* 瀬田の行善寺について *
瀬田と言えば交通の大動脈である国道246号と環八(環状8号線)が交わる瀬田交差点が一番知られているでしょうか。
瀬田の交差点では国道246号はアンダーパス化されているからいいものの、環八の方は渋滞が激しく、よく交通情報で、「瀬田の交差点を先頭に3キロ渋滞中」などと聞くことが多いです。
渋滞の原因は交通の集中に拠るものですが、渋滞を増長させている要因の一つに、この交差点では国道246号と環八だけではなく、用賀からの道も交わっている事があげられます。
この用賀からの道は旧道で、かつての大山道になります。大山道は用賀を過ぎると行善寺坂ルート(南大山道)と慈眼寺坂ルート(北大山道)に分かれていました。ちょうど延命地蔵がある場所です。
南大山道の方は瀬田の交差点を斜めに突っ切るような形で交差し、交差点の近くにある交番から脇道にそれていきます。そして崖線の本格的な下り坂が始まる手前、二子玉川からなら坂を上りきった場所に行善寺があります。
行善寺について書く前に寺のある瀬田についてちょっと触れておきたいと思います。瀬田の歴史は古く、地名は奈良時代から平安初期に書かれた倭名抄に多磨郡勢多郷と記されているほどです。
しかもその頃は昭和になって分離した二子玉川や玉川台はもちろん、用賀などを含むもっと広い地域を示していたのではと考えられています。
このように瀬田という土地はかつては大きな村域を持つ村でした。瀬田が発展した理由は鎌倉時代に鎌倉を中心とした鎌倉道が整備され、その主要な3本の道の真ん中の「中の道」が二子を通っていたとされている事が上げられます。
室町時代になると世田谷城に拠点を持つ吉良氏の支配下になります。吉良氏の世田谷統治の後半は北条氏に従属するような形で、永禄年間(1558~69年)には北条氏の直臣長崎伊予守重光とその子重高がこの瀬田の地を賜って居を移し、瀬田城を築いたとされています。
行善寺の近く、ゴルフ練習場の付近がその跡地とされていますが、昔の遺構は全く残っていません。同じ時期にやってきた北条氏の家臣、南条氏が深沢に造った兎々呂城が簡単な土塁で囲った城だった事を考えると、ここも小規模な簡易砦だったと思われます。
この北条家臣の長崎伊予守重光が行善寺の開基となります。この地に移ってくる際に小田原にあった菩提寺である道栄寺から先祖の位牌を携えてやってきて、それを祀った寺が行善寺の前身となるようです。
寺の名前はそのまま道栄寺にしたのか、最初っから行善寺にしたのか分かりませんが、開山は法蓮社印誉上人伝公和尚となります。
長崎伊予守重光の法名が行善である事から考えるに、その子重高が父の死後に中興開基を行い、寺の名前も「行善寺」にしたというのが一番しっくりするような気がします。
長崎家は北条氏の滅亡後はそのまま瀬田に土着し、名主として帰農します。瀬田玉川神社なども長崎家の勧請で、行善寺も長崎家の菩提寺としてずっと守られてきました。岡本民家園には長崎家の藁葺きの家屋が保存展示されています。
この行善寺のある場所は、中世には瀬田城の城郭の一部をなしていたのではと推測され、それ以前では弥生時代に環濠集落があった事で知られています。境内から環濠の跡と多くの土器が見つかっています。
すぐ北側にあるマンション(パークコート)の建設の際にも古墳時代前期の村跡が見つかっているので、古くから見晴らしいのいい立地ゆえに人々の生活の場になっていたようです。
現在の正式名は獅子山西光院行善寺で、浄土宗の寺となります。あまり往来のない道沿いにひっそりとあるといった感じです。開基当時は坂の下にあり、寛永の初め頃、度重なる多摩川の洪水により坂の上に移築されたという話も残っています。
