経堂天祖神社と例大祭
経堂4-33-2夏には万燈神輿、秋には天祖神社の神輿と、かつての経堂は神輿の盛んだった地域ですが、今では下火になり、短い区間だけの渡御になってしまいました。ただ、境内では明治神宮仕込みの巫女舞が行われ、新しい祭りの顔となりつつあります。
1、旧経堂在家村と経堂天祖神社について
*国土地理院地図を書き込んで使用
小田急線の豪徳寺と千歳船橋の間に経堂駅があります。位置的には世田谷城の西に広がるエリアとなり、世田谷区でいうなら中央のちょい西北側といった感じでしょうか。
経堂と聞いてどういうイメージを持つかは人それぞれでしょうが、町内の路地は細く、一方通行や行き止まりが多いため、車で経堂を通り抜けるのが大変です。このことから「経堂迷路」などといった呼ばれ方をすることもあります。
(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】)
もちろん世田谷にはこういう場所が幾つかありますが、やはり場所が世田谷の中心部付近なのと、北の赤堤通りから小田急線を越えて南の城山通りや世田谷通りに抜けたいときに、環七や環八まで出るのは大変なので、何とかなるだろうと経堂を突っ切ると、いきなり二車線道路が行き止まりになり、路地に入って迂回しようものなら狭く迷路のようで、一方通行を進んでいくと徐々に方角を見失い、気がつけば明後日の方向へ誘導されてしまって・・・となってしまう事に原因があるようです。
今では車のナビゲーションが一般的に普及し、精度も上がったし、自転車や徒歩にしてもスマホがあるので、2010年以前ほどそういった不満は聞こえてこないでしょうか。
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でもまあ、今でも道がややこしい事実は変わりません。天祖神社前の2車線道路や、世田谷八幡神社や勝光院の西側の道路が整備されれば、赤堤通りから世田谷通りまでつながるので、そういった印象も過去のものになるかもしれません。
とまあ、土地に不慣れな他地域の人間からすると、迷路といった印象の強い経堂の町は、江戸時代は荏原郡経堂在家村と呼ばれていて、世田谷区が成立した1932年(昭和7年)に経堂町となりました。
経堂在家村の名が歴史に現れるのは、この地が旗本領となった江戸時代の初期、寛永六年(1629年)の事で、それまでは菅刈庄、亀ヶ谷村、鍛冶山などと呼ばれていたようです。
経堂駅の南側にある曹洞宗のお寺です。
なぜ経堂在家村となったのか?地名の由来には幾つかの説があり、はっきりしていません。ただ、駅の南側にある経堂山福昌寺が関係しているというのが、一番有力な説になっています。
このお寺を建てたのは、当時この地を与えられていた松原土佐守弥右衛門という人物でした。彼は中国から幕府のお抱えの医者として日本へ迎えられ、そのまま帰化した知識人だったとかで、多くの書物をお堂に収蔵していました。
付近の住民は書物=お経と勘違いし、お経がたくさん収蔵されているお堂、経堂と呼ぶようになり、その後松原氏が敷地内にお寺を建てる際に経堂の名が気に入ったのか、経堂山福昌寺と名付けたようです。
在家というのは、出家を意味する仏教的な言葉になり、松原氏が普通の生活をしながら仏教信仰を行っていたので、経堂に在家を付けて村の名前になったとか、なんとか。
この他には、村に珍しい京風のお堂があり、それを京堂と呼んでいたのが経堂になったとか、お経の本を沢山埋めたお堂がこの地域の住民の信仰の対象になっていたからだとか・・・などといった説もあります。いずれにしてもお堂に因んで名が付けられたとされているようです。
経堂に続く「在家」の方は、中世の荘園制度に由来する集落に近い意味で、菅刈庄と呼ばれた荘園の名残ではないかといった説もあります。
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経堂は、町域の中央付近を烏山川(用水)が横切っていて、戦前までは川沿いの低地に田畑が多くある地域でした。村内には農業の神様である稲荷神社があちこちにあったそうです。
