世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.53

成城学園の池

成城学園とともに、成城のまちは発展してきた。大学構内にある池のほとりは若い学生たちの憩いの場となっている。戦前から自由な教育で知られる成城学園の学生たちは、やはり成城のまちの雰囲気に似合っているところがあるようだ。学園裏手の仙川沿いの延びる小道をたどれば、いまは少なくなった川沿いの景観を楽しむ小散歩ができる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

・場所 : 成城6-1(成城学園)
・備考 : 見学に関しては正門の受付で訪ねてみて下さい。

*** 成城学園の写真 ***

成城学園の写真
成城学園の入り口

銀杏並木の正面にあります。

成城学園の写真
成城学園の校門

草がこんもりとしていました。

創設者、澤柳政太郎氏の像の写真
創設者、澤柳政太郎氏の像

どこの学校にも胸像はありますね・・・

せたがや界隈賞と百景の案内板の写真
せたがや界隈賞と百景の案内板

とても存在感のある案内板でした。

成城学園の池の写真

木々に囲まれています。

成城学園の池の写真
濁った池の水

湧水量が少ないようで濁っていました。

成城学園の池の写真
中の島

池の中に島があります。

成城学園の池の写真
藤棚とベンチ

島の中は癒しの空間となっていました。

* 成城学園と池について *

小田急線は昭和になって開通した比較的新しい路線です。世田谷区内には他にも京王線や田園都市線といった都心と郊外を結ぶ路線がありますが、それらに比べても少し遅い開通となっています。そのためか駅と駅との間隔が狭く、区内に10もの駅があります。その駅の中でも一際知名度があるのが、下北沢駅と成城学園前駅でしょう。

下北沢は乗り継ぎ駅でもあり、大きな繁華街であり、成城学園は高級住宅地成城の玄関口です。どちらも急行が停車し、区内の乗降客数1、2位です。ちなみに3位は経堂となっています。そして小田急線の駅名には地名が多く使われています。開通時、特に駅の設置に当たって地主や地域の協力があった場所では、その地域の駅名を優先して付けたためです。

そういった駅名の中にあって成城学園前駅という駅名は少々違和感があります。なぜ成城ではないのか。成城の方が短くて呼びやすいし、格好いいではないか。なんて思う人もいるかもしれません。が、歴史を紐解いていくと、成城学園前と名付けられているのも納得です。

line

小田急線が開通し、成城学園前駅ができたのが、昭和2年のことです。当時駅付近の住所は成城ではなく砧村喜多見でした。現在の成城の大部分がお隣の喜多見やそして祖師谷だったのです。小田急線が開通する少し前、大正時代の成城付近は農家が七軒と田畑と雑木林しかない閑散とした地域でした。その土地に小田急線が開通すると知った成城学園はまず学園用に7万9千平方メートルの敷地を購入し、更には付近の6万6千平方メートルの土地を購入し、それを住宅地として整地して売りに出し、学園建設用の費用に充てました。

この計画は武蔵野にふさわしい町、とりわけ学園都市の雰囲気を目指して造られていき、最終的には学園用が33万平方メートル、住宅地に122万1千平方メートルにまで拡大しました。これが成城に高級住宅地が形成されるきっかけです。そして大正14年に成城学園が引っ越してきて、昭和2年に小田急線が開通すると、まずは40戸の住宅が建ったそうです。これが今や全国的に有名となった成城住宅の始まりです。

line

その後、昭和5年には住所が砧村喜多見成城とかわり、昭和9年には437世帯が暮らしていたというから徐々に町が発展していったようです。昭和11年になると砧村が東京市に編入される事となり、その時に世田谷区に組み込まれ、初めて世田谷区成城となります。

もちろん成城となったのは成城学園の名前からです。その成城の意味は学園の見解を引用すると、<「成城」という学園名は、中国の古典「詩経」の大雅の一節にある「哲夫成城」(哲夫城を成す)から取られています。哲夫とは哲人、哲士とも言われ「道理をわきまえ、見識の優れた人」のことです。「哲夫は城(くに)を形作るものである」という言葉から学園の名前が「成城」と名付けられました。>との事です。高級住宅地成城の名前にこんな意味があったと知っていましたか?

