世田谷散策記 世田谷の秋祭りのバーナー
秋祭りのポスター

世田谷の秋祭り File.50

奥沢神社例大祭

文化財に指定されている厄除け大蛇のお練りが行われたり、各町会の神輿が揃って宮入を行ったりと賑やかで特徴のある祭礼です。

鎮座地 : 奥沢5-22-1  氏子地域 : 奥沢1~8丁目
御祭神 : 誉田別命、倉稲魂命  社格 : 旧奥沢村村社
例祭日 : 9月第二土曜日と翌日曜日
神輿渡御 : 大蛇の練り、7町会神輿6基の連合宮入、子供神輿、太鼓車
祭りの規模 : 中規模  露店数 : 20店程度
その他 : 奉納神楽、奉納演芸が行われます。

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*** 旧奥沢村と奥沢神社 ***

奥沢神社の写真
神社のある一画

ここだけ木々がこんもりとしています。

奥沢神社の写真
鳥居と厄除け大蛇

奥沢神社のシンボルです。

奥沢神社の写真
神木と社殿

大きなイチョウの木とどっしりとした社殿です。

奥沢神社の写真
弁才天女

岩窟といった感じです。

* 旧奥沢村と奥沢神社について *

世田谷は大きな起伏はないものの、小さな起伏が多くあり、沢や丘が多い土地柄です。江戸時代にはこのような地形を世田谷七沢と称すことがありました。七沢は「北沢」「池沢(池尻)」「馬引沢(上馬、下馬)」「野沢」「廻沢(千歳台)」「深沢」「奥沢」を差していると言われています。

奥沢はそういった沢が多い地形の一番奥にあるという理由から奥沢と付けられたのではないかと推測されていますが、地名の由来に関してははっきりしないようです。

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奥沢村が開けたのは伝承によると室町時代からです。建保元年(1213年)に鎌倉幕府の御家人、和田義盛が反乱を起し、打ち首になっていますが、その孫にあたる朝盛から8代目の朝清が家臣12名と共に奥沢に来て定住したという話が奥沢に住む和田家に伝わっています。

15世紀後半になると世田谷城の吉良氏の支配が及ぶようになり、家臣の大平出羽守が現在の九品仏浄真寺に奥沢城を築き、この地を治めます。現在でも現在鐘楼から下品堂の裏にかけて、土塁が残っているのを見る事ができます。築城年代に関しては天文20年(1551年)に吉良頼康から大平清九郎にこの付近の地を領地とする文章が存在するので、それ以前(14世紀頃)からあったかも・・・とされています。

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廃城となったのは世田谷城と同じで天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原遠征によって北条氏が滅亡した時です。その際に吉良氏は世田谷から逃げ出し、支城であった奥沢城も放棄されました。1658年には村が広くなりすぎたのか、村内で対立があったのか分かりませんが、奥沢村から分裂して新たに奥沢新田村が生まれます。現在でいう奥沢4~8丁目辺りです。

そしてそれを契機に1670年頃から荒れ放題となっていた奥沢城跡地を利用して九品仏浄真寺が建てられていき、奥沢は小さな門前町としても発展することになります。奥沢新田の開村に伴って檀那寺が必要だった村と、ちょうどこの時期に寺地を欲していた珂碩上人と、そして大きな寺を興すのに都合よく城跡という広い場所があったという思惑や偶然が重なったようです。

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時代が明治になり、明治9年には本村と新田村が合併し、再び一つの奥沢村となります。明治21年の調べでは総戸数162戸、833人が暮らしていたようです。大正12年には目蒲線が開通し、更には関東大震災が起き、宅地化が進んでいきます。奥沢では他の玉川地域で行われた玉川全円耕地整理に先駆けて一部民間によって宅地開発が行われました。

この区画には海軍軍人が集団で住んでいたので、海軍村と呼ばれることになります。奥沢に海軍村といってもピンときませんが、奥沢の立地がちょうど基地のある横須賀と司令部のある都心との中間というか、鉄道が敷かれたことでどちらにも行きやすかった事と、まだ土地が安かった事、それから海軍自体が集団生活を好んだことで多くの軍人が移住してきました。

