#24 ホアンキエム湖の主に出会う
ベトナム、ハノイ 2000年2月Hanoi,Vietnam / Feb.2000
町を散策していると、様々な動物に出会う。犬や猫は定番だが、東南アジアでは猿もよく目にするし、インドやネパールでは牛やヤギ、中東ではラクダや羊が普通に町中を歩いていて、文化や風土の違いを感じたりする。
とはいえ、こういった動物はある意味で想定の範囲内。料理で言うなら定番の香辛料のようなもので、見かけると気持ちが高ぶったり、旅情がより味わい深くなる、というくらいの存在である。
旅をしていると、強烈なスパイスが効いたとんでもない生き物に出会うこともある。
(*イラスト:ちゃむまっぴーさん 【イラストAC】)
ハノイに滞在していた時の出来事だが、細菌性食中毒になってしまったようで、酷い腹痛と熱に苦しんだ。翌朝も酷い状態だったら病院へ……と思っていたのだが、起きてみると、幾分身体は楽になっていた。
「世に名を轟かすような深刻な病気ではなさそうだ……」と、このまま静養して治すことに決めた。体がだるく、精神的に弱っている状態で、言葉の通じない異国の病院へ行くのは大変な気力がいるのだ。
そのまま宿で大人しく過ごし、一日半ほど休むと、かなり回復してきた。まだ時々お腹がゴロゴロ鳴ることがあるが、刺すような痛さとか、しんどさはなくなり、トイレへ駆け込むこともなくなった。頭の熱も引き、ボーっとしていたのも治まった。もう心配はしなくてもよさそうだ。
まだ万全な状態ではないが、宿で寝てばかりいるのもよくない。少し外の空気を吸ったり、歩いたほうが治りもいいに違いない。ということで、宿からさほど離れていないところにあるホアンキエム湖でのんびりと過ごすことにした。
ホアンキエム湖はハノイの中心部にある湖で、周囲は2㎞ほど。湖に沿って遊歩道が整備されている。ハノイ市民にとって一番の憩いの場になっているようで、いつ訪れても湖の周囲でくつろいでいる人が多い。
ゆっくりと遊歩道を歩いていくのだが、同じアジア人と言えども日本人が歩くと目立つ。物売りが次から次へと声をかけてきた。
いつもだったら相手にすることはないが、今日は暇な身。からかい半分で売り子の相手をしつつ、まず当たることがなさそうなくじを買ってみたりしながら、湖を半周した。
湖を半周したところで、何やら先の方で人だかりができ、雑然とした感じになっていた。何か事故でもあったのだろうか。
近づいてみると、人々は一様に湖を見つめていた。水死体が上がったとか、身投げでもあったのだろうか……。日本的な感覚でそんな不吉な想像を巡らせながら人々の視線の先を追うと、湖の中ほどに何かが浮かんでいるのが見えた。
やっぱり、水死体……? いや、みんなの落ち着き具合や楽しそうな雰囲気からすると、そうじゃない。よく目を凝らしてみると、何か生き物が泳いでいるようだ。
水死体ではないことに安心しつつ、一生懸命に目を凝らして水面を見つめるが、遠すぎて何の生物だかわからない。そうだ、望遠レンズだ。鞄にしまっていた望遠レンズをカメラに取り付けて覗いてみても、あまり変わらなかった。
「う~ん、なんだろう。大ナマズとか、アマゾンにいるような伝説的な巨大魚だろうか……」などと直感的に思うのだが、体の一部しか見えないのでは推測のしようがない。
周囲のベトナム人に交じってしばらく見つめていると、少しこっちに近づいてきた。水面から顔を出しているようだけど、あれは一体何だ。ワニにしては顔が小さいし、魚だったらこんな感じでずっと水面にいないよな。もしくは体が弱って酸欠状態でアップアップしているとか……。
あっ、もしかしてホアンキエム湖のホッシーとか……などと、色々と頭を巡らせるが、ない知識を絞ったところで解決するはずもない。見たことのない生物かもしれないし……。
それよりも気になったのが、水面を見つめるベトナム人たちの熱狂ぶりだった。まだ携帯電話が一般的ではなかった時代、湖に生き物がいるというだけで一体どこからこれだけの人数が湧いてきたのだろう。この状況をいまいち理解できないが、なんだか熱いものを感じる。
「一体何の生物だ……」「ベトナム人って暇なんだな……」そんなことを思いながら見つめていると、謎の生物は湖の中心の方へ離れていってしまったので、その場を離れることにした。
後で知ったことだが、あれはホアンキエム湖に住む伝説の大亀だったようだ。「伝説のカメが現れたぞ!」と、一目その姿を見ようと人々が集まってきたらしい。
カメの種類はシャンハイハナスッポン。淡水にすむカメでは最大を誇る。カメといえば、独特な模様の硬い甲羅を持ち、丸みを帯びた姿をしているものだと思い込んでいた。そのため、甲羅が柔らかく、のっぺりと恐竜のような姿をしたスッポン(シャンハイハナスッポン)を、カメだと認識できなかったのも無理はない。恐らく日本人の多くは、この姿を見てもカメとは認識できないのではないだろうか。
(*写真:wikipedia パブリック・ドメイン)
ちなみに……、おそらくこの個体だと思うが、2016年1月に死亡しているのが見つかった。日本でもニュースになったので覚えている人もいるだろう。その個体は体長185cm、甲羅の幅100cm、体重169kgで、現在は剥製にされ、湖内にある玉山祠で展示されている。
この「湖の主」は滅多に人前に姿を現さないことで有名で、ハノイ市民でも見たことのある人は少なく、目撃すると幸運が訪れると言われるほどだった。なので、あれだけの騒ぎになっていたらしい。
それがたまたま訪れた日本人観光客の私が目にすることができるとは……、何という偶然。そして幸運。
もしあの強烈な腹痛になっていなければ、この日、この時間に湖を訪れてはいなかっただろう。そう考えると、湖の主がはるばる日本からやって来た私に会うために、不思議な力で私のお腹を下したのではないか――。そんな妄想をしてしまうほど、それは奇跡的な対面だった。
そんな偶然で不思議なストーリーを含め、今なおこの時のことは他の旅の思い出とは違った「幻のスパイスのような出会い」として、私の中で記憶されている。
#24 ホアンキエム湖の主に出会う