木製の味のある山門は道沿いにはなく、近代的な門から境内に入ると境内の真ん中に古い門があるという配置となっています。
この山門の横には三つ叉の立派なヒノキがあります。保存樹に指定され、世田谷銘木百選の番外編にその珍しい形状から三叉ヒノキとして選定されています。
山門の奥に本堂があるのですが、近代的な建物です。行善寺の本堂は明治19年に火災で多くの寺宝とともに焼失してしまったそうです。その後木造で再建されたものの、昭和39年に現代風のデザインで鉄筋コンクリート造りに改めて建立されました。客殿などもやはり近代的な建物となっています。
境内には猫塚という変わった塚があります。何ゆえにここに猫塚が・・・、住職が猫好きなのかな。実はここにも招き猫伝説があったりして・・・。いやいや二子玉のセレブが飼いネコのために寄贈したのかな・・・。一番最初に見たときはそんなことを想像したのですが、全然違いました。
多摩川は水が清く景色のいいために江戸から昭和の初めにかけて人々の格好の行楽地となっていました。川沿いには多くの料亭が建ち並び、また遊郭などもあって、世田谷随一の歓楽街を形成していたようです。特に鮎漁の季節には料亭や屋形船でとれたての鮎を食べて楽しんだみたいです。
当然歓楽街では芸者遊びに欠かせない三味線が多く必要でした。三味線はご存知の通り猫の皮を張ってつくる弦楽器です。多くの猫が三味線の材料となるために殺され、その霊を祀ったものがこの猫塚です。
もともとは川沿いの歓楽街にあったようですが、周辺の住宅地化のおりに行善寺の境内に移されたそうです。
その他、入ってすぐの所に観音堂があり、如意輪観音が祀られています。時間帯によっては窓からの光がスポットライトのようになり、とても幻想的です。
本堂の前には大石をくりぬいた水盤へ水を注ぐ観音様がいて、墓地にも観音様の姿があるなど、多くの観音様が境内に祀られていました。
* 行善寺八景 *
行善寺は街道である大山道に面していて、しかも眺めのいい国分寺崖線の先端に位置していることから、風光明媚というと大袈裟ですが、境内からの眺望は江戸時代に行善寺八景として知られていました。
なんでも徳川将軍家も遊覧の際にしばしば立ち寄ったそうです。例えば天保3年に徳川家慶将軍が玉川鮎御成の際に長崎家で休息していますが、こういった折に行善寺にも立ち寄ったのかもしれません。
その他、多くの文人墨客が訪れたという話です。
本殿の脇に行善寺八景の石柱が立ち、現在でも本殿の裏からその眺望を眺めることができます。
行善寺八景というのは、江戸時代後期の儒学者であり、歌人でもある成島司直の「玉川遊記」に書かれている「瀬田黄稲」「岡本紅葉」「大蔵夜雨」「登戸晩鐘」「富士晴雪」「川辺夕烟」「吉沢暁月」「二子帰帆」の八つです。
最初訪れた時はよく分からずに帰ったのですが、後日改めて訪れて確認してみましたが、水田はおろか、多摩川さえほとんど見えない状態でした。
目の前には玉川高島屋がドンとあり、辺り一面が商業地と住宅地で建物だらけなのです。
冬の晴れた朝など雪をかぶった富士山は今でもきれいに見えますが、風景として考えるなら国道246号の高架橋や対岸のマンションがちょっと邪魔をしていて絶景とは言えません。
もしかしたら秋には岡本の紅葉はなんとか見えるのかな?と期待して秋に訪れてみたものの、やはりこれも建物が邪魔をしているのと、温暖化の影響なのか、なんか紅葉しているなといった感じでいまいちパッとしませんでした(71、岡本もみじが丘参照)。
残念ながら行善寺八景は完全に過去の風景となってしまったようです。
でもそんなに悪い風景ではないので、江戸時代に思いを馳せて眺めてみるのも悪くないかと思います。
* 行善寺坂と大山道 *