現在でもこの地域は他の地区よりも道が狭く、昔の名残と留めた家があったりします。昭和2年には大井町線、東横線が開通し、交通の便が飛躍的に向上します。それに伴い耕地整理がどんどんと行われていき、宅地率95.1%という世田谷区内でも屈指の住宅地域となっていきます。

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奥沢は本村と新田村とがあったので、2つの鎮守がありました。本村の鎮守だったのが子安稲荷神社で、創建年代や由緒などは不明なようです。新田村の鎮守は八幡神社で、吉良氏の家臣の大平氏が奥沢城を築いた際に守護神として八幡神社を勧請したと伝えられています。

明治になって村が合併し、合祀令もあり、明治42年に八幡神社に子安稲荷社を合祀するといった形で奥沢神社が誕生しました。そのため、祭神は八幡社の誉田別命(別名応神天皇)、稲荷社の倉稲魂命の2柱です。新編武蔵風土記稿によると八幡社は本社3間半に1間、拝殿2間に3間。前に鳥居が建てられていて、本社の右には4間に2間の寮があって神社を管理する人が住んでいたとあります。

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この本社は明治45年に新しい本殿が再建された時に九品仏浄真寺に譲られ、現在でも改修され観音堂として使われています。そして寮の方は、慶応末からこの寮で土地の子弟を集めて読、書、算を教えるようになり、明治12年には一部を改修して認可を得て、社名をとって「八幡小学校」としました。これが現在の八幡小学校の基礎であり、現在の社務所のところに「八幡小学校発祥之地」の碑が建てられています。

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昭和3年にはそれまであった宮島の海中の鳥居と同じ形だった木の鳥居から石の鳥居に建て替えました。昭和45年には社殿の建替えを行っています。新しい社殿は尾州檜材を用い、室町期の様式を採用したもので、都内においても他に類を見ないものとなっています。

建替え以前の旧社殿はやはり同じように九品仏浄真寺に譲られ、五社様として祀られています。特に九品仏と深い関係があるわけではなく、単に置き場がなかったからだと言われています。

また本殿の左奥には弁才天女が祀られています。これはかつて奥沢駅の少し南にあった湧水池、奥沢弁天池に鎮座していたものを昭和25年に移したものです。岩が積み上げられてちょっと大袈裟な感じになっていますが、昭和47年に築山造園を行って現在の状態にしたそうです。

*** 奥沢神社の秋祭りの様子 ***

奥沢神社の秋祭りの写真
秋祭りのときの入り口

神社前の自由通りは道幅が狭いので混雑します。

奥沢神社の秋祭りの写真
鳥居前

大蛇が見守ります。

奥沢神社の秋祭りの写真
拝殿前

時間帯によっては参拝者の列ができます。

奥沢神社の秋祭りの写真
雨の日

雨が降ると緑がきれいですが、人はまばらです。

奥沢神社の秋祭りの写真
夜の境内

露店が所狭しと並ぶので賑やかな感じになります。

奥沢神社の秋祭りの写真
神楽の奉納

夜には神楽が舞われます。

奥沢神社の秋祭りの写真
お囃子の奉納

昼間には奥沢囃子が祭礼を盛り上げます。

奥沢神社の秋祭りの写真
ミニSLの運行

商店街では色々とイベントが行われます。

* 奥沢神社の秋祭りについて *

奥沢神社の祭礼は、八幡様らしく江戸時代から9月15日に本祭、前日に宵宮が行われていました。しかしながら、2003年から氏子の事情や交通事情を考慮して週末に移され、現在では9月第2土曜日に宵宮、翌日曜日に本宮となっています。奥沢神社の祭礼を特徴づけているのはなんといっても宵宮に行われる大蛇のお練りです。藁を編んで造った大蛇が町内を練り歩き、厄除けを祈願するといった行事で、世田谷区では唯一の行事であり、区の無形民俗文化財に指定されています。

23区内といった都心部では珍しい行事なので、地元の人だけではなく、多くのアマチュアカメラマンなども訪れます。本祭の日は夕方前に7つ町会の6基の神輿が連合で宮入してきます。厳密に言うと神社には入らず、神社の前で宮司のお祓いを受けることになるのですが、大勢の担ぎ手と6基の神輿が駅前の通りを練り歩く様はとても賑やかで、祭礼のハイライトになります。

