* 桜丘と稲荷森稲荷神社について *
かつて世田谷城主の吉良氏や彦根藩の井伊家が治めた時代から世田谷の中心であり続けたのは世田谷村です。世田谷区の名の由来にもなっているのですが、明治頃までは世田谷の事を「せたかい」と呼んでいたり、その昔は世田ヶ谷村、勢多郷、瀬田萱、瀬田谷などと呼ばれていたそうです。
その世田谷村はボロ市通りや区役所のある世田谷を中心に世田谷城があった豪徳寺、世田谷八幡神社のある宮坂、そして梅ヶ丘、桜、桜丘の他、羽根木などの飛び地が幾つかあるという大きな村でした。その世田谷村の西の端に位置するのが旧世田谷5丁目にあたる桜丘です。現在の町域では環八が西端、世田谷通りが南端にあたり、東は農大付近で桜と接し、北は経堂、船橋と接しています。
桜丘という町名は、名前からして桜の多く植わっている丘といった感じで少しロマンチックな印象を受けます。実際にかつての品川用水の跡に通された千歳通り沿いには多摩川の玉石垣と立派な桜並木があり、せたがや風景資産にも選定されています。しかしながら地名の由来はこの桜でもなく、この地にあった桜や桜に関する事柄に由来するものではありません。
桜丘という地名は昭和41年に世田谷町から分離した際につけられたもので、もともとあった桜木という世田ヶ谷村の小字に由来します。この桜木という名は百景にもある吉良家の墓所勝光院の裏手にある桜木中学校にその名をとどめるだけとなってしまいましたが、世田谷城内にあった「御所桜」という桜にちなんだものだそうです。
そしてこの桜木の地にできた最初の小学校が桜小学校で、その後現在の桜丘付近に開校したのが第二桜小学校(現在の桜丘小学校)でした。その後、桜丘国民学校と改名され、住所変更の際に小学校の名がそのままお隣の「桜」とこの地の「桜丘」になったようです。
現在の桜丘は住所表示で1~5丁目で構成されています。見た目状は一つの町域となっていますが、目に見えない境界が存在していて、大きく分けて4丁目以外の横根地区と4丁目の宇山地区に分かれています。それは歴史的なもので、宇山地区というのは宇奈根山谷と呼ばれた地域で、多摩川沿いにある宇奈根地域の人々が洪水などを機に移り住んだ土地と言われ、後に宇奈根山谷が短縮して宇山となったといわれています。
もちろん普通に暮らす人には同じ桜丘ですが、氏子町域などでは横根地区の稲荷森稲荷神社、宇山地区の宇山稲荷神社と分かれていて、祭礼などは別々に行っています。ちなみに古い地図を見るとこの付近には横根という小字がたくさんあり、ちょっとややこしいです。すぐ近くの大蔵一丁目にある横根稲荷神社もそうで、同じ小字が横根だっただけで同じ町域というわけではありません。
桜丘の大部分を占める横根地区の守り神であり続けたのが稲荷森稲荷神社です。稲荷の文字が続きますが、読み方は「とうかんもりいなり」と同じ読みを繰り返しません。詳しい由緒を記したものは残っていなく、恐らく室町時代以降、吉良氏が世田谷を治めていた頃ではないかと考えられています。
ただもっと古い話も残っていて、明治時代に土地の古老たちが話すには、「奥州へ落ち延びた源義経を追って静御前がやってきて、この神社で一夜を明かした」と言い伝えられてきたそうです。とはいうものの源義経と静御前の伝説は日本各地に残っているので、それを全部信じていたら義経は何人いたんだといった話になり、その信憑性となるとちょっと微妙なところです。
吉良氏時代にはこの神社、或いは周辺で六斎市が開かれ、天正六年(1578年)には小田原城主北条氏政がそれを上町に移し、後にボロ市になったともいわれています。その名残で以前はボロ市の日には神社前に数軒の店が出ていたそうです。
江戸時代の「新編武蔵風土記稿」には「菅刈社」と表記されていて、この付近も「菅刈庄」といわれていたことから、「地名を冠するのだから、古い由緒ある社であろう」と記されています。また黒駒街道(登戸道-現世田谷道)から分かれ府中方面へ抜ける黒駒裏街道(横根道)は稲荷森稲荷神社前を通っていました。
神社の杉の森は「どんなに雨や雪が降っても稲荷森まで行けば焚き火ができる」「稲荷森神社では傘がいらない」と言われるほど古木がうっそうと茂っていて、往来する人々や荷物の運搬を生業とする馬方達はこの森で雨宿りや休憩していたようです。現在でも江戸時代の馬方達が奉納した木彫が残っていたりします。そういった深い森があったから稲荷森という名前が後に付けられることになったようです。その他、昔は境内で馬の市が立ったことから横根道を馬喰横丁と呼んでいたといった記述もありますが、どうなのでしょう。
明治になると新政府により社地の大半が取り上げられ、明治40年(1907年)には世田谷村の鎮守である現世田谷八幡神社への合祀、神社の廃社が強要されましたが、氏子有志は結束して独立維持を主張し、政府に立ち向かって神社を護持したそうです。そういった経緯に拠るものなのか分かりませんが、今でも神社庁に所属しない単立神社として維持されています。
現在、神社は参商会という商店街の真ん中に立地しています。神社前の通りは細く、商店街となっているので人の往来も多く、繁華街とまではいかないにしても賑やかな場所にあるといった感じです。境内は商店街の中にあるのにふさわしく、空き地に神社が建てられたといった感じで、稲荷森と呼ばれたころの面影は全くありません。
昭和の初期までは境内に樹齢300~400年を数える杉の神木を初め、鬱蒼とした森やら大きな湧水池などがあり、稲荷森の名にふさわしい雰囲気はあったようですが、戦後になると物資の不足から境内の樹木を伐採して社務所を建設したり、大気汚染などにより枯れてしまったりして、周りの風景と共に味気ない感じの境内となっていったそうです。
現在の社殿は昭和44年(1969年)に建てられたもので、以前のものは神輿庫に改造され、 本殿の内宮は末社として外に祀られています。境内はあまり広くなく、夏に行われる盆踊りでは境内にある大きなイチョウの木を中心に櫓が組み立てられ、櫓の大木を中心に盆踊りが行われていたりします。