* 旧廻沢村(千歳台)と廻沢稲荷神社について *
環八の小田急線の高架から滝坂道が交わる千歳台の交差点を右辺として、その西側に千歳台の町域が広がっています。千歳台は昭和46年に付けられた新しい町名で、それ以前は廻沢という名でした。廻沢は古くから開けていた村で、中世期には烏山南部、粕谷、八幡山、船橋などを含む大きな地域だったと考えられています。
はっきりした記録では世田谷城主の吉良頼康家臣の大平精九郎に与えた土地の文章に「施沢之内船橋谷」といった文字があります。廻沢の由来ははっきりと分かっていませんが、かつては「施沢村」「巡沢村」と書かれたことがあることから、水が巡る沢といった地形から付けられたものと推測されていて、東覚院の西北にあった窪地は雨が降ると水が溜まる沢地で、この水が落ちるように烏山川へ流れていく様子が水巡る沢といった感じだったことから名付けられたのではといった説もあります。
文政九年(1826年)の新編武蔵風土記稿にも廻沢の事が書かれていますが、民家56棟あり、この辺り平地にて民戸は所々に散在している。村の曰くについては、開村の年歴明らかではなく、推測するには橘樹郡上小田中村泉沢寺にある古い記録に、泉沢寺領施沢村という文字が見られ、文字は違うけどこれが廻沢村のことで、古くから開けていた村ではないだろうかと簡潔に書かれています。
江戸時代になると廻沢村は二人の旗本に知行されることとなり、村が二分するような少し複雑な村事情になります。また廻沢村は品川用水の通り道にもなります。ちょうど現在の千歳通りその流れ跡になります。元禄十年(1697年)には両旗本とも知行替えとなり、以後幕末まで幕府の天領として治められます。
時代が明治になるとめまぐるしく所属が変わり、明治22年には上祖師ヶ谷村、下祖師ヶ谷村、廻沢村、船橋村、八幡山村、粕谷村、給田村、烏山村が合併し、神奈川県北多摩郡千歳村が誕生します。なぜ千歳村なのか。それは8つの村で投票した結果、縁起のいいこの名に決まったという事なので、この地域に由来する地名ではありません。
明治26年には水道管理の事情で東京府編入されます。大正九年には千歳村の役場が廻沢に置かれる事になります。昭和11年には東京市に編入され、世田谷区に属することとなり、世田谷区廻沢町となります。
その後、昭和27年から区画整備が行われ、また環八が開通した後の昭和44~46年にかけても大きく町域変更が行われ、町域の形はシンプルになったものの、旧町域が複雑に絡んだ状態となりました。そのためなのか、昭和46年には町名を返上し、千歳村の中心だった事などから千歳と宅地開発に語呂のいい「台」を足した千歳台に町名が変わりました。現在駅名で千歳烏山、千歳船橋とあるのは、同じ名前の駅名を避けるために千歳が付けられたものですが、これも昔の千歳村の名残りとなっています。
廻沢の氏神様は二つありました。それは村が二人の旗本によって治められていたためで、村の南地区のお伊勢様、そして北地区の御稲荷様です。旗本領から天領となっても別々に祭礼を行うなど、完全に村の中で分かれていたので、明治になっても村内に村社という格式のある神社はありませんでした。
明治41年には合祀令により、神明社、第六天が稲荷社の方に合祀されます。大正時代の後半には神社を改築し、お伊勢様も合祀する計画が立ちます。普通だとお伊勢様の末社がお稲荷様となるのですが、費用や村内の力関係などといった大人の事情もあり、お稲荷様が本社となり、お伊勢様と第六天が末社となりました。
そして村を上げて造営に取り組み、昭和六年には遷宮祭が行われます。これが当時としては盛大なものだったようで、その当時に有名だった市川猿十郎一座による忠臣蔵の芝居が二晩行われたとか。これ以降豊作の年には村を上げて祭りが行われ、村の結束が高まったそうです。
現在の廻沢稲荷神社はちょっと奥まった場所にあるのもあって、ひっそりとした感じの神社です。全体的にこぢんまりとした小さな神社で、昭和23年に祖霊社、昭和38年に社務所や神楽殿が建設されているぐらいで、昔とさほど変わらずといった感じなのでしょう。神社のすぐ周りは住宅が建ち並んでいますが、周辺には世田谷の中では開発が遅かった地域だけあって、未だに畑が多くあります。
特に境内で特筆すべきものはありませんが、参道にはイチョウなどの古木が並んでいて雰囲気がいいものとなっています。参道沿いの住民が花を植えているのもそう思える一因でしょうか。また、案内板を見てもお伊勢様の名はないし、社殿を含め境内にもお伊勢様の名はありませんでした。元に戻されたのでしょうか。この辺の事情はよく分かりません。