弦巻神社と例大祭
弦巻3-18-22地域の人々が揃いの半纏を着て担ぐ神輿からは氏子の団結力を感じ、小規模のお祭りながらとても雰囲気の良い祭りとなっています。
1、旧弦巻村と弦巻神社について
*国土地理院地図を書き込んで使用
桜新町駅の北側、そしてボロ市通りの南側に横長に広がっているのが、弦巻です。ほぼ世田谷区の中央に位置しています。
住所は5丁目まであり、それなりに広い町域を持っているのですが、鉄道の駅はありません。最寄り駅は、田園都市線だと桜新町駅や駒沢大学駅、世田谷線だと上町や世田谷駅になります。四方に人の流れがあるので、核となる中心部のない地域です。
弦巻にある有名なものといえば、大正レトロな外観が特徴な駒沢給水塔になるのですが・・・、その存在を知っていても名前に駒沢と入っているので、所在地が弦巻だと知らない人も多いかもしれません。
弦巻と少し変わった地名が付いていますが、その由来には幾つか説があります。一つ目は牧場だったという説。「つる」は古代朝鮮語の野原の意味で、「まき」は牧場を表していて、かつてこの地で馬の産出を行い、関東武士団の形成を助けたのではないか。それで弦巻になったのではないか・・・と考えられています。
二つ目は弓矢の弦を意味しているという説。弓の弦を巻くというのは、恭順の意を表すとされています。
かつて日本武尊が関東から東北にかけての国々を征伐に出た時、この地で弦を巻いたとも、源義家が奥州征伐の時にこの地を通りかかったときに、弓の弦を巻いたとも、この土地の武士が降伏し恭順に意味を込めて弦を外したなどとも語り継がれています。
三つ目は水流(つる)が渦巻く場所という説。弦巻の地は村の西方の水源から流れ始める蛇崩川が村を横切っています。この蛇崩川は普段は水量が多くないものの、大雨となると一気に水量が増し、弦巻村に大水害の被害をもたらすほどだったとか。そういった川の様子から水流巻(絃巻)となったのでは・・・とも言われています。
一応、この三つの説が挙げられていますが、どれもはっきりとした決め手がないようです。
弦巻という名が歴史に初めて登場するのは永和2年(1376年)。初代世田谷城主となったとされる吉良治家が、鎌倉鶴岡八幡宮に「上絃巻の半分を寄進する」という寄進状(鎌倉鶴岡八幡宮蔵)を送っています。
実はこの書状が世田谷を吉良氏が治めていたという最古の記録となっています。それ以前は奥州とか、北関東にいたとされていますが、吉良氏がどうして世田谷の領地を手に入れたのか。いつ世田谷に本拠を構えたのか。いつ世田谷城を整備したのか。そういった詳細な事情は今でも分かっていません。
世田谷吉良氏最後の当主吉良氏朝の菩提寺です。
吉良氏の統治時代には、弦巻神社付近に砦が設置されていたとされています。その吉良氏は小田原北条家とは婚姻関係にあり、小田原の役の時には北条方に付いて戦いました。その結果敗戦。徳川家康に世田谷から放逐されます。
しかし、徳川家康に許された吉良氏朝は世田谷に戻ってきて實相院(実相院)を開基し、隠遁生活を送ります。この寺があるのは弦巻です。意外と世田谷吉良氏との縁の強い地となるでしょうか。
江戸時代になると世田谷の15村は彦根藩の井伊家の所領となります。代官屋敷やボロ市通りにほど近い弦巻村もその中に含まれていました。
大正時代には時代の最先端の技術で駒沢給水塔が造られたりもしましたが、弦巻が急激に発展していくのは戦後になってからで、世田谷区内でも開発が遅かった地域になります。
*国土地理院地図を書き込んで使用
弦巻の中心部を蛇崩川緑道が横切っています。現在は緑道となっていて川の流れはありませんが、かつてはちゃんと流れのある川でした。
変わった名が付いていますが、川の流れが蛇行していて、川の両岸が小砂利混じりの赤土の地層で崩れているように見えたから蛇崩川と名が付いたとか、実際に大蛇が出たという話しから名が付いたとか言われています。
