世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.19

上馬の駒留八幡神社

世田谷の秋祭り File.4

駒留八幡神社例大祭

鎌倉時代後期、このあたりの地頭だった北条左近太郎入道成願は、八幡宮の勧請を誓い、乗った馬の留まったところに社殿を造ろうとした。これが現在の地で、馬が留まったところから駒留と名付けられたといわれる。戦国時代には吉良氏との縁も深く、常盤と死産した吉良頼康の子が祀られている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

鎮座地 : 上馬5-35-3 氏子地域 : 上馬1~5丁目、三軒茶屋、駒沢1~3丁目
御祭神 : 応神天皇、天照皇大神  社格 : 旧上馬村村社
例祭日 : 10月15日(神事)、10月15日以降の週末(こまどめまつり、神輿渡御)
神輿渡御 : 町会神輿4基、不定期で宮神輿が運行(前回平成21年、次回不明)
祭りの規模 : 小規模 露店数 : 25店程度
その他 : 奉納神楽(不定期)、奉納演芸が行われます。

*** 駒留八幡神社の写真 ***

駒留八幡神社入り口の写真
駒留八幡神社入り口

環八から少し入った路地沿いにあります。

駒留八幡神社の拝殿の写真
拝殿

古く、無骨な感じのする拝殿です。

駒留八幡神社境内の様子を写した写真
境内の様子

比較的広く、ゆとりのある境内です。

駒留八幡神社境内の様子を写した写真
神楽殿と本殿

 

駒留八幡神社境内の様子を写した写真
狛犬と松

松が印象に残る神社でした。

駒留八幡神社境内の様子を写した写真
祠が多くある地帯の入り口

左奥に常盤弁財天などの小さな祠が沢山ありました。

駒留八幡神社境内にある常盤弁財天を写した写真
常盤弁財天

現在では色が塗り替えられてきれいになっています。

駒留八幡神社境内の様子を写した写真
小さな祠

周辺から移動してきた祠が並びます。

* 上馬、三軒茶屋と駒留八幡神社について *

三軒茶屋といえば、国道246号(玉川通り)から世田谷通りが枝分かれする交差点付近を中心にした賑やかな商業地域です。現在では玉川通りの方が本筋ですが、一昔前は世田谷通りの方が大山道の本筋で、玉川通りの方は玉電が敷設されるまでは道が狭く、あまり人通りが多くありませんでした。

三軒茶屋の町自体も大まかに世田谷通りの北側が太子堂村、南側が馬引沢村に分かれていました。馬引沢村という名は現在ではなくなってしまいましたが、源頼朝に起源をもつ地名といわれています。頼朝が奥州征伐に向った際にこの地を通り(或いはこの地で狩りを行った際に)、乗馬していた愛馬が突然暴れて沢に落ち、従者が慌てて引き上げるものの、馬は死んでしまったそうです。その馬を供養して埋めた場所を芦毛塚とし、落ちた沢を芦毛田とし、後に馬引沢という名がこの地に付いたそうです。その他にもやはり頼朝に由来しますが、遠征に向かう途中この地で土砂崩れに遭い、「以後ここを渡る際は、馬を曳いて渡れ」と命じたのが由来とされるといった説もあります。

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江戸時代には馬引沢は一村でしたが、内部では上馬引沢(現在の上馬、駒沢の一部)、中馬引沢(現在の三軒茶屋)、下馬引沢(現在の下馬)に分かれていました。これは住民が勝手に分けていたもので、境界は曖昧だったそうです。村内には上馬引沢地域に駒留八幡神社、下馬引沢地域に駒繋神社があり、氏子地域でも分かれていました。

明治になるとそれぞれが村として独立するものの、明治12年には中馬引沢村が上馬引沢村に編入しました。後に上馬と下馬と略称が住所表記に使われることになりますが、中馬引沢村の部分は世田谷区の成立の際に三軒茶屋と名付けられたので、現在では上馬と下馬が隣接していないといった不自然な配置になっています。

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上馬引沢村の村社だったのが駒留八幡神社になります。神社の由緒は鎌倉時代にまでさかのぼり、徳治三年(1308年)に当時のこの地の領主だった北条左近太郎入道成願が信仰している八幡宮を召致した事に始まるようです。

その際に場所の選定に迷っていたところ、夢に八幡神が現れ「私を祀るところは愛馬に聞け」と言ったとかで、翌朝に馬の手綱を緩して気儘に歩かせ、馬の止まったところに経筒を埋めて、塚を築き、その上に本殿を建てたそうです。社号の駒留はそこからきているもので、最初は「経塚駒留八幡宮」と名付けられていました。

