旧・新町住宅地の桜並木
深沢7・8丁目、桜新町1丁目1913年(大正2年)に分譲が始まった「新町」住宅地は、Y字型の骨格道路の両側に合計千余本のソメイヨシノが植えられました。後に「桜新町」と呼ばれるようになりました。(紹介文の引用)
1、桜新町と旧・新町住宅地

旧新町住宅地の一画にあります。原作に近いパネルが置いてあります。
桜新町といえば、サザエさんの町として知られています。長谷川町子美術館があったり、駅前商店街にサザエさんの像が置かれたり、商店街の店にパネルが設置されていたり、秋にはサザエさんの絵が描かれたネブタが運行されたりと、町全体がサザエさん一色となっています。
桜新町がサザエさんの町となっているのは、サザエさんの生みの親である長谷川町子氏が暮らした町であり、サザエさんに描かれている世界観に桜新町での生活体験が多く含まれているからです。
商店街の様子は、アニメと比べると全然違うように見えますが、人情味ある人間模様は今なお健在で、商店街のイベントの様子をみていると、とても地域や子供を大切にしているのを感じます。
長谷川町子氏には、家族漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えたとして、1992年に国民栄誉賞が授与されました。世田谷出身ではないものの、世田谷で根を下ろし、世田谷で活躍した長谷川町子氏は、世田谷住民が胸を張って誇れる人物の一人ということができます。

町の至るところにサザエさんがいます。
また、桜新町は学生が多い町でもあります。周辺には駒沢大学付属高校、戸坂女子高校・中学校、都立桜町高校、都立深沢高校、都立園芸高校、日本体育大学、その他幾つかの専門学校もあり、生徒が個々の交通事情に合わせて桜新町の駅を利用しています。
渋谷から田園都市線に乗る場合、桜新町駅と次の用賀駅で値段が結構違うし、桜新町で急行の通過待ちがあるしと、実際は用賀駅の方が近くても桜新町を利用する生徒も多いようです。
桜新町駅界隈はサザエさんに登場するような古くからの人情味ある商店街でありながら、若者向けのカジュアルな部分もあり、バランスのいい商店街になっています。

*国土地理院地図を書き込んで使用
そんなサザエさん精神が息づく商店街、通称サザエさん通りを駅から南に向かうと、国道246号の少し手前の交番で道がY字型に分かれています。
この二つに分かれた道は国道246号を越えると平行に続いていて、その道沿いには桜並木が続いています。
このY字の交差点から続いている桜並木が印象的な区画は、明治45年(1912年)から大正2年にかけて整備された「新町分譲地」の名残りになります。

信託が開発した住宅としては最初になるようです。
この分譲地は、関東で最初なのか、東京で最初なのか、日本で最初なのか、記述されている文献によって違いますが、日本で最初の分譲住宅地として知られているのは、明治43年(1910年)に大阪の箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が開発した池田の室町分譲住宅地になるようです。
順位があいまいなのは、行政、鉄道会社、民間のどこが開発したのか、どういった階級の人を対象にしているか、近郊なのか、郊外なのか、鉄道の沿線沿いなのか、地方の避暑地的な分譲地なのか・・・などで区別されるようで、文献によって何番目という言い方が微妙に食い違っているようです。

この交番の所に住宅地への入り口がありました。
交番のあるY字の交差点のところにはかつては分譲地に入るゲートがありました。その名残というか、記念というか、交番の横の方に名残の石碑が設置されています。
石碑に書かれているのは「信託住宅発祥の地」とのことなので、ここは信託が分譲した日本最初の住宅地となるようです。

*国土地理院地図を書き込んで使用
この新町分譲地を開発したのは、玉川電気鉄道の株主だった東京信託(現日本不動産)です。明治45年(1912年)から、山林だった駒沢村深沢と玉川村下野毛飛地(現深沢7・8丁目と桜新町1丁目の南半分)を取得し、鉄道沿線型、郊外型の高級分譲住宅地として整備しました。
関東大震災以前の東京の郊外住宅地というのは、今でいう会社勤めの人が住むというよりも、金持ちの別荘的な家といった使われ方をされていました。
週末にゴルフを楽しんだり、都内の喧騒や埃っぽさを離れて静養や余暇を過ごす為に、あるいはステータスのために別荘を建てるというのが、当時の流行だったそうです。
当時は現在の駒沢公園や等々力渓谷にゴルフ場があり、歓楽街のある二子玉川では多摩川で川遊びをしたりアユ料理を食べられたりと、世田谷は郊外の別荘地として人気があったのです。
特に見晴らしのいい国分寺崖線付近は人気で、政財界の要人の別荘が並んでいました。

