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せたがや地域風景資産 No.3-14

賀川豊彦と松沢の教会・幼稚園・資料館

関東大震災の救援のために移住した賀川豊彦によって雑木林から開拓された。当初の教会と幼稚園は建て替えられているが、賀川により推奨された「自然教案」により、敷地内には当時からの樹木が多く残されている。資料館の2階広場には、当初の木造教会が保存されている。(紹介文の引用)

・場所 : 上北沢3-8-14、19
・登録団体など : 「賀川豊彦と松沢の教会・幼稚園・資料館」風景保全活動委員会
・備考 : ーーー

*** 賀川豊彦と松沢の教会・幼稚園・資料館の写真 ***

松沢教会の写真
松沢教会の入り口

駅から近いところにあります。

松沢教会の写真
松沢教会

近代的な建物です。

賀川豊彦記念 松沢資料館の写真
賀川豊彦記念 松沢資料館

 教会の隣にあり、二階部が資料館になっています。

賀川豊彦記念 松沢資料館の写真
賀川氏のポスター

入り口に張られていました。 

賀川豊彦記念 松沢資料館の写真
資料館の館内1

パネルでの展示が多いです。

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資料館の館内2

直筆の手紙などの展示物や映像での資料もあります。

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書斎の机

この机で執筆していたようです。

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並べられた著書

ノーベル文学賞候補者でもありました。

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資料館2階の中庭にある旧松沢教会

スペイン的というか、おしゃれな感じです。

賀川豊彦記念 松沢資料館の写真
かつての松沢教会

現在でも昔の面影が残っているのが凄いです。

賀川豊彦記念 松沢資料館の写真
旧松沢教会内部

録音された賀川豊彦の肉声が流れていました。

賀川豊彦記念 松沢資料館の写真
旧松沢教会の教壇

ここに立って演説していたのでしょう。

* 賀川豊彦と松沢の教会・幼稚園・資料館について *

京王線上北沢駅の南側にはまっすぐ伸びた桜並木の通りがあり、その桜並木の通りを背骨のようにして道が肋骨のように伸びているといった変わった区画をしています。これは関東大震災後に分譲された住宅地の名残で、せたがや百景によると肋骨通りと呼ばれているとか。その分譲住宅地の駅に近い区画に近代的な松沢教会があり、その奥に賀川豊彦記念松沢資料館があります。

賀川豊彦・・・・?知っていますか?正直なところ、人よりも区内を散策をしているかなと思っている私ですが、この地域風景資産を調べていて始めて賀川豊彦という名を知りました。教会、キリスト教・・・あまり興味ないな・・・と思いつつも色々と調べてみると、なんとノーベル平和賞候補になるほど世界的に名が知れた人物だと知り、驚きました。そしてその人物像にとても興味を惹かれました。

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賀川豊彦の生い立ちを見ていくと、1888年7月10日に神戸で生まれ、4歳のときに両親を相次いで病気で亡くし、徳島県鳴門市の父親の実家に引き取られ、ここで少年時代を過ごしています。家は裕福でしたが実子ではないので周囲から冷たい待遇を受けることも多く、孤独な少年時代を過ごしたようです。

旧制徳島中学校に通っている時の事、当時徳島市通町にあった日本基督教会ではアメリカ人宣教師ローガンとマヤスが聖書を使って英語を教えていました。そこに英語を勉強する目的で通い始めたのですが、宣教師の暖かい人柄もあって次第にキリストの教えに惹かれるようになります。そして15歳の冬に洗礼を受けてキリスト教に入信し、生涯に渡って信仰とともに生きることになります。

この旧制徳島中学校時代に賀川は象徴的な事件を起こしています。トルストイの反戦思想に影響を受けた賀川は、日露戦争当時でありながら軍事教練の授業中に持っていた銃を投げ捨てその場に寝転がるといった大胆な軍事教練サボタージュ事件を起こしています。その結果はボコボコにされるといった当時では誰でも想像がつくものでしたが、この時点で権力に流されず確固たる信念をもって行動を起こしていることがうかがえます。

