで、担ぎ手はそんなに多くなく、静かな感じで渡御が行われていました。そんなに担ぎ手が多くないので、途中は台車に載せて移動を行います。
日曜日の昼間は訪れたことはないのでわかりませんが、昼間はどこの神社でもこんな感じで渡御を行っているので、そんなに特別なわけではありません。
大太鼓の渡御は、これだけ大きな太鼓なので、音も図太く、周囲が建物で囲まれた商店街だと、かなり響きます。
宵宮なので、太鼓の音で祭りが始まったことに気が付き、今年も祭りが始まったなといった感じで出てくる人も多いです。一緒に歩いていると、人々の笑顔や満足そうな表情からこの地域自慢の太鼓なんだなと感じます。
それとともに、台車を含め太鼓の高さが3mほどあり、その上に人が乗ると二階の部屋を覗ける高さになります。慌ててカーテンを閉めたり、窓を閉めたりする人もいました。普段この高さで人が窓の外にいることがないので、太鼓の音を鳴らさずに移動したなら、とてもビックリすることでしょう。見ていて面白かったです。
提灯に火が灯ると、趣きがあります。
人が増えて活気を感じます。
宮入りする少し前に訪れると、暗くなった町を元気よく太鼓や神輿が渡御していました。提灯に火が入っている様子は日本的な風情が増すようで、なかなか素敵です。
ただ、土曜日の夜なので、かなり盛り上がって担いでいるのかと思ったのですが、思っていたほどではなく、やっぱりというか、本宮(日曜日)の夜の方が盛り上がるようです。
商店街の入り口で最後の休憩をします。
宮入りに向けて気合が入ります。
後ろからもしっかり押します。
重さ2トン。鳥居前が坂になっているので、大変です。
太鼓と綱引きをしているようです。
神輿蔵に収めるのも大変です。
あまり大きいのも考え物かもしれません。
商店街の入り口で最後の休憩を行います。休憩後、まず太鼓山車が先に宮入りしていきます。太鼓が大きく、重いので、動かすのに人出が必要になります。
特に大変なのが、鳥居のところ。鳥居前が上り坂だし、太鼓が鳥居の大きさギリギリなので、斜めになろうものなら、もう一度坂を下して真っすぐにします。
何とか境内に入っても、狭い境内で向きを変えて、神輿蔵まで移動させなければなりません。途中は石畳だったり、土だったりと、引っ張るのも今まで以上に大変です。苦労して移動させている様子を見ていると、大きすぎるのも良し悪しだなと思ってしまいました。
さあ、最後だ。
鳥居前で一呼吸おきます。
関係者、観客、多くの人が神輿の宮入りを待ちます。
境内で少しもみます。
宵宮ではここで収めます。
無事に神輿が収まりました。
太鼓が収まると、今度は神輿の番。元気よく商店を練り歩き、神社前へ。そして宮入りしてきますが、太鼓と一緒で、すんなりと鳥居をくぐれません。それは大きさとかの物理的なことではなく、人的なもの。妨害に遭うからです。とはいえ、本宮の時ほど激しくなく、ちょっと押し合う程度でした。
境内に入ると、境内で少しもみ合い、二の鳥居前で収めます。宵宮=前夜祭なので、肩慣らしといった感じで、そんな荒れることもなく、すんなりと収まっていました。
5、感想など
いい絵になっていました。
稲荷森稲荷神社は駅前の商店街に立地している事から、多くの人が訪れ、賑やかな祭りです。しかも、単に人が多いだけではなく、世田谷の中でも魅力的な秋祭りの一つでもあります。
建造時には日本で三番目に大きかった大太鼓の巡行、神輿の激しい宮入は祭りの華であり、この神社の秋祭りの象徴となっています。
奉納演芸でも伝統的な安宅囃子によるお囃子や地域に古くから伝わる餅つき歌など地域に根付いた文化が披露されたり、地域の象徴の一つである農大の応援団による大根踊りといった変わった演目もあったりします。
神事にしても神社の規模以上に立派な格式で執り行われているし、参列者も多いです。神社の規模から考えると、とても立派な秋祭りと言うことがでるのではないでしょうか。
ここ横根では、明治政府の合祀令に村全体で反発し、神社を独立させて維持した過去があります。今でも神社庁に所属していない単立神社として維持しています。
こういう経緯を知ると、誇りある氏子に守られている神社であり、今でも地域の人々に愛されているからこそ、神社の規模以上に秋祭りが盛り上がっているのかな・・・と思えてしまいます。
せたがや散策記稲荷森稲荷神社と秋祭り 2025年10月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
| ・住所 | 桜丘2ー29-3 |
|---|---|
| ・アクセス | 最寄り駅は小田急線千歳船橋駅。 |
| ・関連リンク | 稲荷森稲荷神社(公式サイト) |
| ・備考 | ーーー |