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その後室町時代になるとこの地は世田谷城を築いた吉良氏の領地となり、永禄年間(1558~70)には城主吉良頼康の側室であった常盤は策略により不義の疑いをかけられ、子どもを身籠もったまま自害するという事件が起きました。いわゆる常磐伝説です。

頼康は死産した子どもをこの神社に祀り、若宮八幡と改称しました。また、常盤を弁財天として厳島神社に祀ったとされています。ただこれはあくまでも伝説なので、似たような、或いは違った経緯で若宮八幡宮と改称したのかもしれません。

時代が進んで江戸時代の天和二年(1682年)には当地を知行した旗本大久保忠誠が社殿の寄進と石段の修理を行っています。明治になり、5年には村社に列格、40年には社号を駒留八幡宮と改称し、42年には村内の天祖神社が合祀されています。その後昭和41年には社務所、神楽殿、神輿庫などを改築し、昭和53年にはおよそ250年前の作と推測されている絢爛豪華な宮神輿を修復するなどして現在にいたっています。

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現在の駒留八幡神社は環七と世田谷通りが交わる若林交差点の近く、環七からほんの少し入った場所にあります。地図を見て知ったのですが、弦巻通りと駒留通りと環七が交差する陸橋は駒留八幡に因んで駒留陸橋で、世田谷通りが環七と交差している橋は常磐伝説にちなんで常盤陸橋という名が付けられているのですね。日本を代表する大動脈にも世田谷の古き良き時代の名残を見て取れるのはうれしいものです。

話を戻すと、神社は交差点付近にありながら結構落ち着いた感じのたたずまいです。神社入り口は細い路地にあり、近年塗り替えられた一の鳥居をくぐり、少し階段を上ったら二の鳥居があり、狛犬や神楽殿、本殿があります。境内は平坦で、あまり趣があるとは言えませんが、鳥居付近や社殿前に何本か立派な松が植えられていて、飾り気のないちょっと渋めの社殿と相成って部分的には重厚な印象も受けます。

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本殿は経筒を埋めて、塚を築いたという伝説があるようにこんもりともられた上に建てられています。社殿の左手には鳥居があり、その先には多数の小さな社が祀られています。これらは旧上馬引沢村と中馬引沢村に祀られていたものです。

その中でも比較的大きかった天祖神社だけは本殿に合祀したので現在の祭神は八幡神社の応神天皇と天祖神社の天照皇大神となっています。そして一番奥には伝説の常磐弁財天が人工の池に囲まれた形で祀られています。しかしながらコンクリートでできた人口の池には水が溜められる気配がなく、ちょっと侘しい雰囲気でした。

*** 秋祭りの様子 ***

秋祭りのポスターの写真
秋祭りのポスター

 

秋祭りの時の境内の様子を写した写真
秋祭りのときの入り口

屋台が並んで賑やかな感じになります。

秋祭りの時の境内の様子を写した写真
拝殿

長い行列ができるまで混雑はしないようです。

秋祭りの時の境内の様子を写した写真
祭りの時の常磐弁財天

子供たちの遊び場になっていました。

秋祭りの時の境内の様子を写した写真
境内

雨でも結構賑わっていました。

秋祭りの時の境内の様子を写した写真
屋台

多くの屋台が出て賑やかです。

秋祭りの時の奉納演芸の様子を写した写真
奉納演芸

舞踊が中心です。

秋祭りの時の獅子舞の様子を写した写真
獅子舞

若駒連によって奉納されます。

* 駒留八幡神社の秋祭りについて *

駒留八幡神社の例大祭は毎年10月15日に本祭、前日に宵宮が行われていましたが、今では氏子などの都合により神事のみ15日の午前中(たぶん10時半頃)にひっそりと社殿内で行われ、それ以外の行事は15日以降の週末に「こまどめまつり」として行われています。

かつては宮司舞として天の岩戸などの神楽が行われていたり、上馬ばやしも盛んに行われていたそうですが、多くの人が舞や囃子の意味が分からなくなってきたことから昭和30年頃には行われなくなってしまったそうです。現在では後に結成された駒留お囃子若駒連がお囃子を努め、祭りの余興や神輿渡御などを盛り上げています。

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祭礼は特別なときにだけ運行される宮神輿の時と、そうでない通常の時とでは色々と行事内容が違いますが、境内の雰囲気とかはほとんど変わらないので普通にお参りしている人にはそう大差ないかもしれません。

通常の時の祭礼では土曜、日曜の夕方から神楽殿にて奉納演芸が行われます。演芸の内容は地域の舞踊会などの舞が中心です。下馬の駒繋神社でも民舞が盛んに行われているので、世田谷の中でも旧馬引沢村地域では舞踊が伝統的に盛んなのかもしれません。

