* 砧下浄水場について *
世田谷区の多摩川沿いには2つの浄水場があります。
喜多見にある大規模な砧浄水場は、昭和3年に荒玉水道町村組合(荒川と玉川の省略)がつくり、昭和7年に東京市が引き継がれました。
現在ではおいしい水の施策により平成19年より機械による膜ろ過方式での処理が行われていて、もう一つの砧下浄水場とあわせて日量8万立方メートルの浄水能力があります。
砧下浄水場(きぬたしも)は鎌田にある小規模な施設で、大正12年に渋谷町営水道がつくり、昭和7年に東京市が引き継いだものです。
こちらも機械による膜ろ過方式によって浄水が行われていますが、機械のオートメーション化によって専門の職員が常駐する必要はなく、砧浄水場の職員によって遠隔操作されたり、緊急時の対応が行われています。
渋谷町営水道といえば、せたがや百景にも選ばれている弦巻の駒沢給水塔が有名ですが、この砧下浄水場も駒沢給水塔と同時期に建てられた水道施設です。
これらの施設は、大正初期に人口が増え続けた渋谷町へ水を送るために建設されたもので、多摩川の水を砧下浄水場で浄水し、水道管を使って渋谷に送るといった大掛かりなものでした。
まず多摩川から水を取り込むのですが、当時としては斬新な川底に管を入れて水を取る伏流水方式が用いられました。
取り込まれた伏流水は3つあるろ過池で浄化され、ポンプ室から駒沢給水塔に向けて送り出されました。
タイトルの「大正ロマンをのこす砧下浄水場ポンプ室」となっているポンプがこのポンプのことです。
ポンプ室には二種類のポンプが設置されていて、一つは川底から伏流水を吸い上げるポンプで、もう一つは駒沢給水塔へ向けて水を送る強力な高圧ポンプです。
ポンプ室の建物も素晴らしく、大正12年に建造された洋館風の建物で、青い洋瓦の上に突き出た塔状の飾り窓が特徴となっています。
現在は中央管理室として使われていますが、この浄水場の初期からあった一番古い建物となっています。
その他の施設では、ポンプ室と同じく大正12年の初期からあるのが洗砂室で、ろ過池を使って浄水していた頃にろ材として使用された砂を洗っていた施設です。
あまり特徴のない建物ですが、鉄筋コンクリート製で外壁にはスクラッチタイルが使用されています。
事務所の建物は大正13年に建てられた木造建築で、マンサード形式の切妻屋根、外壁は立板漆喰壁(ハーフテュンバー)という見るからに古風な外観で、ポンプ室とともに大正ロマンを感じさせてくれます。
昭和7年には浄水場の拡張工事が行われ、取水ポンプ棟、発電棟(現、薬品注入設備棟)などが増設されました。
これらの建物も建築美意識のこだわりが強く、建築的にも素晴らしい建物となっています。
後は昭和14年に造られた第二送水ポンプ所(現、送水ポンプ所)は洋瓦を使った比較的シンプルな建物となっています。
こういった貴重な施設を何時でも見学できればいいのでしょうが、実際に稼動している施設なのでなかなか難しいものがあります。
駒沢給水塔に関しては保存会の方々の努力によって年に一度内部の一般公開を行っていますが、砧下浄水所のほうは定期的な見学会は行われていません。
ただ2008年、2009の水道週間中に一日ほど公開されました。それ以降公開が行われていない状態です。ぜひ再び見学会を開催して欲しいものです。
砧浄水場の方は毎年6月第一週の水道週間に見学会が行われていて、現在の浄水システムである高度浄水システムを見学でき、またいわゆる普段蛇口から出てくる水のことや、災害時の緊急配水などについても色々と知ることができます。
さらには見学後に東京のおいしい水や花や浄水場でできた園芸用土、水道グッズなどをお土産にもらえるので、一度は参加してみるといいかと思います。
ただ、近年はオリンピック開催のためなのか、テロ防止の観点から見学が中止となっているようです。オリンピック終了後に再開されることを願っています。
* 関連水道施設 *
多摩川から渋谷へ水を送るプロジェクトはとても大掛かりで、政府の関心の高いものでした。
優秀な人材が集められ、綿密に計画され、しっかりとした建物が造られたので、この砧下浄水所、そして駒沢給水塔と今なお当時の貴重な建物を見ることができます。
これらの大掛かりな水道施設のほかにも当時の痕跡が幾つか残っています。
まず多摩川沿いですが、砧下浄水所のすぐ横の土手のところに赤い屋根が特徴的な小さな煙突の様なものがあります。
なんともメルヘンチックというか、可愛らしい存在ですが、水の取り込み施設になります。
赤い屋根が有事の際にはパカッと開いてミサイルが発射・・・と思ってしまうのはウルトラマンの見過ぎですが、これは多摩川の伏流水を取り込む際に水道管の中で膨張する空気を抜く装置です。
砧下浄水場のポンプ室から送り出された水は、すぐに第一関門として野川を渡らなければなりません。
設置された当時は水道本管を野川の川底に埋設していましたが、昭和35年に野川が改修された際に水道本管が地上に出され、川の上を渡ることとなりました。
そのときに鉄管を支える目的で歩行者専用の「野川水道橋」が架けられました。
平成18年には再び治水対策として野川の改修工事が行われ、水道管は再び川底に埋められることになりました。
ただ橋のあった場所に橋がなくなるのは不便なので、車が通る普通の橋に架け替えられました。
その際に「水道管のある歩道橋」として地域の方々に親しまれていたこともあって往年の姿が描かれたレリーフが橋の真ん中に取り付けられ、野川水道橋の名前もそのままつけられています。
野川を渡った水道管は第二関門として国分寺崖線が待ち構えています。
現在の岡本民家園に入り、ここでただここで崖を登ってもすぐに谷戸川の部分で崖下に下って、再び岡本の急な坂を登らなければなりません。
そのため岡本八幡や静嘉堂文庫のある丘の部分は岡本随道(トンネル)が造られました。
これは現在でも残っていて、民家園の脇に石垣囲いの蒲鉾型の扉があります。
このトンネルは高さ2m、幅2.5m、長さが120mあり、そのトンネル内に直径80cmの水道管が通っていたそうです。
岡本トンネルを越えると一旦谷戸川をくぐるために下って、再び斜面を登って駒沢給水場まで水が運ばれました。
駒沢給水場から渋谷までは給水塔の高さと地形の高低さを利用して自然の重力で水が送られていたそうです。
駒沢給水塔については他の項で紹介しているので、興味があればそちらをご覧ください。
* 感想など *
今なお生き続けている大正時代の水道施設、砧下浄水場。
敷地内に並ぶロマンあふれる建物の様子を間近で見てみたいところですが、残念ながら内部を見学する機会がほとんどありません。
でもそんなに広い施設ではないので、外から様子を伺うことができますし、関連の施設もあります。
砧下浄水場など、世田谷を横断するといった大掛かりな水道施設により、井戸水の衛生上の不安が解消し、渋谷地域の更なる発展につながりました。
今の渋谷の賑わいはこういった世田谷を横切る水道施設のおかげかもしれないなと思いながら見学すると、少々感慨深いものがあります。
ー 風の旅人 ー