農業が盛んで農業の神様がたくさんいた土地ですが、経堂の氏神様として地域の人々に慕われていたのは天祖神社で、明治七年に村社に指定されています。
その昔は伊勢の宮と称していましたが、村社に指定される頃、明治政府から「宮」の称号を一般の民社で使用する事が禁じる命が出たので、天照大御神の「天」と氏神様(先祖神)の「祖」を合わせて「天祖神社」となったそうです。
住宅街にありながらうっそうとした雰囲気は残っています。
天祖神社(伊勢の宮)の創建に関しては、江戸時代に書かれた「新編武蔵風土記」に拠ると、創建年代不詳とされていますが、地元の伝承では永正4年(1507年)となっています。
何の根拠があってこの年なのか、この年号が何を意味するのかよくわかりませんが、この頃は室町時代の後期、吉良氏が世田谷に居城を構えていた時代になるので、世田谷城からそんなに離れていないこの地が開けるには不自然ではない時期です。
世田谷城に近いので、有力な家臣にこの地が分け与えられ、その家臣が神社を勧請したということも考えられるでしょうか。あながち間違った年号ではないのかもしれません。
時を進め、明治40年には合祀令により、町内の稲荷社や北野神社が合祀されたため、祭神は天照皇大神の他に稲荷社の宇迦之御魂神、天神様の菅原道真公と増えました。
ただ、経堂は烏山川の北と南で文化がはっきりと分かれていたので、形式的な合祀だったようです。
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天祖神社が鎮座しているのは、経堂4丁目の小田急線の線路からほど近い丘で、過去の経堂の文化圏では川の南側になります。
川の北側の神社、経堂駅の北口、ロータリー前に北野神社(天神神社)、南口の路地に本村稲荷社の祠は、今でも残されています。後から正式に登記したにせよ、当時、住民の間で色々と複雑な事情があったのではないでしょうか。
また、天祖神社自体も、経堂の町全体から見ると、真ん中よりも少し西側といった立地になり、小田急線で考えると、最寄り駅は経堂駅ではなく、千歳船橋駅になります。
違和感のある立地ですが、経堂駅が経堂の東の端に位置していて、千歳船橋駅が経堂の西端に少し掛かるような形で位置しているので、これはしょうがありません。
ただ、現代の東京で重要なのは、どこの駅に近いか、どこの商店街に所属しているか、ということ。この神社の場合、周りが住宅ばかりで、ひっそりと存在しているといった状況。あまり神社の存在感がありません。
おまけに千歳船橋駅近くには稲荷森稲荷神社があるし、経堂駅南口からだと世田谷八幡神社の方が近いしと、色々な面で立地環境に恵まれていないように感じます。
拝殿と旧神楽殿が仲良く並んでいます。
少し存在感の薄い経堂天祖神社ですが、境内には木々が茂り、神社の北側は経堂四丁目児童遊園として整備されているので、住宅街にあってこの一角はとても緑豊かで、昔ながらの雰囲気を感じることができます。
一の鳥居、二の鳥居をくぐって境内を進んでいくと、拝殿と神楽殿が仲良く並んでいます。こういった配置になっている神社はあまりないので、とても珍しく感じます。
この拝殿横の神楽殿は、実は明治6年に建てられた旧社殿になります。昭和51年(1976年)に境内を整備した際に新たに横に社殿が建てられ、旧社殿は神楽殿に造り変えられました。なので、拝殿の横に神楽殿が並んでいるといった配置になっているのです。
その後、平成11年(1999年)に新たに神楽殿が境内に建てられたので、現在では社務所的な感じで使われています。
簡素な感じの建物です。用賀神社から移築したものです。
拝殿は、標準的な木造入母屋造りの建物で、その後ろにある本殿は神明造りです。
昭和51年に建てられたにしては古すぎない?ってことになりますが、この建物は用賀神社から移築されたものです。用賀神社は昭和48年に隣接地を手に入れ、昭和52年にかけて貴重な木曽産の檜を使って社殿を新規で造営したので、旧社殿は必要ありませんでした。