line

成城といえば今や言わずもしれた高級住宅地です。その玄関口の成城学園前駅の駅すぐ近くの一等地に成城学園、成城大学といった敷地がドカッとあるのもそのためです。普通に考えれば高級住宅地に私立学校が・・・。区内でも明治薬科大学などが郊外へ移転し、隣の目黒区では都立大学が移転していくなど近年広い敷地を求めて郊外へ大学が移転するケースが珍しくないのに、よくこんないい場所に敷地を確保できて、維持されているなというのが正直なところかもしれません。

でも成城学園ができて成城の町ができたという歴史を知ると、成城学園の敷地が成城の町のいい場所にあるのは当然の事だと納得です。それにこういった経緯があるならなかなか他へ移転しにくい事でしょう。成城学園あっての成城なら。ただ初めからこの地を選んでいたわけではないようで、はじめは高井戸の付近や烏山に候補地を物色していたようです。そして僅かな地価の差で現在地に決定したと言われています。

line

成城学園の歴史を少し紐解いてみると、大正6年(1917年)に、日本教育界の重鎮といわれる澤柳政太郎氏が実験的教育の場として創った成城小学校から始まります。そしてこの成城小学校の1期生が卒業を迎えるにあたって、教育の一貫を願う保護者の要望があり、大正11年(1922年)に、主事であった小原國芳氏(のちの玉川学園創立者)の努力によって成城第二中学校が開設され、大正14年(1925年)に現在の場所に移転してきました。

大正15年(1926年)には旧制7年制の成城高等学校が開設され、第二中学校はその尋常科(4年制)に組み込まれた。翌年には5年制の成城高等女学校が開設され、総合学園としての形が整いました。

戦後になると学制改革によって、男女共学の新制成城学園中学校、成城学園高等学校が設立され、さらには昭和25年(1950年)には成城大学が創設されました。そして昭和26年(1951年)に正式に学校法人成城学園となりました。

ちなみに2009年5月時の総学生数は8246名(内女生徒が4216名)との事で、幼稚園が120名、初等科(小学校)が679名、中学校723、高校が845(中高一貫)、大学が5746名となっています。やはり大学生の生徒数が断トツですね。でも他の大学と比べてしまうとこじんまりとしている印象でしょうか。

line

さて、成城学園の池なのですが、正門のある高台から仙川の方に坂を下った場所にあります。結構大きな池だし、仙川のすぐそばにあるので、元々ここにあった仙川の水源の一つなのかなと思っていたのですが、グラウンドを造ろうと掘り下げたら水脈にあたってしまい、そのまま池にしてしまったとか。そういった経緯の割にはかなり広い池です。

この池の特徴は何といっても池の真ん中には島がある事で、その形状から学生達の間ではドーナツ池と呼ばれているようです。実際に訪れてみると、その島の中に造られた空間の雰囲気の良さに感動しました。さすがはキャンパス内にある池といったところでしょうか。島にはベンチがくつろぎやすいように設置してあり、夏休みに訪れたので誰もいなかったのですが、きっと普段は生徒が昼食の弁当を広げたり、楽器の練習をしたり、おしゃべりをしたりしているんだろうなといった図がすぐに頭に浮かんできました。

ただ並べてあるベンチはかなり老朽化が進んでいて、座ったら壊れそうなところが微妙なところ。更には池の水に目を向けるとかなり濁っていました。あまり湧水量がなさそうな感じです。そのせいか蚊が凄まじくいて、10秒も静止していられないほどでした。きっと普段餌にしている学生が夏休みでいないので飢えていたに違いありません(笑)。おかげで何カ所か刺されてしまいました。

<せたがや百景 No.53 成城学園の池 2009年9月初稿 - 2015年10月改訂>