この蛇崩川は幅1mほどの小さな川で、村の西にある二つの池から流れていたとのことです。ただ、大雨が降ると一気に水が増え、周辺にあふれかえったそうです。
昭和初期までこの蛇崩川沿いには畑が広がっていて、弦巻に暮らす人はほとんどいませんでした。戦後の航空写真でも、町域全般に畑が広がっていて、人がほとんど暮らしていなかったことが分かります。
*国土地理院地図を書き込んで使用
その後土地の需要が高まり、また、治水工事も行われ、一気に弦巻町域の開発が進みました。東京オリンピック直前の航空写真を見ると、きちんと区画整理が行われ、建物がびっしりと立っていることが分かります。
この耕地整理事業については、弦巻神社境内に弦巻整地碑が置かれています。石碑の建立が昭和三十四年五月(1959年)となっているので、昭和39年のオリンピック前に完成し、凄まじい勢いで住宅が建ち並んだという感じだったようです。
神社境内にあります。耕地整理の記念碑です。
開発が遅かった分、広い土地が簡単に手に入り易かったのか、マンションやアパート、社宅などが多く、区内の2.6%が弦巻に暮らしています。面積比率や繁華街がない事を考えると多いです。
また、桜新町の駅を挟んで北側が弦巻、南側は深沢になるのですが、深沢には古くからのお屋敷や億ションが並んでいる高級エリアで、弦巻の方は普通のマンションや住宅が並んでいるといったいわゆる庶民的エリアになるようです。
暮らしている人の話では、駅周辺に小中学校がなく、駅の周辺で小中学校の学区が分かれていて、通っている生徒の親を見るとそれぞれの文化圏が違うのを感じるとか、なんとか。2000年頃やそれ以前の話なので、今ではどうか知りませんが・・・・。
神社の敷地は緑が多いです。
弦巻の氏神として地元の人々の信仰を集めているのは、弦巻神社になります。古くからあった神社ではなく、明治41年の小社合祀の令により、村内にあった稲荷社(現在地)、向天神社(弦巻一丁目)、八幡社(弦巻四丁目)の三社が合祀され、地名をとって弦巻神社と名付けられたのが始まりとなり、大正五年に遷座祭が行われました。
どの神社も創建された時期などは明らかではなく、それぞれが村民の管理している小さな祠だったようです。
小さいながら三の鳥居まである参道です。
現在の神社はこんもりとした緑に囲まれた丘の上に立地しています。雰囲気的には桜丘にある宇山稲荷神社に似ているでしょうか。
一の鳥居、二の鳥居と少し登り、最後の三の鳥居をくぐると、拝殿前のある広場に出ます。小さいながら三つも鳥居があるのは、三つの神社を合祀したからでしょうか。ただ、参道を歩くと、ちょっとせわしない感じがしてしまいます。
小さめの拝殿で、すぐ横に神楽殿や社務所があります。
拝殿の前には狛犬が置かれています。銘を見ると、大正十年、世田谷下町、原峯吉制作なっています。神社が造られたのが大正5年なので、5年後に奉納されたものになります。
狛犬は酸性雨で石が解けてしまったのかと思うぐらいツルっとした感じです。彫刻の彫りが全体的に浅いのでしょうか。その反面、たてがみはワイルドで、私の中では昭和後半の男性アイドル歌手といった印象を受け、とても昭和的に感じてしまいました(個人的な感想)。
2009年に境内が色々ときれいに整備されました。
その奥には小さめの拝殿があります。どうやら神社が創設された大正五年(1916)に建てられたもののようです。もちろん屋根などは何度か替えられていたり、その他修繕がされていることかと思います。
神社は拝殿の後ろには幣殿が設けられ、その後ろに本殿があるといった権現造りとなっています。建物は質素ながらこじんまりとまとめられていて、境内が小ぎれいになっていることも含めて、好感が持てる神社です。
2009年に新しくなりました。
本殿の右手にあるのは神楽殿。これも古い感じの建物なので、拝殿が大正五年、狛犬が大正十年なので、この時期に造られたのではないかと推測できます。