どういう条件で手に入れたのかわかりませんが、ちょうどいい建物がいい条件で手に入ったということになるでしょうか。
眉毛が立派で、仙人のようないでたちの狛犬です。
境内には二対の狛犬があります。一対は明治42年に奉納さたもの。台座に溶岩石が使われているので、冨士山講の人達の奉納でしょうか。
もう一対は銘が判読不能。ただ、朽ち方が明治のものよりも少ないので、大正とか、昭和初期に造られたのでしょうか。こちらは眉毛がとても立派で、貫録があるというか、仙人のようなたたずまいをしています。
実はもう一対狛犬がいたりします。多くの人は言われないと気が付かないでしょう。なんと、拝殿の屋根の上にいて、逆立ちをするようにしています。場所、その姿から「飛び狛犬」様(さん)と呼ばれています。
拝殿の屋根の上にも狛犬がいます。
近年では、この「飛び狛犬」が話題になっているようです。神社に隣接する「経堂アトリエ」のイラストレーター大沢かずみさんが制作した「飛び狛犬さん」が奉納され、それを見た参拝者が「これ欲しい!」となり、授与品として制作をお願いし、頒布(販売)することになりました。これが人気になっているとか。手製のものなので、なかなか制作が追い付かないそうです。
あまり見るべきものが多い神社ではありませんが、境内には少々変わったものがあります。それは「胞衣塚(えなづか)」。境内の左奥にあります。
胞衣とは、胎盤、臍帯、卵膜など、分娩後に母体から排出されるものです。なんでも、明治の終わり頃まで強い子に育つようにと、出産後七日目に胞衣を布や紙などに包み壺などに入れて「胞衣納」をする風習があったとか。胞衣塚の下にはその胞衣壺が埋められているそうです。
この他、二の鳥居の横に境内社として御嶽神社もあります。
2、経堂天祖神社の秋祭りについて
かつての経堂天祖神社の例大祭(秋祭り)は10月2日に宵宮、3日に本祭が行われ、それに合わせて本村稲荷社の祭りも行われていたそうです。
神社の周辺の道には灯篭が灯され、神楽殿では神楽が舞われ、神楽の後には劇団による芝居が行われる事もあったとか。とても賑やかな祭りだったようです。
現在では、10月の第一週末に祭礼日が変更されています。かつて賑やかだった祭りは、今では随分と規模が縮小されていて、昔を知る人からすると少し寂しさを感じるようです。
一部の時間帯を除き、静かな感じの境内です。
神輿については次の章で詳しく書いていますが、戦前までの経堂は烏山川で村の南北が明確に分かれていました。神輿も宵宮、本祭ともそれぞれの神輿が競ううように担がれ、大いに賑わったそうです。
今でも宵宮、本宮ともに太鼓と神輿が出ていますが、宵宮では線路の北側を神輿が回り、本祭では線路の南側を回るといったもの。しかも近年では担ぎ手が集まらないので、本祭のみ担がれて、土曜日はトラックの荷台に載せて移動していたりします。
神楽殿で舞われます。あまり観客はいませんでした・・・。
ここの神社の特徴というか、ご自慢は、新しい神楽殿で舞われる巫女舞(巫女神楽)が充実していることです。祭りの日程表を見ると、宵宮、本祭のどちらの日も15時から16時半まで(以前は17時まで)神楽舞奉納とあります。
これはお面を付けて舞われる神楽が奉納されるのではなく、いわゆる巫女の舞がずっと続きます。1時間半(以前は2時間)も巫女舞が行われる神社はなかなかないのではないでしょうか。もちろん浦安の舞などの巫女舞も正式には巫女神楽とか、神楽舞と呼ばれるので、神楽舞奉納で間違いではありません。
一番有名な舞です。扇と鈴の舞いがあります。
秋祭りの巫女舞というと、小学生が舞っている事が多いです。それが当たり前とか、そういうものだと思っている人も多いでしょう。特に田舎だと多いです。
秋祭り(収穫祭)というのは地域のイベントで、今年は誰々がどの役をやって・・・みたいな感じで行われています。これは日本以外でもそうで、東南アジアでもそうだし、西欧でもそうです。
巫女の役は、祭りの中でも花形の役の一つになるでしょうか。巫女装束を着て舞いたい・・・と憧れる女の子も多いです。とはいえ、近年は少子化もあり、昔ほど人気はないようで、他に舞う人がいないから何年もやらされた・・・というようなこともよくあったりします。