屋敷の庭を整備した緑地です。湧水を利用した池もあります。
桜新町なら比較的都心に近く、通勤にまあ便利な立地と思ってしまいますが、それは地下に電車が走るようになってからです。
大正や昭和初期の鉄道は道路を走る路面電車で、雨量が多いとすぐ冠水して運行できなくなってしまい、郊外から都心に電車で通うというのはあまり一般的ではなかったようです。
実際、戦前の桜新町の駅周辺には、三宿駐屯地などの兵隊さんが多く住んでいたという話です。

旧新町住宅地にある遊水地です。
新町分譲地に話を戻すと、現在の桜新町駅の南側、桜新町1丁目から深沢7・8丁目にかけての地域に造成されました。ちょうど呑川西側の高台にあたる部分です。
住宅地は高台に整備されましたが、この付近は呑川に流れ込む湧水が多く、ちょっとした渓谷っぽい雰囲気だったようです。
自然の山林と湧水を利用して良質のタケノコを生産していて、特に呑川付近で取れる深沢産のタケノコは市場でも高値で取引されたとか。そんなタケノコの産地にできたのがこの新町住宅街ということになります。

とても凝った造りをしている茶室です。
現在でも当時の面白い建物が残っていて、深沢高校には元わかもと製薬社長長尾鉄弥氏の広壮な京風の邸宅で使われていた茶室が残されています。
この茶室は離れとして使われていた建物ですが、なんと建物が崖にせり出して建てられています。
地上階の約半分が列柱により支えられた懸造りで造られていて、清水の舞台ならず、呑川の舞台。というのは大袈裟ですが、当時の人が呑川の渓谷的な風景を楽しんでいたことを感じられる貴重な建物となっています。
この建物は今では清明亭と命名されていて、時々茶道部などによってお茶会が催されたり、一般に公開されたりしています。(詳細は地域風景資産no.1-12)

*国土地理院地図を書き込んで使用
関東大震災を機に郊外の安全性が認識され、郊外の宅地開発が急ピッチに進んでいきました。そして交通網の整備が進み、郊外から都心へ通勤する人も増えていきました。
そういった時代の流れの中で、新町住宅地も別荘地から徐々に本宅として利用する人が増え、閑静な高級住宅地に変化していきました。
ただ、その後の国道246号のバイパス化で新町住宅地は分断されてしまいます。桜新町と用賀の駅前を通らないように新町から二子玉川にかけてバイパスが行われ、新町住宅地をぶった切るように幹線道路ができてしまいました。
更には、東京オリンピック開催を機に更なる道幅の拡張がされ、その後の高度経済成長期には、国道の頭上に首都高が設置されることになります。

バス通りになっているので桜の根や枝が傷みやすいです。
交通量の多い国道がそばに出来てしまうと、高級住宅地にふさわしくない煩雑な環境となってしまいます。この時点で新町住宅地というブランドは消滅してしまいました。
現在では、住宅地の2つのメイン通りはバス通りになっているうえに、駒沢通りと246号の抜け道で車の通行が多く、更には学生の通学路でもありと、高級住宅地ではあるものの、閑静な高級住宅地といった趣きはあまりありません。
実際、新町分譲地が造成された頃からこの地で暮らしている住民はほとんどいないという話です。とは言うものの、一般人からすると桜並木があって、雰囲気が良くて、敷地の大きな家が多くて、憧れるような高級住宅地には変わりないですが・・・。
2、旧・新町住宅地の桜並木

桜並木と昔の様子が写真入りで解説してあります。
この新町分譲地を有名にしているのは、分譲地の道沿いに桜が植えられていて、桜並木のある住宅地になっていることです。
ここに並んでいる桜は、分譲地を開発したときの記念というか、話題性を高めるため、道の両側に4、5m間隔で千数百本植えられました。ただ、当時の写真を見ると3mぐらいの間隔で植えられているように見えてしまいます。
本数に関しても、当時を知る人の話では、実際は千本もなく、8~9百本ぐらいだったそうです。とはいえ、それでも凄い数で、その規模の大きさに驚いてしまいます。
当然、これだけの桜並木が話題ならないはずもなく、桜の名所として広く知れ渡り、桜のある新町ということから桜新町と呼ばれるようになっていきます。
昭和7年には、玉川電気鉄道(後の東急玉川線)の駅名が新町から桜新町電停に改称され、後年の住所変更の際に駅付近の住所が桜新町になりました。