私が最初にこの神社を訪れたのは、2008年でした。翌2009年に訪れてみると、拝殿や神楽殿、社務所が補修されて部分的に新しくなっていました。特に神楽殿は一気に若返り、モダンな感じに変わっていて驚きました。
幾つか境内にあります。
境内にはさりげない感じで幾つか祠が置かれています。ここの神社はそれぞれ小さな祠だったことを考えると、合祀する以前に使われていた祠になるのでしょうか。それとも、地域にあった別の神社などの祠を移転したのでしょうか。
そのへんは分かりませんが、木々の中に置かれている様子はなかなか素敵です。全体的に管理している人のセンスがいいように感じます。
すぐお隣は打ちっ放しです。
小さいながらも全体的には雰囲気がいいと感じる神社ですが、問題点もあります。実は、すぐ隣がゴルフの打ちっぱなしの練習場なので、境内を歩いているとカン、カンとゴルフの球を打つ甲高い音が聞こえてくるのです。
気になるといえば気になるし、気にしなければ、気にならないといった程度のことでしょうが、祭りの時とか、神事の最中などに聞こえてくると、結構気になります。これは残念なポイントです。
2、弦巻神社の秋祭りについて
弦巻神社の例大祭(秋祭り)は昭和35年頃まで10月8日の固定日に行われていましたが、今では10月第三日曜日に本宮祭、その前日の土曜日に宵宮祭が行われています。区内の祭りでは最後の方になります。
秋祭りの時は神社入り口まで提灯が灯されます。
かつては賑やかに行われる時期もあったようですが、今では氏子と地域の人々によって細々と行われているといった感じの秋祭りです。
土曜日のみ運行されます。
宵宮では14時から子供たちが引っ張る太鼓車が運行され、呼び太鼓を鳴らしながら町内を巡行します。現在では子供神輿も宵宮に運行されたりする事もあるようです。
太鼓や舞踊などが行われます。
土曜の宵宮はプロによるステージになります。
夕方からは神楽殿にて奉納演芸が行われます。演目などは年によって違いますが、2009年、2012年頃は、宵宮の日はプロによるステージになり、最初は地域の松丘こども太鼓などの演奏が行われ、その後、19時くらいからプロの演奏となっていました。歌謡ショーみたいな感じのステージが2組行われ、年配の人で盛り上がっていました。
餅撒きの準備をしている間、弦巻囃子連によって演奏が行われます。
両日とも最後に投げ餅が行われます。
余った餅は配布していました。
奉納演芸が終わると、弦巻囃子の演奏が行われ、最後に投げ餅が行われます。演芸にしても見ている人が少なく、投げ餅でもそんなに人がいないので、あまり競争率が高くありません。
しかも投げられるお餅がつきたての柔らかい餅で(土曜日だけかもしれませんが)、余った分は配布してくれます。こっちの方が多いでしょうか。色々と関係者の思いやりがこもっているように感じました。
狭い拝殿内で行われます。
日曜日の本宮祭では、朝10時から拝殿にて例大祭が行われ、その後御神輿の前でも神事が行われます。世田谷八幡宮の兼務社となるので、世田谷八幡から宮司がやって来て神事を行います。
それが終わると子供神輿が出発していき、1時間ほどで戻ってきます。大人の神輿は13時半の宮出しで、18時頃神社に戻ってきます。
近年では子供神輿の渡御が宵宮に移され、大人神輿の宮出しが11時と早まっているようです。太鼓山車も大人神輿と一緒に宮出しされたりと、日程がちょくちょく変わっているようなので、確認して訪れるといいでしょう。
本宮の夜は19時から奉納舞踊などが行われ、宵宮と同じく最後に投げ餅が行われます。境内はあまり活気があるとは言えなく、訪れる人もまばらでした。
絵的な雰囲気はとてもいいです。ゴルフの打ちっぱなしの音が聞こえてこなければ・・。
境内の隅に数店だけ出店しています。
