世田谷散策記 せたがや地域風景資産 タイトル

せたがや地域風景資産
第2回選定 #1-10の紹介

平成20年に世田谷区と地域団体によって選定された「第2回せたがや地域風景資産」の#1-10の紹介です。詳細は個別のページをご覧ください。

広告

#2-1 北沢地域に隠れている石造物群

旧二子道 長命地蔵尊

下北沢界わいの石造物群は、旧二子道である茶沢通りや都道420号線といった「古道」に点在している。長い間地域を見守ってきた石造物群は、若者の街にふと昔の息吹を感じさせてくれる。(紹介文の引用)

場所:茶沢通り(旧二子道)界隈 備考:ーーー

line
旧二子道 庚申塔が祀られたお堂

若者向けの店が並び、華やかな印象のある下北沢の繁華街。派手な装飾が施された商店や大きなマンションの陰に隠れるようにして、交差点の片隅で町を行き来する人々を見守っているお地蔵様や庚申塔があります。

こういった石像たちは、急いでいるとき、ショッピングに夢中になっている時などには、全く目に入らない存在ですが、落ち込んでいるときや、不安に感じているときなどに目に入ると、気持ちが落ち着くことがあります。そこにいてくれている安心感というやつでしょうか。人々の生活、そして町の風景に欠かせない存在です。

#2-2 羽根木公園にある羽根木プレーパーク

羽根木公園 羽根木プレーパーク

「自分の責任で自由に遊ぶ」をモットーに1979年に日本で最初に開設されたプレーパーク。40年以上、区と地域住民と世話人会の協力で維持・運営されている。(紹介文の引用)

場所:代田4-38-52 備考:ーーー

line
羽根木プレーパークでの様子
羽根木プレーパークでの様子

羽根木公園の一画に、冒険遊び場「プレーパーク」があります。1979年に日本で最初に出来たプレーパークで、区内には他に3カ所あります。

プレーパークには、プレーワーカーという専門の職員が常駐していて、普通の公園では禁止されているような遊びを自由に行うことができます。

ただ、「自分の責任で自由に遊ぶ」というのが、ここの基本方針(モットー)。なので、「自由に遊べるけど、その結果として起きた事故やケガは自分の責任」ということになり、子供とはいえ、自分で行動の結果を考えて遊ばなければなりません。

羽根木プレーパーク 30周年記念の原始村
30周年記念の原始村

イベントを通じて子供たちに楽しみや挑戦、やりがいを与えようということで、プレーパークでは年間を通じて様々なイベントが行われています。

イベントは、プレーワーカーが子供や親の意見を聞いて企画していて、シャボン玉あそび、野外映画会、流しそうめんなどといった小規模なものから、大きなイベントでは、羽根木公園で行われる雑居まつりにみんなで山車を造って参加していたりします。

「やるならとことんやる」というのが、ここの方針のようで、30周年記念の時にはプレーパーク内が原始村になりましたが、その出来栄えには感嘆しました。

#2-3 代田の丘の61号鉄塔

61号鉄塔の番号札

東京電力の鉄塔のひとつである代田の丘の61号鉄塔のすぐ下には、昭和8年頃、詩人の萩原朔太郎が家を建てて住んでいたということである。その娘葉子の小説にも鉄塔が描写されるなど、文学にゆかりのある貴重な資産となっている。(紹介文の引用)

場所:代田2-4-12 備考:ーーー

line
代田の丘の61号鉄塔
代田の丘の61号鉄塔

代田の北沢川緑道から少し登った丘の上に東京電力の高圧線、駒沢線の61号鉄塔があります。

どこにでもあるような何の変哲もない鉄塔ですが、昭和8年にこの61号鉄塔の真下に詩人萩原朔太郎が家を構え、昭和18年に55歳で亡くなるまで暮らしました。

自らデザインした和洋折衷の家は、鉄塔に合わせて鋭く尖がった三角屋根だったそうです。作品の中にもこの鉄塔が登場していて、近代化、都市化、モダニズムの象徴的な存在で描かれていました。とても気に入っていたようです。

残念ながら、現在、この地に萩原朔太郎が暮らした痕跡は残っていなく、唯一、作品に登場し、彼が好んだ61号鉄塔だけが名残となってしまいました。

#2-4 三宿の森緑地

三宿の森緑地の案内板

烏山川緑道の崖上にある三宿の森は、昭和初期には個人のお屋敷、戦後は法務省の施設として使われてきた。今は、住民の方々の取り組みによって緑地となり、多様な自然環境をもった世田谷地域の風景の骨格となっている。 (紹介文の引用)

