世田谷散策記 タイトル
せたがや百景 No.53

成城学園の池

成城6-1(成城学園)

成城学園とともに、成城のまちは発展してきた。大学構内にある池のほとりは若い学生たちの憩いの場となっている。戦前から自由な教育で知られる成城学園の学生たちは、やはり成城のまちの雰囲気に似合っているところがあるようだ。学園裏手の仙川沿いの延びる小道をたどれば、いまは少なくなった川沿いの景観を楽しむ小散歩ができる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

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1、成城と成城学園の歴史

小田急線、成城学園前駅(写真:エンリケさん)
小田急線、成城学園前駅

(*写真:エンリケさん 【イラストAC】

小田急線は昭和になって開通した比較的新しい路線です。世田谷区内には他にも京王線や田園都市線といった都心と郊外を結ぶ路線がありますが、それらと比べても少し遅い開通となりました。

駅と駅との間隔は狭く、区内に11もの駅があります(8.5km 東北沢ー喜多見)。ちなみに田園都市線は6つ(7.5km 池尻大橋ー二子玉川)。京王線は8つ(5.5km 代田橋ー千歳烏山)です。

でも、距離で割ってみると、小田急線は770mごとに駅があるのに対し、京王線は690mごと。京王線の方が駅の間隔が短いのですね。知りませんでした。

小田急線の駅名には、その土地の地名が多く使われていることはご存知でしょうか。駅や線路の設置に当たって地主や地域の協力があった場所では、その地域名を優先して付けたためです。

そういった小田急線の駅名の中にあって、「成城学園前」という駅名だけが異彩を放っているというか、かなり違和感を感じる存在です。なぜ「成城」にしなかったのか。成城の方が短くて呼びやすいし、格好いいではないか。なんて思う人もいるでしょう。

しかし、これは成城の歴史を紐解いていくと、成城学園前駅と名付けられているのも納得するはずです。

成城学園の正門
成城学園の正門

銀杏並木の正面にあります。入り口には立派な松の木がそびえています。

小田急線が開通し、成城学園前駅ができたのが、昭和2年のことです。当時の駅付近の住所は成城ではなく、北多摩郡砧村大字喜多見字東之原でした。

住所が示す通り、成城付近は喜多見の東部分にあるとても寂れた土地で、大正時代中ごろの成城(喜多見東之原)は、なんと農家が七軒しかなく、田畑と雑木林ばかりだったそうです。

小田急線が開通すると知った成城学園は、この土地を学園用に7万9千平方メートルを購入し、更には付近の6万6千平方メートルの土地を購入し、それを住宅地として整地して売りに出し、学園建設用の費用に充てました。

この計画は武蔵野にふさわしい町、とりわけ学園都市の雰囲気を目指して造られていき、最終的には学園用が33万平方メートル、住宅地に122万1千平方メートルにまで拡大しました。これが成城に住宅地が形成されるきっかけとなります。

面白話では、最初は高井戸の付近や烏山に候補地を物色していたようです。ただ、値段等の折り合いがつかなく、僅かな地価の差で現在地に決定したと言われています。

せたがや界隈賞と百景の案内板
せたがや界隈賞と百景の案内板

とても変わった形で、存在感のある案内板でした。

大正14年に成城学園が引っ越してくると、町づくりが活性化していき、昭和2年には小田急線が開通します。開通時には、40戸の住宅が建っていたそうです。これが今や全国的に有名となった成城住宅の始まりです。

その後、昭和5年に住所が砧村喜多見成城と変わります。昭和9年の調査によると、昭和2年の約10倍となる437世帯が暮らしていたので、順調に町が発展していったようです。

昭和11年になると砧村が東京市に編入される事となり、その時に世田谷区に組み込まれ、住所が世田谷区成城となり、この時に喜多見から独立し、正式な成城の町が誕生しました。もちろん、成城という町名は成城学園や駅名から付けられました。

といったわけで、町の歴史から考えるに、昭和2年の小田急線開通の際には、この地には成城学園しかなかったことになります。

住所から駅名を付けるにしても、まだ成城の名はなく、喜多見東之原。成城学園前駅の次の駅が喜多見なので、喜多見の名を付けるわけにもいかず、鉄道の開設にあたって成城学園から多くの便宜もあったことでしょうから、バス停のように成城学園前になってしまったのではないでしょうか。