ここ天祖神社の巫女舞を奉仕しているのは、そういった小中学生の子供たちではなく、年配の方々になります。ある意味、とても珍しいです。どこかの民舞会とか、日本舞踊会による奉納舞なのかと思ったのですが、聞いてみると氏子の方々や神主の奥さんなどが舞っているそうです。
写真だと、後から見て何の舞いかわからないです。
なんでも神主さんの奥さんが明治神宮で位の高い舞人をされていたとかで、それを氏子の人に指導しているそうです。そう聞いて改めて舞台を見ると、素人っぽいかなと思いましたが、なかなか他では見られない貴重なものに違いありません。
巫女舞といえば、関東で一番有名なのは「浦安の舞」。他には「豊栄の舞」「悠久の舞」などもよく見かけます。ここではそういった基本的な舞いから、普段お目にかかることのない舞、また、男性が舞うことの多い舞とか、色々な舞が演じられていました。30分ほどしか見学していないので、もしかしたらもっとすごい舞も演じられていたのかもしれません。
男性が舞うことが多い舞です。
巫女という職業は、祭りや結婚式などでの神事補佐や舞などの奉仕、それ以外は、参拝者の案内やお守りなどの販売、境内の清掃などの雑務になります。
参拝者が多く、結婚式を多くこなしたり、祈祷の希望者が多かったり、お守りなどが多く売れる神社でなければ、職員の巫女を雇うことができません。そういった神社の祭礼では、専門の巫女によって舞が行われます。専門職なので、やっぱり舞も美しく、凛々しいです。
巫女という職業は特殊で、ずっと巫女を続けられるかというと、巫女という特性や印象からそうもいかなく、ある程度の年齢になると、職を変えなければなりません。
神職の資格を取って、神社の職務を続けるにしても、基本的には神社の多くは縁故採用なので、そういった伝手がなければ資格を取ったからといっても雇い口があるとは限りません。話を聞くと、狭く、しがらみの多い世界のようです。
でも、このように巫女だった経験を活かして、地域の祭りに華を添えているのを見ると、とても素敵に感じます。ちなみに、勝利八幡神社も兼務しているので、あちらの奉納演芸でも同じような巫女舞を見ることができます(*翌週末)。
出演者の数が凄いです・・・。(2012年)
宵宮、本祭とも15~16時半に神楽舞奉納(巫女舞)が行われた後、17時~20時半(以前は17時半~21時)に町内有志による奉納演芸が行われます。
神楽殿に張り出してあるプログラムを見ると、凄まじい数の参加者で驚きました。神主の奥さんの巫女舞に感化されて、こんなに参加者が多くなったのでしょうか。それとも土地柄なのでしょうか。本当にすごい人数です。
舞や唄などの演目が続きます。
それぞれ得意な分野の発表を行います。
演目を見ると、舞踊や民謡といった唄や踊りがほとんどで、中にはフラダンスもあったりしますが、少なくとも子供や若者が興味を持つような内容ではありませんでした。実際、観客も年配の方が多かったです。
演目が土曜日よりも日曜日の方が少ないのは、日曜日の19時ころに神輿が宮入りしてきて、その間しばらく境内や神楽殿が使えなくなるからです。
奉納演芸が20時半に終わると、お隣の稲荷森稲荷神社でも活動している安宅囃子保存会による囃子の演奏が行われ、その後にミカンや餅などの配布があり、終了となります。
人があまりいなく、静かな感じです。
巫女舞が1時間半奉納され、多くの人が出演する奉納演芸が行われる経堂天祖神社の祭礼。とても盛り上がり、境内も多くの人でごった返し、多くの露店が並び、活気のある状態だろう・・・と思ってしまいますが、実際はあまり活気があるとは言えない状態です。唯一、神輿が宮入りしてくる時間帯のみ、境内に人が溢れかえるといった感じです。
境内の拝殿や神楽殿のある場所に露店が並びます。
年々屋台が減っているのが気になります。
私が経堂天祖神社の祭礼を初めて訪れたのは、2009年のこと。境内にはあまり露店は出ていなく、神社の裏手の経堂四丁目児童遊園に多くの露店が並んでいました。全部で十数店ありました。