かつては境内の外にまで露店が並んでいたそうですが、今では境内にのみ出店していて、訪れたときは全部で6店ぐらいでした。細々と営業している感があり、これはこれで趣きがあってよかったのですが、店を出している方はあまり商売になっていない感じで、見ていてちょっと気の毒でした。
奉納演芸にしても地元小学校の太鼓の演奏などはそこそこ人が訪れますが、それ以外では観客はまばらなのがちょっと寂しいところです。
3、神輿渡御の様子
渡御前の記念撮影です。
弦巻神社の御神輿は、伝統的に揃いの半纏で担がれます。担いでいるのは弦巻神社神輿会「弦衆(げんしゅう)」です。
名前からすると、「弦衆、前へ~」「お~!」と勇ましい弓隊でも登場してきそうな感じですが、地元のおやじの会、PTA、DIVAスポーツクラブ、学校の先生など地域に携わっている普通の人の集まりになります。
最初は人数が少なかったそうですが、少しずつメンバーが増えていき、今では100人近いメンバーが在籍しているとか。担いでいる様子は、いわゆる担ぎ屋さんが担いでいるのとは少し雰囲気が違い、神輿同好会の人が楽しみながら担いでいるといった感じです。
印象的だったのは、渡御前にメンバーで集まって写真を撮っていたこと。今ではどうなのかわかりませんが、2010年頃はこういったほのぼのとした雰囲気は他ではありませんでした。
気の早い江戸っ子といった感じで、そんな野暮なことはしてられね~ぜ!と、式典等が終わるとすぐに神輿に張り付くといった所が多いのと、担ぎ手が少なく、応援の団体が多いところなどは、無駄な争いにならないように気を使って遠慮気味に行事が進行していました。
また、宮入後も裏方の人が入って境内で何度も担いでいたりと、普段から付き合いもあるからでしょうが、仲がいいというか、とても団結している感じを受けました。
2つの神輿を所有しています。
弦巻神社の神輿は、大小二つの神輿があります。といっても大きい方は中型よりちょっと大きいぐらい。小さい方は中型と小型の間ぐらいという大きさです。
両方とも延軒屋根で、勾欄造りの神輿なのですが、神輿の雰囲気は全然違います。最初に小さい方を造り、後にもっと大きなものが欲しいといった感じで造ったのでしょうか。
小さい方はスタンダードで、これぞ神輿といった佇まいですが、大きい方は特徴的です。なんと屋根まで金ピカ。初めて見たならきっと驚きます。
これが本物の金メッキだったら・・・などと考えてしまうのは私だけかもしれませんが、ぴかぴか光っていて、高価そうに感じたりもします。ただ、晴れていると太陽の光が屋根に反射してまぶしいです。
神々しく光り輝いている神輿です。
区民祭りの神輿パレードにもすぐ近くということで参加していますが、他の町域の大きな神輿を見ると、神輿自体は小さく感じますが、金ピカであることの存在感は凄く、夏の激しい日差しがある場合は一番目立っているのではないでしょうか。
昔の人は神様の乗る神輿を見ると目がつぶれると信じていましたが、まさにこの神輿は強い日差しの中で直視すると目がくらみます・・・。笑
あと気になったのが、駒札は氏子中を掲げていること。区民祭でも弦巻ではなく、同じ駒札が掲げられていたので、氏子の団結を表しているとか、何か並々ならぬ思い入れがあるのでしょうか。
・渡御の様子 2009年
御霊移しになるのでしょうか。
私が訪れたのは、2009年。大人神輿、子供神輿の渡御は本祭の日曜日に行われ、宵宮の日には寄せ太鼓として子供による曳き太鼓が町内を巡回していました。近年では大人神輿の渡御が日曜日というのは変わりませんが、それ以外の日程が頻繁に変わっているようです。
2009年の様子を書いていくと、日曜日の午前中、10時から拝殿で例大祭が行われ、引き続いて神輿の前で神事が行われます。
大人たち飲んでいるよ・・・と冷ややかな子供の視線を浴びながらの乾杯でした。