ところで、成城ってどういう意味なの?成城=高級住宅地といったインパクトが強すぎて、その意味を考えたことがありませんでした。

ちょっと気になって学園のサイトを覗いてみると、ちゃんと書いてありました。そのまま引用すると、<「成城」という学園名は、中国の古典「詩経」の大雅の一節にある「哲夫成城」(哲夫城を成す)から取られています。哲夫とは哲人、哲士とも言われ「道理をわきまえ、見識の優れた人」のことです。「哲夫は城(くに)を形作るものである」という言葉から学園の名前が「成城」と名付けられました。>との事です。

成城学園の校門
成城学園の校門

草がこんもりとしている変わった門でした。成城の町の生垣に合わせたのでしょうか。

成城といえば、今や言わずと知れた高級住宅地です。全国にその名をとどろかせています。そんな成城の玄関口である成城学園前駅から近い一等地に、私立の学校法人、成城学園、成城大学といった敷地がドカッとあるのも、成城学園ができてから住宅地が整備されていったからです。

区内では、明治薬科大学などが郊外へ移転し、隣の目黒区では都立大学が移転していくなど、近年、広い敷地を求めて郊外へ大学が移転するケースが珍しくないのに、よくこんないい場所に敷地を確保できて、維持できているな・・・というのが正直なところかもしれません。

成城学園側としても、駅名だけならともかく、成城学園ができて成城の町ができ、成城の町名も成城学園からきているといった歴史があるので、今更他へ移転しにくい事でしょう。成城学園あっての成城になりますから。とはいえ、仮に移転することになっても、土地はとんでもなく高く売れそうなので、その費用には困らなさそうです・・・。

創設者、澤柳政太郎氏の像
創設者、澤柳政太郎氏の像

どこの学校にもこういった胸像はありますね・・・

成城学園の歴史を少し紐解いてみると、大正6年(1917年)、日本教育界の重鎮といわれる澤柳政太郎氏が実験的教育の場として創った成城小学校から始まります。

この成城小学校の1期生が卒業を迎えるにあたって、教育の一貫を願う保護者の要望があり、大正11年(1922年)、主事であった小原國芳氏(のちの玉川学園創立者)の努力によって成城第二中学校が開設され、大正14年(1925年)に現在の場所に移転してきました。

大正15年(1926年)には、旧制7年制の成城高等学校が開設され、第二中学校はその尋常科(4年制)に組み込まれた。翌年には5年制の成城高等女学校が開設され、総合学園としての形が整いました。

戦後になると、学制改革によって男女共学の新制成城学園中学校、成城学園高等学校が設立され、さらには昭和25年(1950年)には、成城大学が創設されました。そして、昭和26年(1951年)に学校法人成城学園となりました。

ちなみに2009年5月時の総学生数は8246名(内女生徒が4216名)との事で、幼稚園が120名、初等科(小学校)が679名、中学校723、高校が845(中高一貫)、大学が5746名となっています。

やはり大学生の生徒数が断トツですね。とはいえ、他の大学と比べると少なく、敷地の広さなどからもこじんまりとした学校といった印象でしょうか。

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2、成城学園の池

成城学園の池
成城学園の池(2009年)

止水なので、池は濁っています。

百景に登場する成城学園の池なのですが、正門や校舎のある高台ではなく、仙川沿いの崖下にあります。仙川のすぐそばにあるので、敷地外の仙川沿いに設けられている遊歩道からも見ることができます。

結構、大きな池だし、崖下の立地だし、仙川がすぐそばだしと、元々ここにあった仙川の水源の一つなんだろう。何のためらいもなくそう思ったのですが、学校などの解説を読むと、そうではありませんでした。

なんでもグラウンドを整備する際に掘り下げたら、水脈というか、すぐ横に仙川が流れているので、地層から水が入ってきて、そのまま池にしてしまったそうです。

成城学園創立者、澤柳政太郎は4つの教育方針、「教育四綱領」を提唱しました。その一つが「自然と親しむ教育」で、これを実践するために池がある方が都合がよかったようです。