翌年訪れると、露店は境内のみとなり、10店いかない程度に減っていました。更に2012年に訪れると、5店よりは多かったかな・・・という程度まで減っていました。
かつては境内の外の道まで露店が出ていたほど賑やかだったそうです。露店の減少からも人が集まらなくなり、どんどん活気がなくなってきているなと感じざるを得ません。
やはり経堂駅と千歳船橋駅の中間という立地条件がマイナスに働いているのではないでしょうか。もっと言うなら世田谷一の格式(規模)を誇る世田谷八幡神社と、駅前で賑やかな稲荷森稲荷神社の真ん中にあるというのが、印象を薄くしている原因ではないでしょうか。氏子地域にとらわれない一般の人が集まらなくなっているように感じます。
3、神輿渡御の様子
世田谷の西を流れる多摩川。多摩川が東京と神奈川の県境となっています。このように大きな川が県や町、村の境となることが多いです。
町内を川が流れている場合も、その川の大きさにもよりますが、川を境に北南、東西といった生活圏ができる場合があります。
*国土地理院地図を書き込んで使用
経堂村では村の真ん中を北西から南東にかけて烏山川(烏山用水)が流れていて、村を北と南に二分していました。そのため村の北と南といった感じで、烏山川によって文化圏が分かれていたそうです。
現在の感覚からすると、何を大袈裟な・・・と思うかもしれませんが、川の周辺は田畑が広がっていて、集落はなく、明確に川の南北で村が分かれていました。その様子は戦前の航空写真でもよくわかります。
昭和40年代には烏山川が埋められたので、現在では境界のない一つの町に・・・とはならず、1990年代、それ以上に大きな境界、そう、まるでベルリンの壁(この当時の例え)のようにそびえる小田急線の高架によって町が分断されました。
商店街も南口と北口でそれぞれ発展していき、町番も線路によってが区切られているので、現在では川よりも線路の北側と南側で町の文化圏が分かれているといった感じです。
昭和8年に購入した5尺2寸の大太鼓です。
神輿もかつては北神輿と南神輿があり、宵宮祭、本宮祭にそれぞれが競い合うように担がれ、多いに盛り上がったそうです。
現在の神輿渡御もそういった事を反映していて、土曜日に線路の北側の二丁目、三丁目を回り、日曜日には線路の南側の一丁目、四丁目、五丁目を回るといった感じで分かれています。
しかしながら、昔のような活気はなく、土曜に行われる北側の渡御は、担ぎ手がいない事から太鼓車の後ろにトラックの荷台に載せられた神輿がついていくといった渡御になり、日曜日の渡御も盛大な宮出しといったものは行われず、南口の農大通り商店街まで神輿が運ばれ、そこで発輿式が行われ、神社に向って担いでいました。
ただ、令和元年に神輿が新調されました。それからは祭りに活気が少し戻り、日曜日の昼頃に神社から宮出しを行い、19時に宮入りとなっているようです。
* 2009年の様子 *
安宅囃子保存会が努めます。
小規模な巡行でした。
昭和8年に購入した5尺2寸の大太鼓です。
トラックで運ばれてきても・・・と感じる人も多そうです。
訪れた2009年では、土曜日の神輿、太鼓車の巡行は15時から、日曜日の巡行は13時半から行われていました。
土曜日は神輿が担がれることなく太鼓車の後ろを軽トラックの荷台に載せてついていくといったスタイルでした。それを知らずに訪れたし、太鼓引きに参加する人も少なく、あまりにも寂れた様子に唖然としてしまいました。
延軒屋根で三つの紋が入っています。
トラックに載せられる北神輿は延軒屋根で、唐風屋根の南神輿とは雰囲気が違います。また屋根には三つの紋が取り付けられています。北側にある天神様、稲荷様と、ここの天祖神社を表しているのでしょうか。
土曜日とは一転して人が増えていました。
日曜日の方が人が多くて盛大だよと、祭りの関係者に教えられたので、翌日の日曜日の神社を出発する午後1時半に合わせて訪れました。
話通りで、昨日とは一転して、出発の準備をしている太鼓山車の周りに人が多く集まっていました。