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祭礼期間中、境内には多くの露店が並び、神楽殿ではお囃子や神楽が奉納されます。お参りする人も多く、境内に露店が多く出ることから多くの人が訪れ、賑やかな雰囲気に包まれます。その一方でそれぞれの商店街ではミニ鉄道が運行されたりと小さなイベントも行われています。

ここの祭りの特徴はこのように商店街が中心となって祭りを盛り上げていることです。神輿についても他の地域の祭りでは何丁目の神輿といった感じで運行される事が多いのですが、ここでは町会ではなく、商店街ごとに運行されていて、神輿が運行される町域が密集しているというか、ちょっと偏っています。

かつては町会で運行されていたような話も聞いたので、どんどんと宅地化が進んでいく中で、商店街が祭りを維持するために頑張っているのか、参加する団体が商店街しか残らなかったのかよく分かりませんが、他の地域の祭礼と少し違った雰囲気を感じます。なんていうか、神社中心であり、商店街が中心のお祭りでもあるといった印象が強い祭りです。

*** 奥沢神社の厄除け大蛇 ***

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
蛇製作の下準備中

境内に筵を敷き詰め作業場を作ります。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
胴体部の製作

三本の長い藁の束を製作します。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
長くなった胴体部

これをよって胴体にします。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
頭部の取り付け

こんなもんだなって満足そうでした。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
社殿に安置される大蛇

愛くるしい顔でペットみたいです。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
出発前のお祓い

社殿から大蛇が出されお祓いを受けます。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
境内を練る様子

三周回って神社を出ます。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
神社前の交差点で

元気よく

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
氏子に担がれる頭部

この年は2年ぶりの巡幸だったのでうれしそうです。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
しっぽ部分

肩に載せると藁なのでチクチクするとか

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
お練りの列

神職が先頭でお祓いをしながら進みます。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
踏切を渡る様子

奥沢は踏切が多いので厄介です。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
商店街を練る様子

氏子の家を通るように蛇行しながら進みます。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
トラックでの移動

頭部が屋根の上にあり、可愛らしいです。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
最後の宮入行列

南口の三叉路で隊列を整えます。

奥沢神社の厄除け大蛇の写真
本殿に向かう蛇

宮入すると本殿にそのまま安置されます。

奥沢神社の入り口にある鳥居には藁で編まれた大きな蛇が巻き付けられています。初めて訪れた人は少なからず驚くなり、おっ!と興味を持つ事かと思います。これが奥沢神社名物の大蛇です。この大蛇が奥沢の町を練り歩く行事が「大蛇お練り行事」で、昭和59年に世田谷区の無形民俗文化財に指定されています。

こういった藁で蛇を作って練り歩いたり、飾ったりするような行事は全国的に見ると珍しくはないのでですが、23区内といった都心部に限っていえば、かなり稀少な存在となっています。

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このような大蛇のお練りが大なわれる場合、蛇の形、いわゆる水神が練り歩くことによって農耕に必要な水の確保や生産の順調なることを願う場合と、村の守り神として村に災いや疫病などが入ってこないように、村に住み着いた悪霊を退散させるために練り歩く場合や、個別の家を回ることでその家の災いを追い払うといったいわゆる厄除けの二通りあります。水神として練る場合は最後に水源の池や沼に戻される場合が多く、厄除けの場合は村の入り口などに安置される場合が多いです。

ここ奥沢では後者の方で、言い伝えによると、江戸時代中期の宝暦年間(1751~64年)に、奥沢の地に疫病が流行し、病に倒れる者が続出したとかで、村人が困り果てていると、ある夜、名主の夢枕に八幡大神が現われ、「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させるとよい」というお告げをしたそうです。

早速、村人は新藁で大きな蛇を作り、その蛇を担いで村内を巡行すると、たちまちに疫病が収まっていき、村人は相談してその大蛇を八幡神社の鳥居にかかげたというのが、この行事の始まりとなっています。このため奥沢では厄除大蛇として親しまれていて、疫病退散、健康を祈念する人が多いそうです。

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大蛇のお練りは、祭礼日が9月15日に固定されていた時は、宵宮に当たる前日の14日に行われていましたが、現在では祭礼日が週末に移され、9月の第二土曜日に行われています。お練りに使われる大蛇は9月第一日曜日の9時頃から境内で製作されます。