1940年代後半の成城付近の航空写真(国土地理院)
1940年代後半(戦後)の成城

国土地理院地図を書き込んで使用

人工的に造ったにしては、けっこう広い池です。保護者や生徒が手伝って造ったという事らしいですが、さぞ大変だたでしょう。とはいえ、池を整備した当時は、仙川と池が同じような高さだったので、水を引いたりするの簡単だったようです。

しかし、後に仙川の大治水工事が行われ、川は深く掘り下げられ、川岸はコンクリートで固められたので、仙川からは完全に独立してしまいました。現在では止水環境、いわゆる溜池のような状態になっています。

成城学園の池 中の島
中の島

池の中に島があります。

この池の特徴は、池の真ん中には島がある事です。学校はこの池を成城池と名付けていますが、このユニークな形状から、学生達の間ではドーナツ池と呼ばれているようです。

島に渡ってみると、ベンチがくつろぎやすいように設置してあり、雰囲気のいい空間となっていました。お洒落な感じの大学キャンパス内にある池といったところでしょうか。

夏休みに訪れたので誰もいなかったのですが、きっと普段は生徒が昼食の弁当を広げたり、楽器の練習をしたり、おしゃべりをしたりしているのでしょう。そんな図がすぐに頭に浮かんできます。

学校の説明を読むと、初等学校の子どもたちがザリガニ釣りをしたり、茶道部が野点に利用したりもしているようです。

成城学園の池 中の島の藤棚とベンチ
中の島の藤棚とベンチ

島の中は癒しの空間となっていました。

ただ、並べてあるベンチはかなり老朽化が進んでいて、座ったら壊れそうなところが微妙なところ(改修工事前)。更には池の水に目を向けると、かなり濁っていました。止水なので、水の入れ替わりがないので、これはしょうがないといったところでしょう。

あとは蚊の多さに辟易しました。ほんと、凄まじい数で、10秒も静止していられないほどでした。きっと普段餌にしている学生が夏休みでいないので、飢えていたに違いありません(笑)。おかげで何カ所か刺されてしまいました。

見学に関してはよくわかりませんが、正門のところにいる守衛さんに聞いてみてください。2009年の夏休みは比較的自由に入れましたが、今はどうなのかわかりません。

或いは、学園祭などの行事に合わせて訪れてみるのもいいかと思います。むしろそのほうが色々と楽しめそうです。

追記:2012年に改修工事が行われたようです。池底の堆積物を除去し、底に防水シートを敷いたり、周辺樹木を刈り込みが行われ、中の島に関しても、護岸が整えられ、石敷きの浜辺が新設され、ベンチなども新しくなったそうです。

3、感想など

成城学園の池 木々に囲まれた池
木々に囲まれた池

木々に囲まれた深い緑の池です。ワニが出てきそうな雰囲気でした・・・。

成城学園が学園都市をイメージして造成したのが成城の住宅地です。その後、東宝撮影所ができたこともあり、芸能人が多く暮らす町となり、今では人気の高級住宅地として、その名が世間に知れ渡っています。

でも、学園正門前のイチョウ並木や学校周辺、多くの学生が利用する駅の雰囲気は、自由な学園都市だなと感じる部分もあります。この池に関しても、そういった自由な発想で出来上がったといった感じで、好感が持てます。

しかし、現状は止水となってしまったので、池の水は濁り、蚊が多く、池の周辺に緑が多いのあって、まるで南国の池といった感じでした。池の周りにワニなどのオブジェを置き、ボートで池を一周すればプチ秘境体験ができそうなぐらいです。

天下に名が轟く高級住宅地成城で、ジャングル秘境体験・・・。華やかな成城の町を歩いた後にこの池に来ると、本当にそういった気分になります(改修工事前)。ただし、夏訪れる際には虫よけは忘れないように・・・。

せたがや百景 No.53
成城学園の池
2025年5月改訂 - 風の旅人
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・地図・アクセス等

・住所成城6丁目1
・アクセス最寄り駅は小田急線成城学園前駅。学園内の見学は守衛に聞いてみてください。
・関連リンク成城学園(学校公式サイト)
・備考見学に関しては正門の受付で尋ねてみて下さい。
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