* 桜新町と旧・新町住宅地 *

旧新町住宅地の一画にあります。原作に近いパネルが置いてあります。
桜新町といえば、サザエさんの町です。
原作者の長谷川町子美術館があったり、駅前商店街にサザエさんの像が置かれたり、商店街の店にパネルが設置されていたり、秋にはサザエさんの絵が描かれたネブタが運行されたりと、近年では町全体がサザエさん一色となっています。
過去に駅前に置かれたサザエさん一家の像で話題に上る事も多かったので、もう全国的に周知されたのではないでしょうか。ただ・・・、いたずらで波平さんの髪の毛が抜かれたり、高額の税金が請求されたりとイメージの悪い報道ばかりでしたが・・・。
桜新町がサザエさんの町となっているのは、サザエさんの生みの親である長谷川町子氏が暮らした町であり、サザエさんに描かれている日常の世界観に桜新町での生活体験が多く含まれているからです。
商店街での様子はアニメで見るとちょっとイメージが違って見えますが、人情味ある人間模様は今なお健在で、商店街のイベントの様子をみていると、とても地域や子供を大切にしているのを感じます。
長谷川町子氏には家族漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えたとして、国民栄誉賞が授与されています。
世田谷出身ではないものの、世田谷で根を下ろし、世田谷で活躍した長谷川町子氏は、世田谷が誇れる人物の一人ということができます。

町の至るところにサザエさんがいます。
また桜新町は学生が多い町でもあります。周辺には駒沢大学付属高校、戸坂女子高校・中学校、都立桜町高校、都立深沢高校、都立園芸高校、日本体育大学、その他幾つかの専門学校もあり、生徒が個々の交通事情に合わせて桜新町の駅を利用しています。
渋谷から田園都市線に乗る場合、桜新町駅と次の用賀駅で値段が結構違うし、桜新町で急行の通過待ちがあるしと、実際は用賀駅の方が近くても桜新町を利用する生徒も多いようです。
桜新町駅界隈はサザエさんに登場するような古くからの人情味ある商店街でありながら、若者向けのカジュアルな部分もあり、バランスのいい商店街になっています。

この交番の所に住宅地への入り口がありました。
そんなサザエさん精神が息づく商店街、通称サザエさん通りを駅から南に向かうと、国道246号の少し手前の交番で道がY字型に分かれています。
この二つに分かれた道は国道246号を越えると平行に続いていて、その道沿いには桜並木が続いています。
このY字の交差点から続いている桜並木が印象的な区画は、明治45年(1912年)から大正2年にかけて整備された「新町分譲地」の名残りになります。

信託が開発した住宅としては最初になるようです。
この分譲地は関東で最初なのか、東京で最初なのか、日本で最初なのか、記述されている文献によって違いますが、日本で最初の分譲住宅地として知られているのは、明治43年(1910年)に大阪の箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が開発した池田の室町分譲住宅地になるようです。
こういった分譲地は行政、鉄道会社、民間のどこが開発したのか、どういった階級の人を対象にしているか、近郊なのか、郊外なのか、鉄道の沿線沿いなのか、地方の避暑地的な分譲地なのか・・・、などで区別されるようで、文献によって何番目という言い方が微妙に食い違っているようです。
交番のあるY字の交差点のところにはかつては分譲地に入るゲートがありました。その名残というか、記念というか、交番の横の方に石碑が設置されています。
石碑に書かれているのは「信託住宅発祥の地」とのことなので、ここは信託が分譲した日本最初の住宅地となるようです。

屋敷の庭を整備した緑地です。湧水を利用した池もあります。
この新町分譲地は玉川電気鉄道の株主でもあった東京信託(現日本不動産)が当時、山林だった駒沢村深沢と玉川村下野毛飛地(現深沢7・8丁目と桜新町1丁目の南半分)を鉄道沿線型、郊外型の高級分譲住宅地として開発したものです。
関東大震災以前の東京の郊外住宅地というのは、今でいう会社勤めの人が住むというよりも金持ちの別荘的な家といった使われ方をされていました。
週末にゴルフを楽しんだり、都内の喧騒や埃っぽさを離れて静養や余暇を過ごす為に、あるいはステータスのために別荘を建てるというのが当時の流行だったそうです。
当時は駒沢公園や等々力渓谷にゴルフ場があり、歓楽街のある二子玉川では多摩川で川遊びをしたりアユ料理を食べられたりと、世田谷は別荘地として人気がありました。
特に見晴らしのいい崖線付近は人気で、政財界の要人の別荘が並んでいました。
桜新町なら比較的都心に近く、通勤にまあ便利な立地と思ってしまいますが、それは地下に電車が走るようになってからです。
大正や昭和初期は鉄道といっても雨量が多いとすぐ冠水して運行できなくなってしまい、郊外から都心に電車で通うというのはあまり一般的ではなかったようです。
実際のところ戦前の桜新町周辺は三宿駐屯地などの兵隊さんが多く住んでいたという話です。

とても凝った造りをしている茶室です。
新町分譲地に話を戻すと、現在の桜新町駅の南側、桜新町1丁目から深沢7・8丁目にかけての地域に造成されました。ちょうど呑川西側の高台にあたる部分です。
住宅地は高台に整備されましたが、この付近は呑川に流れ込む湧水が多く、ちょっとした渓谷っぽい雰囲気だったようです。
自然の山林と湧水を利用して良質のタケノコを生産していて、特に呑川付近で取れる深沢産のタケノコは市場でも高値で取引されたとか。そんなタケノコの産地のすぐそばにできたのがこの新町住宅街ということになります。
現在でも当時の面白い建物が残っていて、深沢高校には元わかもと製薬社長長尾鉄弥氏の広壮な京風の邸宅で使われていた茶室が残されています。
この茶室は離れとして使われていた建物ですが、なんと建物が崖にせり出して建てられています。
地上階の約半分が列柱により支えられた懸造りで造られていて、清水の舞台ならず、呑川の舞台。というのは大袈裟ですが、当時の人が呑川の渓谷的な風景を楽しんでいたことを感じられる貴重な建物となっています。
この建物は今では清明亭と命名されていて、時々茶道部などによってお茶会が催されたり、一般に公開されたりしています。(詳細は地域風景資産no.1-12)

バス通りになっているので桜の根や枝が傷みやすいです。
関東大震災を機に郊外の安全性が認識され、郊外の宅地開発が急ピッチに進んでいきました。そして交通網の整備が進み、郊外から都心へ通勤する人も増えていきました。
そういった時代の流れの中で新町住宅地も別荘地から徐々に本宅として利用する人が増え、閑静な高級住宅地に変化していきました。
ただ、その後の国道246号のバイパス化で新町住宅地は分断されてしまいます。
駅前を通らないようにバイパスが新町から二子玉川にかけて新町住宅地を横切るように整備され、東京オリンピック開催を機に道幅の拡張がされ、その後の高度経済成長期には頭上に首都高が設置されることになります。
更には住宅地の2つのメイン通りはバス通りになり、駒沢通りと246号の抜け道で車の通行が多く、学生の通学路でもありと、今では閑静な高級住宅地の趣きが薄くなってしまった感じです。
実際、新町分譲地が造成された頃からこの地で暮らしている住民はほとんどいないという話です。
とは言うものの、一般人からすると桜並木があって、雰囲気が良くて、敷地の大きな家が多くて、憧れるような高級住宅地には変わりないですが・・・。