現在でもそうなのか分かりませんが、藁が奥沢で手に入るはずもなく、福島の農家から小型トラック1台分を譲り受けているそうです。昭和の初めにはもう奥沢で藁が手に入らなくなって藁集めに苦労しなければならなかったとか。

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製作は頭部と胴体とに分かれて行いますが、頭部の方は熟練された腕が必要となるので経験を積んだ人が担当します。なんていうか、大きなわらじを製作するような感じで藁を編み込んでいくといった感じでしょうか。

胴体の作り方は、まず5本の縄を縒り、これを芯として藁の小束をつなぎ合わせていき、長い藁のしめ縄のような藁筒を作ります。これを同時に三本作ります。1本の藁筒を造るのに4~5人が必要で、約9mの胴体を作るだけでも15人以上が必要になります。この三本の藁筒をよって長い大蛇の胴体とします。頭と胴体ができると、最後に頭を胴体に編み合わせて完成します。だいたい15時頃になるでしょうか。出来上がると練り歩く日まで社殿に安置されます。

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大蛇お練り行事は昭和14年から32年まで中断していました。なんでも木製の鳥居から石の鳥居に替えたので、蛇の腹が冷えてしまうといった理由だったとか。これは本当の話か分かりませんが、ただ昭和10年頃から奥沢で藁の調達が難しくなっているといった問題や、昭和14年といえばドイツ軍がポーランド西部国境を突破し、第二次世界大戦勃発した年でもあります。海軍村がある奥沢では戦争に向けて慌ただしく、そういった行事を行う雰囲気ではなかったのかもしれません。

そして昭和33年から再び復活するわけですが、これは宮司を務める長谷川氏が「神社は古いことを見直し、伝えるべきである」と提唱し、再開されることとなったそうです。中断以前の昔は、奥沢は上、中、下の3つ町会で構成されていて、その町会が一年ごとに交代で造っていました。そのため、今年は出来が悪いと言われては町会の名誉に関わるといった感じで、今よりもずっといい出来だったそうです。

また境内では大蛇作りとは別に共栄会や商睦会といった地元の商店街の有志によって小型の大蛇も造られています。これは四斗樽5本を積み上げた樽神輿に載せられ、大蛇神輿として担がれます。この神輿を作ることで技術の伝承がより広く行われるといったメリットもあるようです。

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お練りの当日は、午前10時より式典やお祓いが行われ、その後社殿に安置してある大蛇が担ぎ出されます。お練りに際して担ぎやすいように頭部部分に木製の枠が取り付けられます。大蛇はまず境内の神木である大イチョウの木を三周し、鳥居を通って外に出ます。

お練りの先頭は神職でお祓いを行いながら進みます。その後ろを高張り提灯、そして大蛇と続きます。大蛇はだいたい長さが10メートル、胴体部分の直径が25センチ、重さは150キロあり、10~20人ぐらいで担がれます。普通の神輿と違って担ぐ部分が藁なので、結構首や肩がチクチクするそうです。かけ声は「わっしょい」と統一されています。

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渡御は、頭部は真っ直ぐ進むのですが、胴体部分はくねくねと斜めに移動しながら蛇の動きをする場合もあります。しかしながらあまり激しく振ると蛇が崩れてしまうので、適度に振るといった感じです。とはいうものの担ぎ手にはそれでは物足りなく、夢中になると普通の神輿を担いでいるときのように激しく揺するようになり、年配の方に「崩れる!」と度々小言をもらっていました。ちなみに雨が降ると藁が水を含んで重くなるし、崩れやすくなるので、渡御は中止となります。

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お練りの行列は各町会が設置した御酒所を回っていくといった形になります。奥沢の場合は町会というより商店会が中心となって祭りを行っているので、御酒所とその商店街を歩いて行くといった感じです。ここのところは神社周辺の共栄会商店会、緑が丘駅近くの商睦、奥沢駅東の東商店会、駅のすぐ南の諏訪山商店会、駅から南の自由通りの本町商店会、自由通りと平行するように位置する奥沢銀座会と奥沢親交会(南町会睦)、そして九品仏の鷺睦と駅前の商店街を周っています。