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明治38年には牧師になるために東京にあるキリスト教系の明治学院に進みます。在学中も勉学に熱心で、徳島の新聞にカントの平和論を引用した帝国主義を否定する「世界平和論」という論文を発表しています。19歳になった賀川は夏休みを利用して愛知県豊橋で伝道している最中に倒れます。当時は死の病として恐れられていた肺結核でした。

医者から余命宣告を受けるものの、豊橋で牧師をしていた長尾巻の看護を受けなんとか一命をとりとめるのですが、このとき日々貧しい人の面倒を見ている長尾に感銘を受けます。この後神戸神学校に入りますが、健康状態は思わしくなく休学して1年にわたる療養生活を余儀なくされます。そして病気で苦しんだ末、豊彦は貧しい人々のためにつくす道を選びます。

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21歳になった賀川は1万人もの貧しい人々が暮らしている日本最大のスラム街、神戸の新川に家を借り、貧しい人たちと寝食を共にします。自分の福や金を分け与え神の教えを説いて回るものの、人々は日々の食事にも事欠き、伝染病がはびこり、犯罪も絶えない場所なので活動は困難を伴いました。

それでも徐々に協力者を増やし、活動の規模を大きくし、ボランティア組織「救霊団」を結成します。そして組織的、かつ多角的に救済活動を始めます。活動内容はキリスト教の伝道とともに医療救済、授産事業、養老事業、簡易宿泊、簡易食堂、職業紹介、日曜学校と実践的で多岐に渡っていました。

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スラムで活動し始めて4年後、25歳のときにスラムで出会った芝はると結婚し、二人で救済活動を行います。翌年の1914年にはスラムでの活動に限界を感じプリンストン大学へ留学し、夫人は横浜共立女子神学校へ神学研究のため入学します。アメリカ留学中にはニューヨークで6万人の労働者がデモをしている様子を見て衝撃を受けます。

1916年にはプリンストン大学からB.D.を受け、翌年帰国すると再び神戸のスラムに戻り、キリスト教伝道と救済活動、新たに無料巡回診療を行います。それとともに第一次世界大戦後の不況の真っ直中という現状もあって貧困対策のために労働運動の必要性を感じます。

そして1919年には友愛会関西労働同盟会を結成して理事長となり、関西の労働運動のリーダーシップを執るようになります。また同年に日本基督教会で牧師の資格を得て麹町教会の牧師にもなっています。

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労働運動と併行して労働者の生活安定を目的として消費組合運動も起こしています。1919年に大阪に「共益社」という消費者の組合を作り、翌年には神戸に「灘購買組合」と「神戸購買組合」を設立します。いわゆる生活協同組合、生協の原型で、賀川は現在の生協(COOP)の産みの親でもあります。

翌大正10年には神戸にある三菱と川崎の二つの造船所で大規模な労働争議が起こるのですが、この時に賀川は3万5千人の労働者を率いてデモを行います。しかし失敗に終わり、労働組合幹部との考え方の違いも浮き彫りになり、労働運動から遠ざかります。

同じ年、今度は農民運動に取り組みます。当時の日本の農家のほどんどは小作人で生活苦にあえいでいました。日本農民組合を組織し全国各地に出向いて小作争議を指導しました。後年には農民福音学校も開き、農村の青年たちの教育に力を注いでいます。

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大正12年には関東大震災が起き、世田谷もそうですが、首都圏は多くの被災者を出し未曾有の災害を記録しました。賀川はただちに救援物資や義捐金を集めて被災地に送り、10月には自分自身も最も被害の大きかった両国近くにテントをはり、東京市庁、日本赤十字社、YMCA、日本キリスト教連盟などの関係団体と連絡をとり、被災者救援にあたります。