用賀駅前の旧玉川通りを瀬田の交差点方向へ向かうと、途中に延命地蔵堂があります。当時ここで大山道は行善寺ルート(南大山道)と慈願寺ルート(北大山道)と別れていました。
なぜ二つに分かれていたのかはいまいちよく分かっていないので、ここでは触れないことにして、この行善寺の前を通るのが行善寺ルートで、行善寺の前から下っていく坂が行善寺坂と呼ばれています。
現在もこの坂は昔ながらの細い道なので、下りのみの一方通行となっています。坂の途中で緩やかに湾曲し、見通しが悪く、昔ながらの坂道といった感じを受けました。
それと坂の両脇にあるお宅の生垣がきれいなこと。坂の途中の斜面なので、手入れも普通の住宅以上に大変でしょうが、こういったお宅のおかげで坂全体がとってもいい雰囲気に思えます。
そして坂の中ほどに行火坂(あんかざか)の石柱が建てられています。微妙な位置に据えられていえ、これは二通りの解釈があります。
一つ目の解釈は行善寺坂の別称という解釈で、もう一つはこの石柱が立てられている場所から登っていく短い坂のことを指しているという解釈です。
どちらにせよ、勾配が急なために上るだけで体が熱くなるので「あんか坂」と名が付いたようです。ちなみに「行火」とは炭火を入れて手足を暖める小ぶりな暖房具のことです。
その他、行善寺よりも少し瀬田交差点側には瀬田夕日坂といった面白い坂もありました。こういう小道っぽい坂は趣きがあっていいですね。
行善寺坂だけではなく、他の坂も一緒に散策してみるのもいいかと思います。
行善寺坂を下ると丸子川にぶつかります。岡本の水神橋付近から流れを見ることができる川で、岡本民家園前などを流れ、最終的には多摩川に合流する小さな川です。
この川沿いに沿って道が通っているのですが、これが狭いこと。車がすれ違うのがやっとの幅しかない道なのに交通量が多く、自転車で通ると結構怖いです。
この道を左に曲がると大山道道標が道脇に建っています。ちゃんと台座を付けられて、「南大山道標」と刻した新しい石柱が脇に添えられているものの、その本体たるやボロボロ。補修の後が痛々しいです。
車にぶつけられて破損してしまったのでしょうか。一応これ以上壊れないように台座が付けられ、ガードレールが付けられていますが、ガードレールが既にボコボコになっている現状を考えると・・・心許ないような気がします。
行善寺坂から少しずれてこの石碑があるのは、昔は行善寺坂からまっすぐに多摩川へ向かう道がなかったためだと言われています。
不便そうな気もしますが、当時の荷を満載した荷車が坂を下るときのブレーキは棍棒などのズリブレーキといったとてもお粗末なものでした。止まらずに勢いよくまっすぐ行っては危険だからと、安全上そうしていたようです。
実際、止まりきれず突き当たりの田圃へとひっくり返る荷車が多かったという資料もあり、行善寺坂は結構な難所だったことが伺えます。
* 感想など *
旧大山道沿いにあり、ちょうど崖の上にある行善寺。多くの旅人が崖を登って境内で一休みしたり、行善寺八景とうたわれた眺望を楽しんだに違いありませんが、残念ながらかつて行善寺八景とうたわれた境内からの眺望は今では過去のものとなってしまいました。
とはいえ、今でも境内から二子玉川を眺めることができます。かつては田畑や湿地帯ばかりだった土地がどんどんと造成され、家が一軒、また一軒と建っていった様子はここからよく見えたことでしょう。二子玉川が田畑ばかりで、多摩川に船が浮かんでいたころを想像してみたり、大きな商業地に変貌していった過程などを考えながら二子玉川の町を眺めてみるのも面白いですよ。
せたがや百景No.81 瀬田の行善寺と行善寺坂
ー 風の旅人 ー
2018年4月改訂