神事が終わると、お神酒で乾杯。神輿出発まで時間があるので、例大祭の直会といった感じなのでしょうか。微妙なタイミングでの乾杯に思えます。それよりも、大人たち飲んでいるよ・・・と冷ややかな子供の視線が気になりました・・・。
子供が担ぐには少し大きいです。
乾杯が済むと、子供神輿が神輿舎から出され、渡御の準備が行われます。それが終わると子供神輿が出発していきます。
同じ日には杓子稲荷神社の祭礼が行われているということで、ここで退席。ちなみに駒留八幡神社の宮神輿が10年ぶりに担がれるということで、8時半にそれを見に行ってきているので、この日は朝から区内をあっちこっち慌ただしく移動していました。
小学校の横を進んでいきます。
神輿が大きいので、大人がしっかりと付き添っています。
1時間弱で戻って来てみると、ちょうど松丘小学校の横を渡御していました。自分たちの小学校の横を神輿を担ぎながら通るというのは、気分がいいことでしょう。
松丘小学校の横からは、蛇崩川緑道に入っていき、そのまま緑道を進んで、神社に宮入りします。
子供神輿はいかにも子供神輿という小さな神輿ではなく、他では女神輿に使ってもおかしくないような大きさです。担ぐ子供達にとっては大きくて大変ですが、渡御時間は1時間と短く、あっという間に戻ってくるといった感じになります。きっと神輿の重さを直に感じる事ができ、いい経験になったのではないでしょうか。
車が来ないので、安心です。
見ていて面白かったのが蛇崩川緑道での渡御。ここには水道管のオブジェが車止めや柱として飾られていますが、これが障害物となり、それをよけながら神輿が進んで行く様子は、障害物競走ならず、障害物渡御ってな感じ。みんなで工夫しながら、力を合わせ、乗り越えていました・・・。笑
まずは地面から生えている水道管を乗り越えていきます。
真っ黒なので、暗い時間帯は見えない凶器になります。
担ぎ棒が引っかかるので、少し傾けて・・・
横を通った方が早いじゃん!と子供たちに怒られていました。
なんで水道管が置いてあるの?と興味がわいてきますが、なんでも中央図書館のある教育会館の完成が1988年。それに合わせてこの界隈を整備することになったそうです。
すでに暗渠になっていた蛇崩川では、かつての川であった面影を残そうと、人工のせせらぎや池を設けることになり、それに調和するオブジェの設置が検討されました。
設計のコンセプトは「水を生かす」だったそうです。それとともに、教育会館に区内唯一のプラネタリウムが設けられることにちなんで、「宇宙」というのもテーマに加わえることにしました。緑道内にある丸い広場などは言われてみれば宇宙のイメージを感じることができます。
で、なぜ水道管ってことになるのですが、「石や鉄などの無機質な材料」を使うことに決まり、水と宇宙と無機質といった条件から導き出されたのが、水道管だったそうです・・・。
このまま子供神輿についていき、宮入を見学したいところでしたが、喜多見氷川神社の宮出しが12時半からなので、少し見学した後、急いで喜多見へ向かいました。
手締めの前には記念写真を撮っていました。
境内は移動といった感じになります。
表参道は鳥居が低いので、脇参道から出ていきます。
大人神輿は13時半頃に出発します(現在は午前中に出発している模様)。なんとか時間に間に合って喜多見から帰還。どこでもドアが欲しい・・・。
それはさておき、神事は午前中に終わっているので、担ぎ手のメンバー全員で記念撮影を行った後、簡単な挨拶と乾杯が行われ、担がれました。
ただ、境内では激しく揉むようなことはなく、そのまま神社の外へ向かいます。宮出し、宮入は鳥居のある参道ではなく、横にある坂道から行っていました。さすがに小さな鳥居が三つもあっては、神輿を通過させるのは大変です。
神社の下からスタートとなるようです。
揃いの半纏が凛々しく感じます。
この辺は緑が多いです。