同じ時期の世田谷で暮らす文豪徳富蘆花は賀川の活躍ぶりに、「この一年間のあなたの仕事は、人間業ではなかった。それは現代の奇蹟であらねばならぬ。私は一度もあなたの働きを目撃しなかった。しかし八種の東京新聞に日々眼を通す私は、あなたの消息を決して見おとさなかった。あまり働きがはげしいので、無論心配もし、祈りもしていた。」と感動と心配の言葉をかけています。蘆花も賀川同様にキリスト教やトルストイに影響を受けた人物です。

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大正末から昭和7年ころにかけて賀川は社会運動よりも宗教活動への比重を増やし、全国を巡ってキリスト教の伝道にも力を注ぎます。日本だけではなく、アメリカやヨーロッパ、中国などにも招待されて講演を行ったので、賀川の名が世界に知られるようになっていきます。

昭和11年の満州事変をきっかけに日中戦争に突入します。少年時代からトルストイの反戦思想を実践している賀川は平和主義や反戦を唱え、政府の監視下に置かれます。アメリカとの関係が悪化していく中、昭和16年には平和使節としてアメリカに渡り、日米両国間の平和を説いて戦争を避ける努力を行うものの、太平洋戦争に突入してしまいます。戦時中は言論の自由が甚しく束縛され、平和集会はもちろん宗教活動も制限を受けることとなります。

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敗戦後、8月19日に賀川はここ松沢教会の講壇から「懺悔の心をこめて戦争の罪悪を反省し、新しい方向は「世界国家」の建設である」と説き、戦争で疲弊した人々の救済と国際的な平和運動に尽力していきます。9月27日には国際平和協会を創設し、11月には日本協同組合同盟を、12月には日本教育者組合を設立し、いずれもその会長となります。

敗戦後の日本にあって西洋文化に精通し、世界的な名声と数々の社会事業を手がけた賀川の手腕は必要で、内閣参与や貴族院議員にも選ばれ、私的社会事業から国家の社会事業へ活動の場をかえます。また民間人として初めてマッカーサーに会った人物とされています。

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1951年には原爆が投下された広島市で世界連邦アジア会議が開かれ、その議長を務め、原子兵器の製造ならびに使用の禁止、人種的差別を撤廃などの採択を決議し、世界に宣言しています。その後も第三回まで世界連邦アジア会議の議長を務め、また世界平和のためのキリスト者国際会議や多くの会議で重要な役割を担う傍ら、本来の布教活動も精力的に行っています。

昭和34年、伝導のため徳島へ向かう途中で倒れます。その後松沢(現上北沢)の自宅で静養を行うものの、翌35年自宅で死去。青山学院大学礼拝堂にて葬儀が行われました。

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賀川豊彦の業績をまとめると、「救貧・ボランティア活動」「労働運動農民運動」「協同組合運動」「執筆活動」「平和運動」「キリスト教伝道」など多岐に渡り、社会への貢献度は計り知れません。そして賀川豊彦の功績を語る上で一番インパクトがあるのが、ノーベル賞の候補者だったことです。ノーベル賞の選考過程や候補者名は非公開となっていますが、50年以上経った後に公開されます。

2009年にスウェーデンのノーベル財団がホームページ上で公開したリストになんと賀川豊彦の名がありました。しかも1947、48にノーベル文学賞候補、1954~56年に平和賞候補と複数のジャンル、複数年にわたって候補になっていたのには驚きます。それだけ海外での評価が高かったことの表れで、当時欧米で最も知名度の高い日本人でした。代表作の「一粒の麦」や「死線を越えて」などの小説は様々な言語に翻訳されて、北欧でも賀川の名はよく知られていたそうです。

ちなみに日本初のノーベル賞は1949年に受賞した湯川秀樹の物理学賞になり、平和賞は1974年の佐藤栄作になります。もし賀川氏が文学賞を受賞していたなら日本初のノーベル賞受賞者となり、平和賞を受賞していても日本初の平和賞になっていました。