場所:三宿2-27-27 備考:ーーー

line
三宿の森緑地

三宿の高台に区立の「三宿の森緑地」があります。公園名に森の文字が入っている通り、園内には木々が多く、芝生が植えられた普通の公園部分に加えて、水辺のビオトープ、草のビオトープに保全観察の林などが設置されています。

管理しているのは、地域のボランティア団体「三宿の森を育てる会」。清掃や植木の手入れ、季節のイベントなどの活動を行うことで、地域をつなぐ森づくりを目指しているそうです。

ちなみに、三宿町域は世田谷区で最も緑被率が低いです。この土地は、戦前には富豪の屋敷があり、戦後に大蔵省の管轄となり、研修施設が建てられました。大蔵省が移転する際、「緑の少ない三宿に公園を!」といった住民運動が起き、敷地内の緑を残す形で公園化が行われたという経緯があります。

#2-5 大ケヤキのある円泉ヶ丘公園

太子堂円泉ヶ丘公園

国立小児病院跡地につくられた新しい公園である。だれもが使いやすいユニバーサルデザインに配慮され、かまどベンチなどの設備も備わっている、まさに地域の防災の要となっている公園である。(紹介文の引用)

場所:太子堂3-30-20 備考:ーーー

line
円泉ヶ丘公園の様子
円泉ヶ丘公園の様子

かつて、太子堂円泉寺のすぐ北側の丘に日本で最初の小児専門病院、国立小児病院がありましたが、2002年に大蔵病院と統合し、移転していきました。

その跡地には、民間のマンションが建つことになりました。その際、丘の地形や眺望を活かした「みどりのオープンスペース」として設置されたのが、区立の円泉ヶ丘公園です。

「近隣住民とともにつくる公園づくり」を基本方針とし、バリアフリーや災害時の利用に配慮されてて造られています。

円泉ヶ丘公園 ケヤキの木がある斜面
ケヤキの木がある斜面

また、太子堂円泉寺を中心としたこの界隈には、かつて大きなケヤキの木が多く存在していました。円泉寺を囲むようにあったケヤキの木の多くは、枯れたり、宅地開発で伐採されてしまいましたが、円泉ヶ丘公園にも引き継がれています。

#2-6 太子堂八幡神社と森

太子堂八幡神社

太子堂八幡神社には歴史ある境内と、武蔵野の面影を残す鎮守の森があり、地域の人々の心の拠り所となっている。お祭りも盛んで、地域の人が一堂に会する境内は、たくさんの御神輿や屋台で賑わう。(紹介文の引用)

場所:太子堂5-23-4 備考:ーーー

line
太子堂八幡神社 神輿の宮入の様子
神輿の宮入の様子

三軒茶屋駅の北側に広がっているのが太子堂町域です。おおよそ国道246号と世田谷通りの北側になり、キャロットタワーを中心とした商業エリアを抱えています。

太子堂町域の氏神は、太子堂八幡神社。町域の西側。烏山川緑道の近くにあります。賑やかな商業地域であり、人気の住宅地でもある三軒茶屋。この界隈は一面住宅地に覆われていますが、この一画だけ木々が生い茂っているので、すぐにわかります。

江戸時代の太子堂村は、天領、旗本領などに細分化されていて、八幡神社の祭りをもって心を一つにしたと言われています。現在も祭りは賑やかに行われていて、祭礼日には神社付近の道に屋台がずらっと並び、各町会の神輿がその中を威勢よく神社に向かいます。

#2-7 登録有形文化財の萩原邸

登録有形文化財の萩原邸

三宿の静かな住宅地の路地に面して建つ萩原邸は、大正13年に建築家フランク・ロイド・ライトの弟子、遠藤新の設計で建てられた近代住宅で、ライト建築の特徴が見られる。国の「登録有形文化財」になっている。 (紹介文の引用)

場所:三宿1-15 備考:ーーー

line
登録有形文化財の萩原邸

三宿の住宅地に国の需要文化財に指定されている萩原住宅があります。この邸宅は、フランク・ロイド・ライトの弟子、遠藤新氏の設計で建てられました。水平基調を強調した外観を持っているのが特徴です。

もちろん内部の設計にもこだわりが沢山詰まっていて、遠藤氏が手がけた本棚や家具類も当時のままの姿で残されているそうです。

実は、このお宅は音楽家萩原淑子さんの実家になり、後年、増設された立派な音楽室もあります。それを利用して小規模なコンサートなどが行われることもありました。現在ではこの家で生活をされていなく、貸しスタジオのようになっています。

