* 長島大榎公園について *

公園内には色々と石碑が並んでいます。
世田谷区の地図を見ていて興味深く感じるのが、同じ駅でも駅を挟んで片方だけは区画が整理されていたり、同じ町域でも2丁目と3丁目で区画の様子が全く違ったりすることです。
区画整理には土地の持ち主の損得が関わってくる上に、膨大な費用がかかります。
玉川村のように村をあげて大規模に行うところもあれば、地主が中心となって小規模に行うところ、とりあえず水路だけは真っ直ぐにしたところなど地域によってその方法や規模は様々です。
総じてお金をかけて行ったところほど区画がきれいな四角形になっていて、区画内の道の幅も広くなっています。
このタイトルの長島大榎公園がある経堂5丁目付近は、昭和37年と比較的近年に経堂区画整理事業によって区画整理が行われました。
だいぶん土地が住宅で埋まってからの耕地整理なので、さすがにきれいな碁盤の目状にという訳にはいかず、それなりに整っているといった感じです。
この事業はこの付近の地主であった長島氏が中心となって行われ、その際に昭和28年から6年間世田谷区長を務めた長島壮行氏の提供で長島大榎公園が開園されることとなりました。

上部がありませんが、とても存在感があります。
長島大榎公園の名の由来は、土地の提供者である長島氏と、この場所にあった榎の巨木にちなんでいます。
近年では命名権で公園などにスポンサーの名前がつけられたりもしますが、昭和の時代に一般の人の名前を区立公園に使っているのは、ちょっと珍しく感じます。
最近では相続等で区に公園用地として寄付した場合に土地提供者の名前が付けられることもあるので、そういった公園の先駆け的な存在となるでしょうか。

触ってみるまでレプリカだと気がつきませんでした。
榎の巨木はその当時で樹齢400年以上、幹周りは五抱えほどもあったと言われています。
しかしながら昭和44年の台風で真ん中から裂けてしまい、その後徐々に腐って枯れてしまったそうです。
現在、園内に上部がない中途半端な状態である木がその名残り・・・、なのですが、実はこれレプリカ(複製品)です。
根元部分をレプリカとして残し、公園に大きな木があったという雰囲気を再現しているのですが、なかなか良くできていて最初は気が付きませんでした。
触ってみると・・・異常に硬かったです。笑

道標や供養塔が並んでいます。
この公園内には耕地整理の記念碑を中心に多くの石碑や石仏が置かれています。
これらの碑は恐らく耕地整理の際などに行き場がなくなったものがここに置かれたのだと思いますが、中でも石橋供養塔はいい感じで風化していて、公園にあるのにはもったいないほど趣きのある存在となっています。
道標はかつての経堂村からどこへ道が通じていたとか、どこへの道が重要だったとか、昔の様子を伺うことができる貴重な存在です。

長島風景フェスティバルで掲示されていました。
この界隈は緑が多く、地域の人々にとってはかつて子どもの頃にチャンバラなどをして遊んだ思い出の森になるそうです。
今の子ども達にとっても同じように大人になっても心に残る大切な場所になってほしいという思いから結成されたのが「長島風景の会」で、「自然の中で子どもの喚声」「子供と大人の交流」をテーマとして活動を行っています。

終了間際だったのでほとんど人がいませんでした・・・。
長島風景の会は花壇など手入れなどの公園の手入れだけではなく、小規模ながらイベントが定期的に行われています。
子供たちに昔の遊びを知ってもらおうといったような感じの小規模なイベントが中心ですが、年に2回行われる長島風景フェスティバルでは地域の団体が協力し、公園に出店や遊びのブースが並びます。
訪れた時はもう終了間際で片付けがぼちぼち始まっている状態だったので、人がいませんでしたが、昼間は多くの子供たちで賑わうそうです。