が、何かおかしい。そう、神輿の担ぎ手の姿がない。神社の中に入ってみるものの、境内は空っぽ。神輿がない。
聞いてみると、大人の神輿は経堂駅南の農大通り商店街から出発するんだよ、と教えられ、唖然。えっ、そんなのあり・・・。神輿って神社から出発するんじゃないの・・・。
大勢の子供が参加していました。
祭りになると生き生きする老人は多いです。
すぐに「腰が痛いわい。交代せえ」といった声が聞こえてきそうです。
太鼓行列の方は多くの子供たちが参加していました。また、地域の老人の方々が張り切っているのも印象的でした。
賑わっているのは日曜日だからでしょうか。商店街の方へ向かうからでしょうか。よくわかりませんが、昨日の閑散としたのは何だったんだろうと思ってしまいます。
この太鼓行列は神社から農大通り商店街へ向かい、そこで神輿と合流するとのことでした。このままついていけば神輿のところへ行けるよ!と、教えられましたが、朝からあちこちの祭りを見学していて、そろそろ休憩したかったし、見るなら最初から見たいし、少々気が抜けてしまったし、と、今年の神輿見学は諦めました。天祖神社の祭礼が行われる10月第一週末は、区内で一番祭りの多い日なのです。
* 2010年の様子 *
太鼓車が出発する前に神事が行われます。
翌年、再び訪れました。日曜日の渡御は昨年と同じで、13時半に神事が行われた後、太鼓車とお囃子が神社から出発していき、神輿の方は14時頃から農大通り商店街から出発します。
時間があったので神社に立ち寄ってみると、拝殿にて神事が行われていました。巡行の安全を祈願する神事といった感じでしょうか。
道路脇、葬儀屋の前なので微妙な感じです。
商店街の方へ行くと、清水葬祭の前に神輿が置かれていました。葬儀屋と祭り・・・。神道では死を「穢れ」と捉え、神域に穢れを持ち込むことはタブーとされています。よって忌中や喪中の家は祭りに参加しない事が多いです。
なので、葬儀屋の前に神輿が置かれていると、ちょっと違和感を感じてしまいます。が、まあ、こういうことは地域によってとらえ方が違うので、部外者が口を出す問題ではありません。
しばらく待っていると、神社で神事を終えた神主がやって来て、ここで発輿祭が行われました。
大勢の子供たちに引っ張られて通過していきました。
神事が終わってしばらくすると、太鼓の音が聞こえてきて、神社を出発したお囃子車と大勢の子供たちに引かれた大太鼓が神輿の横を通過していきました。担ぎ手たちがやんやと盛り立て、子供たちが嬉しそうに、或いは怖そうな人がたくさんいる・・・と不安そうに通り過ぎていました。笑
神輿出発前の景気づけ。
さあ出発。様々な半纏を着た担ぎ手が集結していました。
狭い通りなので、迫力があります。
太鼓が通り過ぎると、神輿の出発準備が行われ、まずは総代の掛け声でお神酒を乾杯。そして、神輿を道路の真ん中に移動し、手締めが行われ、担がれます。
興味深いのは神輿に掲げられている駒札に北の文字がある事です。今では南口商店街として経堂の南の中心的な場所ですが、かつての境界線である烏山川で考えると北側に位置しているので、北の文字が伝統的に残っているようです。
屋根に載せられた獅子頭が可愛らしいです。
安宅囃子が先頭で高張り、神輿と続きます。
狭い路地を押し寄せてくるといった感じです。
ここは昔ながらの商店街です。
場所によっては狭いので、思いっきり担げません。
担ぎ始めがいきなり賑やかな商店街。神社から宮出しする場合は静かに立ち上がっていき、繁華街などに向けて徐々にテンションが上がっていくといった感じですが、ここではいきなり見せ場を迎えるので、担ぎ始めるとすぐに担ぎ手のテンションが上がっていました。
ただ、ここは道幅が狭い商店街。勢いよく担ぐと、人や建物、看板などにぶつかったりするので、あまり激しく担ぐことができません。遠慮がちに担いでいるといった雰囲気でした。
この通りでは夏に阿波踊りやサンバも行われますが、やはり道が狭いので踊り手が萎縮しているような感じを受けます。担ぎ手には商店街や阿波踊りのむらさき連の人間が多いので、あまり通行人や他の店舗に迷惑をかけられないといった自制心も少し働いているのかもしれません。
