* 経堂の西洋館と庭について *
経堂の北口にあるすずらん通り商店街を抜けて・・・、というか、この辺りは土地勘がないと自分がどのあたりにいるのかすぐにわからなくなってしまいます。
背骨となるような大きな道がないので仕方なく小さな道を進まなければならないのですが、道は曲がってばかりだし、小さな交差点の連続だしと、しっかりと地図を確認しながら歩かないとなかなか思う場所に行けません。
まるで地域全体が迷路のようです。いや大げさではなく本当の話です。
そんなごちゃごちゃとした地域を歩いていると、かつては忽然とメルヘンチックな建物が現れました。
と、今度は少々大袈裟な表現で書きましたが、少々変わった造りの洋館があり、敷地自体も広い事からかなり目を引く存在でした。
この度、久しぶりにページの手直しを行い、実際に行くのは大変なのでグーグルマップで家から出ずに経堂散策♪・・・と探して見ると、なんと西洋館がなくなっていて、普通の家が建ち並んでいました。
現在では西洋館があった頃の面影が全くない!・・・といった状態です。
この建物は昭和6年に建築したもので、設計に当たってはシェイクスピアの生家を参考にしたそうです。
なんでも建物所有者は近傍の学校と関わりが深く、この建物は欧米のマナー教育の場としても機能してきた歴史があるとか。国際化の先駆け的な存在だったのでしょうか。
少し調べてみると、シェイクスピアの生家というのは現在も実在していて、写真を見る限りだと壁に格子状にある木の柱みたいなデザインが特徴のようです。
シェイクスピアは1564年4月26日生まれで、出生地はイギリスのイングランド地方ストラトフォード・アポン・エイヴォンになります。シェイクスピアの家が特別というわけではなく、この地方の建物はこんな感じの建築様式が多いようです。
この洋館もこの地域の建築様式を取り入れ、シャイクスピアの実家を似せて建築した建物です。
個人が暮らしていたお宅なので、勝手に中に入るわけにはいかなく、ちょこっと外から眺めただけなので、内部やもっと見えない部分にもっとこだわりがあったのかもしれません。
それとタイトルでは庭も含まれていますが、これも外から見た感じでは広い庭があるなといったぐらいしか分かりませんでした。
イギリスの洋館といえば区内では百景に選ばれている静嘉堂文庫も有名でしょうか。あちらは洋風のスクラッチタイルが一面に貼り付けられていて重厚な感じがします。同じイギリスの洋館でも結構雰囲気が違うものですね。
ちなみに昭和初期に発行され「世田谷郷土誌」に経堂のことが書かれていて、
それには「~藁屋の背後に、これはあまりに近代的な文化式住宅を随所にみうける。あまりに皮肉な対照ではある。働いても働いても現在より、よりよい生活はいつ恵まれるかわからぬ農民たち。黒くなって働き、土を相手に終日休みなき人びと。しかも、帰るべきわが家は藁屋のいぶせき内には、大勢の子どもがさわいでいるのだ。そのすぐ鼻先に、これみよがしに文化住宅が建つ。二階建て、ガラスの明るい家、西洋館、ピアノの音、自動車のエンジン。あまりにも贅沢な生活をみせつけられて、いったい、なんと思うであろう。新旧の交差、あまりにも明瞭な対照を目撃せざるをえぬ。過渡期の町、新開の町、なん十年なん百年かの封建を破って垣根の欅を倒し屋根を切り売りする町。なにか大きな暗示を感じないわけにはゆかなかった。~~~」とあります。
この西洋館を特に差しているわけではないのですが、この頃の経堂は小田急線が開通し、次々と最新型の分譲住宅が荒れ地を切り開いて建てられていた時期なので、この建物が建てられた頃の地元の人の素直な感想になるのかもしれません。
今、我々が「ほぉ~変わった建物が残っているな。」、或いは「お金持ちの家は凄いな。」といった感想とは全く違うのが興味深く感じます。
それに建てられた当時は質素に暮らしていた地元の住民にとって大きな不安とあこがれの象徴だった建物が、時が流れて今では町の景観を選ぶ地域風景資産に選定されるというのも何か不思議に感じてしまいます。