* 武家屋敷風の安穏寺について *
環八の千歳台の交差点から芦花公園、ガスタンクと西へ向かう道は古くからの街道で滝坂街道といいます。榎の交差点までは広く真っすぐの二車線道路なのですが、その先は道が曲がりくねり、車がすれ違うのがやっとの道幅になってしまいます。
車の通行量が多いうえにバス通りにもなっているので、通勤時間帯を中心にしばしば渋滞も起こります。自転車や歩行者にとっては歩道がないので溜まったものではありません。
その滝坂街道の中でも難所といえるのがこの安穏寺前です。道は坂になっているうえに曲がっているので見通しが悪く、車がすれ違うのも大変です。そのカーブの途中に安穏寺の入り口があります。
この安穏寺の前から少し坂を下ると道の脇に地蔵堂があります。地蔵堂の中には岩船地蔵尊が安置され、庚申等や馬頭観音が一緒に並んでいます。なんというか旧街道っぽくていい感じです。しかもなぜか横に懐かしき昭和の香りがするオート三輪が置いてあったりして、更に郷愁を帯びた雰囲気を感じさせてくれます。
この地蔵堂のある路地にもお寺の入り口があるので、こちらから入る方が安全かと思います。
さて安穏寺なのですが、正式には舜栄山行王院安穏寺と号し、新義真言宗智山派に属し、川崎市小杉の西明寺の末寺になります。
一応墓碑や奉納された石灯籠から、元禄年間(1688~1703年)に吉岡九郎左衛門によって開基されたのではと推測されています。また過去帳などから等々力の満願寺の権大僧都元光が寛政年間(1789~1800年)に中興したとも言われています。
明治維新前後18年間は住職が不在となってしまい、近くの東覚院によって管理される事になったのですが、その時に寺は荒れ果て、博徒が入り浸り、博打場として使われていたそうです。
明治18年には風禍によって本堂が倒壊し、大正14年までは再建されず荒廃していました。このときに寺に関する資料など一切は失われてしまいましたが、そもそも江戸初期に書かれた新編武蔵国風土記稿に開山、開基の年歴は伝えずとなっていたりします。
現在の安穏寺は過去に荒廃していたとは思えないほどとても整然とした印象を受けるお寺になっています。境内は煩雑な門前の滝坂街道とは打って変わって静かな感じで、植木はきちんと手入れが行き届き、墓地参拝用の桶などもきちんと並んでいて、なんて言うかとても雰囲気がいいです。
百景のタイトルにあるように武家屋敷風というのがこの項目の焦点になるのでしょう。通りから少し奥まった場所にある門は白壁が美しく、寺院の門としては均整が取れたセンスを感じる門です。使っている木材は古いものではないので、戦後ぐらいに境内を整備した際に新築したものと思われます。
重厚な感じの屋根と低くドシッとした全体の雰囲気からは確かに武家屋敷の門としても違和感を感じません。とはいえ武家屋敷の門にしては少々屋根が大き過ぎ、やはり寺院の門かなといった印象を受けます。そのへんが武家屋敷風といった表現となっているのでしょうか。
それ以外は武家屋敷っぽさはなく、境内も武家屋敷っぽい門以外は・・・、正直普通のお寺ってな感じです。ちょうど桜の時期に訪れたのですが、境内に咲く花がとてもいい感じでした。