ご祝儀をいただいたお店などではお礼の差し上げを行います。
ご祝儀をもらったお店の前で、お礼の差し上げをしながら商店街を進んでいきます。これが意外と大変でした。路地が狭いので神輿の向きを変えるのが大変なのです。神輿が横を向いているときは通行人も通れない状態。また、差し上げる時も、商店の看板や軒にぶつからないようにと注意が必要です。
周辺の地域から集まっているようです。
担ぎ手は経堂の人ばかりではなく、様々な半纏を着た人が参加していました。東隣の宮坂、北の赤堤、松原などが多いでしょうか。みんな9月中に地元の祭りが終わっています。
一番多いのは横根の文字が入った半纏。これは西隣の稲荷森稲荷神社の睦会で、お囃子の安宅囃子はどちらの神社にも所属しているので、交流が深く、担ぎ手の応援も多くなっています。
宮入りしてきた神輿は境内で練ります。
桜新町の久富稲荷神社の宮入りを見て、経堂天祖神社の宮入りを・・・と、各神社のタイムスケジュールを見ながら綿密に今日の計画を立てていたのですが、久富稲荷神社の宮入が大幅に遅れてしまったことで、天祖神社に着いてみたら、もう宮入は佳境に入っていました。
なかなか思うようにいかないのが祭り見学。でもそれが楽しかったりします。今年が駄目でもまた来年、或いは再来年に訪れればいいさ。って感じでしょうか。
境内が熱気に包まれていました。
無事に宮入りができ、感無量といった雰囲気でした。
宮入の最後は、安宅囃子が演奏する神楽殿の前で収めていました。奉納演芸や巫女神楽の時の静かな感じの境内が熱気にあふれかえっていて、これはこれで驚きました。
* 2012年の様子 *
一段と寂れた感じです。
宮入りをちゃんと見ていないので、2012年に改めて宮入の時間帯に訪れてみました。早めに神社に着き、奉納演芸が行われている境内を少し散策したのですが、露店の数が一段と減っていて、またいっそう寂れたように感じました。
ここからは2車線道路になります。
神社から神輿の来る方向へ進んでいくと、ちょうど路地から神社前の2車線道路へ出てくるところでした。テンションが上がっていて、商店街を進んでいるときよりも賑やかな感じでした。
経堂の町の大きな境界線です。
音が響くので、大きな声を出したくなります。
神社前の2車線道路を進んでいき、小田急線の高架をくぐります。実質、現在の経堂の境界線となるでしょうか。
境界線上では様々な力が作用するようで、担ぎ手のテンションが急激に上がります。っというのは、大袈裟ですが、高架下だと声が反響し、サラウンド効果みたいになり、気持が盛り上がるようです。
まもなく神社です。
小田急線を越えると、間もなく神社。神社前の2車線道路を広く使って渡御します。この道は途中が整備中になっていて、経堂迷路となっている一因です。今はそんなに交通量が多くありません。もし、この道がきちんと開通したなら、同じことをすると大渋滞が起きそうです。
脇参道を登っていきます。
宮入は正面の鳥居からは入っていかなく、横の脇参道から登っていきます。2の鳥居が小さいし、参道も狭いので、しょうがありません。
担ぎ手のボルテージが一気に上がります。
まもなく神社です。
脇参道から入ると、そこは拝殿前。そこで激しくもみ合います。今では露店も減ってしまい、あまり活気のない境内と感じていましたが、神輿が入ってくると、凄まじい熱気に包まれます。
神輿は拝殿前で担ぎ上げを行い、そして甚句(江戸時代に生まれた日本の伝統的な歌謡)に合わせて、担ぎます。甚句にむらさき連の太鼓のエースによる太鼓伴奏が入るのが経堂らしいところでしょうか。なかなかカッコいい光景でした。
フィナーレを前に一番盛り上がります。
担ぎ手たちが息をを合わせて神輿を収めます。
拍子が打たれ、無事に収まりました。
それが終わると、安宅囃子が演奏する神楽殿の前で収めていきます。神楽殿前は少しスペースがあるので、一番盛り上がり、そしてフィナーレを迎えます。すぐ近くの稲荷森稲荷神社のように御神輿が暴れることもなく、比較的おとなしく、あっさりとした感じの宮入でした。