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このように立派な功績を残しながら現在ではあまり世間に知られていないのが実際です。なぜ歴史に埋もれてしまったのか。キリスト教徒だったからでしょうか。日本的感覚で言えば宣教師なので宗教活動の延長といった認識をする人もいるかもしれません。このへんは宗教者の役割が日本と欧米では違うので評価の難しいところかもしれません。

また日本社会党を結成しているといった政治色も強く、なかなか他の宗教や政治活動をしている人から名を上げて尊敬しているといったコメントを得られにくいかもしれません。ただキリスト教の伝道以外では社会的に弱い人々の救済に当たっただけではなく、太平洋戦争を回避しようと直前まで努力をした人であり、日本の国民のために様々な努力をし続けたといった尊敬に値する人物であることは間違いありません。

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この賀川豊彦が関東大震災を機に東京に住居を替えた際に暮らしたのが現在の上北沢で、当時の住所表記なら東京府荏原郡松沢村になります。松沢という地名は現在ではありませんが、現在でも松沢病院、松沢小・中学校などに名前が残っているように、明治22年に行われた町村制の施行に伴って上北沢村の全域と赤堤村、松原村、世田ヶ谷村の一部が合併してできた村で、昭和7年に世田谷区が発足した際に消滅しました。

賀川が暮らし始めた当時はまだ松沢村だったので、教会も松沢教会と名づけられ、現在でも健在です。その松沢教会に付属の幼稚園、後年に賀川の活躍や遺品を偲んで建てられた資料館を含めて地域風景資産に選定されています。

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現在ある教会は近代的な教会で、訪れたときは閉まっていたので見学はできませんでしたが、パイプオルガンは海外から寄贈された物で、演奏会もしばしば開かれ、誰でも出席できるそうです。普段は日曜礼拝が行われます。資料館は隣にあり、入場料がかかります。

この資料館で驚くのは昔の教会、昭和6年完成の旧松沢教会礼拝堂がそのまま建物の二階部に保存されていることです。区内で言えばまるで太子堂みたいな感じですが、昭和の面影が残る教会は雰囲気のいいもので、来館者があると賀川豊彦が演説したテープを流してくれるので、教会の座席に座って当時の様子を想像してみるのもいいかもしれません。

その他にも資料館は賀川豊彦の生涯をパネルで展示したものが並べられていたり、書斎の机などの遺品が展示してあったり、著書が展示してあったりと見るべきものはそこそこ多いです。

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なぜ松沢(上北沢)なのか?区民としては気になるのですが、これは・・・。資料館に説明書きがあったのですが、ちゃんと覚えていなく、確か同士が松沢に暮らしていて、そこを拠点にし、礼拝とかを行い、その同士が千歳村に引っ越した後に教会に建て替えたとか何とか・・・違っているかもしれません。

とまあ世田谷に暮らしていたことには違いありませんが、世田谷に深く根を下ろして活動をしていたわけではなく、世田谷に深く関わった訳でもなく、世田谷の誇る偉人というにはちょっと微妙なところです。少年時代を過ごした徳島、そして精力的に活動をした神戸ではふるさとの偉人扱いされていますが、世田谷では平成26年に地域風景資産にようやく選定されるといった温度差があるのはしょうがないことかもしれません。

ただこのせたがや地域風景資産を通じてより多くの人に知ってもらいたい人物であり、東日本大震災をはじめ災害時の被災者支援、高齢化社会でのお年寄りの介護や孤独死問題、地域の人間関係の希薄さが問題となっている今、こういった社会に貢献した人物の行動力や発想に学ぶこともあるのではないでしょうか。

<せたがや地域風景資産 No.3-14、賀川豊彦と松沢の教会・幼稚園・資料館 2015年5月初稿 - 2015年10月改訂>