そして御酒所に到着するとお祓いが行われます。沿道にも住民が出て縁起物なので藁をもらっていたりしていました。九品仏から奥沢駅前まで戻る時にはトラックに載せての移動になります。トラックに載せられた大蛇はなかなか可愛かったりします。そして奥沢駅前で宮入道中の準備が整えられ、神社に戻り、そして社殿に収められます。戻ると、神事が行われ、行事は終了。この大蛇は一年間社殿に安置され、翌年鳥居にかけられます。

*** 奥沢神社の神輿渡御 ***

*** 町会神輿 ***

奥沢神社の神輿渡御の写真
共栄会の御酒所

大小の大蛇神輿が雨宿りしていました。

奥沢神社の神輿渡御の写真
九品仏の参道にある鷺睦の御酒所

御霊入れの最中です。

奥沢神社の神輿渡御の写真
商睦の御酒所

子供神輿の御霊入れ

奥沢神社の神輿渡御の写真
連合渡御の出発地点

多くの担ぎ手が集まり混雑していました。

奥沢神社の神輿渡御の写真
大蛇神輿

共栄睦と商睦会が合同で担ぎます。

奥沢神社の神輿渡御の写真
神社前で揉む神輿

大きく上下に揺らします。

奥沢神社の神輿渡御の写真
東睦の神輿

奥沢一丁目付近の睦会です

奥沢神社の神輿渡御の写真
神社前で揉む神輿

大きく上下に揺らします。

奥沢神社の神輿渡御の写真
諏訪山睦の神輿

諏訪山通り商店会を中心とした睦会です。

奥沢神社の神輿渡御の写真
町会へ戻る神輿

白っぽい半纏は結構目立ちます。

奥沢神社の神輿渡御の写真
本町睦の神輿

南口の自由通りの本町商店会を中心とした睦会です。

奥沢神社の神輿渡御の写真
神社前を進む神輿

メイン通りの睦会らしく女性の担ぎ手が多いです。

奥沢神社の神輿渡御の写真
南町会の神輿

奥沢銀座会と奥沢親交会が一緒になった睦会です。

奥沢神社の神輿渡御の写真
神社前を進む神輿

笛と小太鼓の伴奏が入る独特の担ぎ方をします。

奥沢神社の神輿渡御の写真
鷺睦の神輿

九品仏駅周辺の奥沢6~8丁目の睦会です。

奥沢神社の神輿渡御の写真
駅前を進む神輿

大きな町域を持っているので大所帯です。

奥沢神社の神輿渡御の写真
神社前でのお祓い

神社の前で各神輿の担ぎ手はお祓いを受けます。

奥沢神社の神輿渡御の写真
神社でのお祓い

最後に全ての睦会の代表がお祓いを受けます。

奥沢神社の祭礼では神社の宮神輿ではなく、各町会所有の町会神輿が運行され、神社にやってきます。こういうスタイルは多くの神社で行われているので珍しくないのですが、奥沢が他と少し変っていると感じるのは、運行される町会神輿は商店街が中心で、神輿や睦会は商店街の名前がほとんどです。

例えばすぐお隣、等々力の玉川神社では山谷睦会、宿若睦会、山谷睦会、根原睦会、尾山台睦会と5つの神輿が連合で宮入しますが、睦会の名前は旧字だったり、現在の町名だったりします。駅前を中心とした下北沢では商店街が中心となっていますが、睦会には町の名前が付けられています。そう考えると、かなり特殊で、町全体というよりは部分的という感じで、神輿の運行も駅前が中心でちょっと偏っています。

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奥沢神社に所属している町会神輿を個別に書くと、奥沢2、5丁目にまたがる「共栄睦」、駅北口から神社周辺にかけての共栄会が中心となっている睦会で、神社から緑が丘へ続く通りにある奥沢病院付近に御酒所が設置されます。ここの神輿はお隣の商睦会と合同で作った大蛇神輿になります。この大蛇神輿は土曜日に練られる厄除大蛇と同じ日に製作された小型の蛇を四斗樽5本を積み上げた樽神輿に載せたもので、この神輿を作ることで技術の伝承もより広く伝わることに役立っています。