* 町会神輿 *
実際に見ていないのですが、二年に一度、宮神輿とは別に北口のすずらん通り商店街の町会神輿が運行され、神社にやってくるようです。
なぜ二年に一度なのか。それは商店街のメインストレートとなっているすずらん通りが経堂と宮坂の境界線となっているからです。
左右で町名が違うことは、普段の生活においては同じ区内なので大して不都合はありませんが、氏子地域が厳格に決められている神社関係においてはちょっと問題となります。
同じ商店街に所属していても氏子神様が異なり、経堂側は経堂天祖神社、宮坂側は世田谷八幡神社に属する事になります。
世田谷八幡は祭礼が9月、天祖神社は10月なので祭日がかぶることはないのですが、両方に参加していたら負担が大変だし、このご時世に担ぎ手を集めるのも大変です。
よって一年ごとに世田谷八幡神社と経堂天祖神社に交代で御神輿を運行しているといったわけです。
かつての若林では、村内にある三社で順番に祭礼を行っていたり、羽根木では村内の二社で交互に祭りを行ったりと、同じ村内において神社が年によって変わることはありましたが、違う町域へ一年ごとに氏神様を変えて渡御するというのは、珍しいというか、村意識の強かった昔ではありえなかったことだと思います。
近年では町域変更や再開発などで氏子地域も曖昧となり、近いからということで別の町域の氏神様へお参りするというのも普通のこととなりました。時代の流れによって生まれた新しいタイプの神輿渡御になるのでしょうか。
すずらん商店街神輿が天祖神社にやってくるのは西暦の奇数年になるようです。経堂駅の北口から出発し、すずらん通りを直進し、ぐるっと回って天祖神社へ宮入し、その後高架下付近を通って北口に戻ってくるといったルートになります。
宮神輿が南口の農大通り商店街を中心にしているので、こちらは現在の北神輿といった感じでしょうか。神輿渡御には太鼓車、子供神輿も運行されるので、なかなか賑やかなようです。初心者でも参加しやすいように、運行前の12時から担ぎ方の練習なんてあるのも商店街神輿らしいところです。(*2025年の案内を見ると、子供神輿や太鼓山車の運行はないとなっていました。)
4、感想など
味のある太鼓と日本家屋が素敵です。
かつて経堂では、秋の天祖神社の祭りで南北2基の神輿が担がれ、夏に行われる経堂祭りでも2基の万燈神輿が担がれていました。この万燈神輿には経堂だけではなく、関東から担ぎ手が集まってきたとか。とても神輿の盛んだった地域です。
しかしながら、今ではそういった面影はなく、なんとか神輿を運行しているといった感じです。担ぎ手の半纏を見ても、周辺地域からの応援が多く、色とりどりでした。
ただ、経堂自体が寂れているというわけではなく、夏に行われる経堂祭りでは地元の阿波踊り団体、むらさき連を中心に大変盛り上がりますし、サンバパレードにも区外からも多くの人が訪れています。こちらの方は年々賑やかになっています。
過去の祭りの賑わいや経堂祭りの賑わい、周辺の神社の賑わいを考えると、なにかこの神社だけ時代に取り残されてしまったような寂しさを感じてしまいます。
提灯だけが明々と灯っている感じです。
こうなってしまったのは世の中の移り変わりとともに人々の趣向が変わってしまったことや、神社立地の悪さなどが挙げられるでしょうか。
でも、もっと深いところでは、過去の境界線である烏山川と現在の境界線である小田急線高架と新旧二つの境界線が混在し、中途半端に町を、商店街を、人の心を分けている影響もありそうです。
二日間に分けられている神輿の渡御の様子やルートを見て、なんとなくそう感じてしまいました。
せたがや散策記経堂天祖神社と例大祭 2025年9月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
| ・住所 | 経堂4-33-2 |
|---|---|
| ・アクセス | 最寄り駅は小田急線千歳船橋駅、あるいは経堂駅。 |
| ・関連リンク | 天祖神社(公式) |
| ・備考 | ーーー |