車道は一方通行になっています。意外とアップダウンのある道です。

長い塀が続くお屋敷も多いです。
ずらっと並んだ桜が壮観だった桜並木でしたが、太平洋戦争前には電線施設が行われ、電柱が建てられる際に一本おきに伐採されました。
木が邪魔だったのは確かですが、桜が想像以上に大きくなり、ちょっと間隔が狭すぎたことに気が付いた・・・、というのもあるかもしれません。
その後、区画整理などで脇の道にも植えられたりもしましたが、広い敷地が分割されて分譲されると、車の出し入れに邪魔となるので伐採されたり、枯れてしまったりと、徐々に桜の本数が減ってきています。

国道246付近です。この辺りは新興住宅地といった感じです。

東西に延びる路地にも桜並木があります。
今では桜並木のある住宅地は珍しくありませんが、おそらくここの桜並木は、日本で最初の大規模に住宅地に植樹された桜並木となるはずです。
ソメイヨシノが誕生したのが、江戸から明治初期のころ。新町住宅地を含め、区画整備した住宅地が登場するのが、明治の終わり頃。新しいもの同士の組み合わせになります。
それに当時は桜、特に園芸品種として改良されたソメイヨシノは過酷な生育環境となる街路樹には向かないとされていました。
その常識を覆すような新しい試みをしたのが、ここ新町住宅地ということになり、この後に作られた上北沢の住宅地を始め、成城などの住宅地に広がっていくことになります。

カーブミラーが木の陰にならないように建てられています。

通学路になっているので学生も多いです。
ただ、一時期は見映えがいいとか、高級感があるとかで桜を植えることが流行りましたが、今では桜を植える住宅地はほとんどありません。
月日が経ってみると、やはり様々な面でソメイヨシノは街路樹に不向きというのが分かってきたからです。
まず何と言っても街路樹にするにはサイズが大きすぎます。全体のサイズ、幹の太さは言うまでもないのですが、一番厄介なのは横方向に太い枝が伸びることです。
余程広い場所でないと桜の見栄えが悪いです。何より枝が通行の邪魔になり、定期的に枝を切ったりと、剪定などの管理が大変です。
根の張りがとても強いのも厄介で、根の部分のアスファルトや歩道のブロックなどが盛り上がってしまうこともあります。

気の毒なほど枝が落とされている木も多いです。
それから、これは最初から言われていたことですが、園芸品種として改良されたので、過酷な生育環境には不向きで、車の通行の邪魔になるからと、枝を大きく伐採したり、根を車に踏み続けられたりすると、とたんに樹勢が衰えます。
木の寿命が短いというのも厄介で、ソメイヨシノの場合はすべてクローンで作られているので、同じタイミングで花が咲くのはいいのですが、同じタイミングで一気に寿命を迎えてしまうといったこともあります。
現在では枯れた桜を植え替えるにしても、ソメイヨシノではなく、より街路樹に向いた品種の桜を植えています。

さすがに月日が経ったので、初期に植えられた木は少なくなってきて、新しく植えた若木が増えてきました。
木や樹勢が衰えて何とか状態を維持している木やコモを撒かれた治療中の木も多く、そう遠くない先に一気に代替わりとなりそうな感じです。
3、感想など

大きくなるまでこの場で見守り続けてくれるといいですね。
サザエさんの町、そして桜並木のある町と知られる桜新町。今では駅前の八重桜並木の方がよく知られていますが、名前の由来は、日本で一番最初に桜を街路樹にした旧新町住宅地の桜並木になります。
「かつて雨が降っても傘がいらない」と言われるほど密に桜並木が続いていたというので、さぞ凄い光景だったに違いありませんが、現在では、桜の高齢化が進み、痛々しい姿で咲いている木も多い状態です。都市化の進んだ都会で桜を街路樹にするというのは無理があるな・・・などと、散策しながら思ってしまいます。
とはいえ、新しい試みは失敗することもありますが、果敢に挑戦する姿勢は大事です。傍から見たら失敗でも、自分の近くに存在するものは、愛おしく感じるものです。手間がかかる子ほど可愛い・・・といったように、ここで暮らす住民にとっては、桜で苦労をすることもあるけど、なくてはならない存在になっているのではないでしょうか。
せたがや地域風景資産 #2-10旧・新町住宅地の桜並木 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 深沢7・8丁目、桜新町1丁目界隈 |
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・アクセス | 最寄り駅は田園都市線桜新町駅 |
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