奥沢2丁目の緑が丘付近を中心としているのが「商睦会」、目黒区の緑が丘駅近くの睦会で、大人神輿は共栄会と共同の大蛇神輿で、御酒所には子供神輿があります。

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奥沢3丁目周辺の「諏訪山睦」、駅の南口付近、連合の出発地点から東に延びる諏訪山通り沿いにある諏訪山商店会を中心とした睦会です。比較的大きな商店街なので担ぎ手も多く、子供向けイベントなども行っています。

奥沢1丁目周辺の「東睦」、諏訪山商店会の東側が奥沢東通り商交会で、ここが東睦の中心となります。奥沢3、4丁目の自由通り沿いに位置する「本町睦」、奥沢のメインストリートである南口の自由通り沿いにある本町商店会を中心とした睦会です。メインストリートらしく女性の担ぎ手の姿も多いようです。

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奥沢4丁目を中心とした「南町会睦」、本町商店会(自由通り)と平行に伸びる約200mの奥沢銀座会(奥沢銀座商店会)と、その先に続く奥沢親交会商店街が一緒になった睦会です。

ここの特徴は世田谷で唯一城南担ぎで神輿が担がれる事です。城南担ぎは江戸前神輿と違い、担ぎ棒が横に組まれ正面を向かず向かい合って担ぎ、もんだり、さしたりしながら「おいさ」のかけ声で横にカニ歩きのような形で進んでいきます。これはお神輿に乗っている神様にお尻を向けずに担ぐ為です。また神輿の堂の脇に括り付けられた「太鼓」とその周りで吹く「笛」の拍子に合わせ、「ちょいちょい」と小刻みに激しく神輿をもむのも特徴です。

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奥沢6~8丁目と広い町域を持つのが「鷺睦」です。九品仏自治会と重なり、唯一町会らしい睦会ともいえます。御酒所は九品仏浄真寺の参道に設けられます。ここは町域が広いのもあって担ぎ手が多く、賑やかな感じのする睦会です。半纏の背中の鷺の文字はよく目立ち、周辺での祭礼でもよく見かけます。

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といった個性的な町会御輿が運行されています。そしてどこも外部からの団体に頼らず、奥沢の住人や奥沢で働いている人で担いでいるのもここの特徴です。神輿の巡幸は各町会のスケジュールに拠りますが、土曜日の宵宮から運行しているところが多いようです。

日曜日には各町会神輿が南口近くのファミリーショップ前に集結し、15時半から連合宮入が行われます。祭りのハイライトで各町会の神輿が多くの担ぎ手と共に神社に向かう様子はとても賑やかです。また日曜日の12時から本町商店会により手古舞や木遣りのお祭り行列も行われています。

* 感想など *

奥沢神社では世田谷唯一というのが二つあります。まず一つは有名な大蛇のお練りです。奥沢神社の祭礼を特徴付ける行事であり、世田谷区の無形民俗文化財に指定されていたり、メディアに取り上げられたり、区外から多くの人が見物に来る行事となっています。

もう一つが南町会の城南神輿です。普通の江戸神輿を見慣れているととても変った担ぎ方に驚きます。この他にも樽神輿に巻き付けられた大蛇神輿や手古舞といったものも独特です。このように色々と特徴のあるものが多いのでお祭り好きにはなかなか魅力的な祭礼となっています。

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ただ、奥沢の町全体で盛り上がっているかというとちょっと微妙な感じを受けます。やはり気になるのは商店会ばかりが盛り上がっている事です。運行される町会神輿は各地域のものではなく、商店街を中心としたものだったり、イベントも各商店街ごとに行われていたりと、各商店会がバラバラになって盛り上げている感じです。

一般の人には商店街の名前で運行される神輿に愛着が湧くかというと微妙なところですし、せっかくなら商店街の小さなイベントよりも商店街がまとまって大きなイベントを行ってくれた方がうれしいものです。でもこうならざるを得ない事情もあるような気もします。

奥沢といえば自由が丘と田園調布に挟まれた地域です。住宅街としてとても魅力ある地域であり、現在では世田谷でも屈指の住宅街となっています。そういった新興住宅地域では住民が積極的に秋祭りに参加することはありません。逆の見方をすると住民が盛り上がらないので、商店会が頑張ってそれぞれの丈にあった努力で維持している祭りとも言えるのかもしれません。

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<世田谷の秋祭り File.50 奥沢神社例大祭 2013年10月初稿 - 2015年10月更新>