神社の外に出ると、ここから渡御の始まりとなるようで、一旦神輿を下し、再び手締め。そして勢いよく出発して・・・とはいかなく、久しぶりに神輿を担ぐので、その重さや動きに慣れないといった感じで、大人しく出発していきました。
弦巻らしく感じてしまう図です。
2車線道路の弦巻通りに出ると、少しエンジンがかかってきたといった感じで、本来の神輿の動きになりつつありました。
渡御コースは年によって違うようで、今年は1丁目、或いは4丁目といった感じで、そのエリアを重点的に回るようです。渡御時間は5時間程度とあまり長くなく、18時半前後には宮入となります。
トワイライトの中、路地を進んでいました。
宮入が近くなってくると熱も入るようです。
宮出しして少し見学した後は、大蔵運動公園へ。今日は区民体育祭が行われているので、それを見学。その後瀬田玉川神社の瀬田神輿の環八渡御を見学し、再び喜多見の神輿を見学。
17時半ごろ弦巻に戻ってくると、住宅地を渡御している最中でした。夕日が心を燃やしているのか、とても熱が入っていました。
間もなく宮入り。このまま見ていたいところですが、今日は10年に一度の駒留神社の宮神輿が渡御している日。この宮入はぜひとも見ておきたい。ということで、上馬へ移動。とてもバタバタしたレポートになっていて、見づらいかと思います。
朝とは打って変わってテンションが高いです。
予定よりも20分遅れの宮入りとなりました。
で、駒留神社の宮入りを見学した後、急いで弦巻に戻って来ると、ちょうど宮入りをする前でした。ギリギリ間に合った・・・というか、宮入が20分ほど遅れていてよかった・・・といった感じ。
役員や奉納演芸を待つ子供太鼓のメンバーが見守る中、境内に入ってきました。
宮入りしてきた神輿は、境内で激しくもみ合っていました。
落ち着くと、年配の役員や裏方と交代して担いでいました。
再びメンバーを交代し、最後の仕上げへ。クライマックスを迎えます。
宮入りしてから20分後、無事に収まりました。
境内に戻ってくると代わりばんこに担いでといった感じで、和気藹々と楽しそうに担いでいるのが印象的でした。
ちなみに、この後は喜多見へ再び向かい喜多見氷川神社んも宮入りを見学してきました。我ながら超人的に移動をこなした一日だったように思います。
4、感想など
のどかな祭り風景の連続です。
お祭りは庶民が楽しむもの。そして住民が多ければお祭りも盛り上がるもの・・・というのは昔の話で、住民が多くても積極的に行事に参加する人が多くいなければ祭りは盛り上がりません。
昭和の初めの頃は住んでいる人が少なく、氏子がなんとか神社を守って、祭礼を行ってきたようですが、畑がなくなり、マンションが建ち並んで人口が増えた今でも、やはり細々と氏子達が神社や祭礼を守っているのが、弦巻神社の祭礼となるでしょうか。
ただ、その分というか、村祭りといった雰囲気が残っていて、世田谷の中でも古き良き秋祭りの面影が残っているお祭りとも言えるかもしれません。
神輿も盛大さや派手さなどはないかもしれませんが、普段から関わり合いのある地域の人々が揃いの半纏で和気藹々と担いでいる様子は氏子の団結力を感じますし、投げ餅にしても手間の掛かるつきたてのものを配るのは関係者の地域への愛情があるからかもしれません。
とはいえ、神輿が練り歩いていても関心を寄せる人は少ないし、奉納演芸などの観客も少なく、祭り全体として考えると、ちょっと寂しいものがあります。もうちょっと盛り上がればな・・・と願わずにはいられません。
せたがや散策記弦巻神社と秋祭り 2025年9月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
| ・住所 | 弦巻3-18-22 |
|---|---|
| ・アクセス | 最寄り駅は田園都市線桜新町駅、あるいは世田谷線上町駅。駅から少し離れています。 |
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