#2-8 元気でやさしい松陰神社通り

元気でやさしい松陰神社通りの幟

松陰神社通り商店街では、人にやさしい商店街として、バリアフリー型の道路整備や、各店舗のソフト面で取り組みを通して、誰もが楽しめる賑わいのある商店街の風景が生み出されている。 (紹介文の引用)

場所:若林4丁目・世田谷4丁目 備考:ーーー

line
松陰神社通り商店街
松陰神社通り商店街

幕末の長州藩士吉田松陰が祀られている松陰神社から、世田谷線松陰神社前駅を通り、世田谷通りまで続いているのが、松陰神社通りです。道の両脇には商店が並んでいて、松陰神社通り商店街を形成しています。

商店街では、「元気でやさしい町」「ふれあいの生まれる町」「だれもが安心して歩ける町」「買い物がしやすい商店街」を念頭に、バリアフリーの街づくりを実践しています。

萩・世田谷幕末維新祭りの神輿
商店街を賑やかに練り歩く神輿

松陰神社通り商店街といえば、10月27日の吉田松陰の命日に近い第四週末に行われる「萩・世田谷幕末維新祭り」。世田谷区内で行われる商店街のイベント中でも大規模な部類に入り、区外からも多くの人が訪れます。

目玉となっているのは幕末の志士と奇兵隊パレードで、世田谷区役所から始まり、松陰神社通りを練り歩いて松陰神社に向かいます。夕方には神輿も練り歩き、この日は商店街がとても賑わいます。

#2-9 若林3丁目緑の小道

若林3丁目緑の小道の案内板

かつての用水が暗渠になってできた300m程の小道は、長年にわたる住民参加のもとで遊歩道として整備されたものである。花とみどりが豊かで車を気にせずゆっくりと歩ける道として親しまれている。 (紹介文の引用)

場所:若林3丁目 備考:ーーー

line
若林3丁目緑の小道の様子
緑の小道の様子

区役所の南側、ちょうど松陰神社前駅の一帯は路地が入り組み、古くからの建物が密集していることで知られています。あまりの道の狭さに清掃車が入れなかったりと、生活に不便するような場面が多く、カーナビの正確さを検証するのに使われるといった笑えない話もあります。

笑い話で済めばいいのですが、火事、特に震災時に複数の火事が起きた場合、消防車が入れなく、初期消火に失敗すると、付近が火の海となってしまう可能性があります。

そういった問題を少しでも解消させようと、緊急時に避難路として、場所によっては緊急時に救急車や消防車等の緊急車両が通行できる事を第一目的に、かつての水路跡を利用して緑の小道が整備されました。

この道は通路としての役割だけではなく、「若林街づくり協議会」の方々が2週間に一度の清掃・見回りの他、花や樹木の手入れや草抜き等を行ったりと、地域の顔が見えるコミュニティづくりの場としても利用されています。

#2-10 旧・新町住宅地の桜並木

旧・新町住宅地の桜並木の解説板

1913 年(大正 2)に分譲が始まった「新町」住宅地は、Y字型の骨格道路の両側に合計千余本のソメイヨシノが植えられた。後に「桜新町」と呼ばれるようになった。(紹介文の引用)

場所:深沢7~8、桜新町1 備考:ーーー

line
桜新町 駅前のサザエさんの像
駅前のサザエさんの像

サザエさんの町として知られている桜新町。サザエさんの生みの親である長谷川町子氏が暮らし、ここでの生活体験がサザエさんに描かれています。

桜新町という町名は、とても響きがいいです。昭和になって付けられました。それまでは、新町と呼ばれていました。

少し時を戻し、明治45年(1912年)、玉川電気鉄道の株主だった東京信託(現日本不動産)が、山林だった駒沢村深沢と玉川村下野毛飛地(現深沢7・8丁目と桜新町1丁目の南半分)を取得し、富裕層を対象にした郊外型の高級分譲住宅地、新町分譲地を整備しました。

旧・新町住宅地の桜並木
旧・新町住宅地の桜並木

その新町住宅地の道沿いには、記念植樹として、話題性を兼ねて4、5m間隔で千本あまりの桜(ソメイヨシノ)が植えられました。桜が育つと圧巻の光景となり、頭上を桜の木が覆うので、雨が降っても傘がいらないと言われたほどです。

とてもインパクトなある光景だったようで、いつしか人々から桜新町と呼ばれるようになり、玉電の駅名が桜新町となり、町の名も桜新町となりました。

現在の新町住宅地は、後に国道や首都高が横切ってしまい、昔のような高級住宅地の雰囲気は薄くなりましたが、桜並木は健在で、春には美しい桜並木を見ることができます。

広告
広告
広告