その他に若駒連による獅子舞などが奉納されます。日曜日は各町会の神輿渡御が行われ、夕方前になると各町会の神輿が神社に宮入してきて静かだった境内が一気に賑わいます。年によって連合でやってきて勢揃いしたり、次々と個別にやって来たりするようです。

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宮神輿が運行されるときには、本祭の日の朝早くに神社から神輿は宮出しされ、各町会を順番に巡っていき、夜に戻ってきます。夜の宮入の時にはかなり盛り上がります。それ以外では、これは平成21年に行われたときが特別だったのかもしれませんが、東京都地域の底力再生事業助成の対象事業に指定され、国際交流として外国人の担ぎ手を募集していたり、伝統文化の継承として常磐塚などの講話が行われたり、そういったパネルが展示されていたりしました。また若駒連によって神楽が一時間ほど行われていたりしました。

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駒留八幡神社の境内はそこそこ広いので、多くの屋台が境内に並びます。普段はひっそりとしていますが、祭礼となるととても賑やかな感じになります。昼間はそうでもないのですが夕方にもなると多くの人が訪れ、かなり華やかな感じになります。

ちょうど祭礼と同じ日に三軒茶屋では三茶de大道芸といった町を挙げての大道芸のイベントが行われているので、幾分客の取り合いになっている感じはしますが、大道芸を見終わったら神社に寄って拝んだり祭りの雰囲気を楽しんで、ついでに何か屋台で買って帰るといった人もいるような感じでした。

*** 駒留八幡神社の町会神輿 ***

一三睦の神輿渡御の様子を写した写真
環七の駒留陸橋下を進む一三睦神輿
一三睦の神輿渡御の様子を写した写真
宮入してきた一三睦神輿
東西陸の神輿渡御の様子を写した写真
東西陸奥の高張り
東西陸の神輿渡御の様子を写した写真
東西睦の宮入
茶屋睦の神輿渡御の様子を写した写真
茶屋睦の渡御
茶屋睦の神輿渡御の様子を写した写真
茶屋睦の宮入
宮元睦の神輿渡御の様子を写した写真
若駒連のお囃子と宮元睦神輿
宮元睦の神輿渡御の様子を写した写真
宮元睦の渡御

駒留八幡神社の町会神輿渡御について

駒留八幡神社には宮元、茶屋、一三、東西の4つの睦会が所属しています。それぞれの睦会の町域は聞きそびれてしまったので詳しくは分かりませんが、戦前は向組、西組、東組、三茶組に分かれていた事から推測するに、宮本は旧向組で上馬4、5丁目あたり、茶屋は旧三茶組でかつての中馬引沢村にあたる三軒茶屋1、2丁目、一三と東西は新たに駒沢という町名が戦後につくられたことで統合、分裂し、駒沢から外れた西組が東組に合流し、上馬1、2、3丁目が東西、駒沢1、2丁目と3丁目の東部が一三といった感じになるのではないでしょうか。

こうしてみると氏子地域自体は広大というほど広くはないのですが、現在の町名では上馬、三軒茶屋、駒沢と分かれ、最寄り駅も田園都市線の三軒茶屋と駒澤大学、或いは世田谷線と分かれています。更には町域を交通の大動脈である環八が南北に、国道246号が東西を十字のように横切っているというか、大河のように分断しているので、大袈裟に言うなら様々な文化圏が存在しているのが駒留八幡神社の氏子地域の現状です。そのためなのか、なんとなく見ていて睦会同士距離が少しあるかなといった雰囲気を感じました。

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宮神輿が運行される特別な場合を除いてそれぞれの御神輿が町会を回って夕方頃に環七の駒留陸橋下にやってきて、神社に宮入します。私が訪れたときはそれぞれの睦会の神輿が神社に宮入してきて、そして出て行き、次が入ってくるといった宮入でしたが、年によっては連合宮入という形で四町会が一気に宮入してきて境内に勢揃いするようです。宮入は一の鳥居から続く参道を通るのではなく、環七の側道側にある通路が使われます。

町会神輿は各睦会のスケジュールによって運行されていて、神社周辺の宮元睦神輿、宮元奨和会の場合、宵宮には子供神輿と山車が午後に運行され、大人神輿も夕方1時間ほど運行されます。本宮の日は午前中、山車のみが運行され、大人神輿も同時に出発して、一日中町内を周り、夕方神社に宮入し、その後御酒所に戻って終了といったスケジュールでした。

宮元の場合は神輿の前を若駒連のお囃子が進みます。担ぎ手には若い人も多く、それなりに大所帯で賑やかな感じの渡御です。一三睦と東西睦は年配の方が多く、こぢんまりとした感じの渡御でした。一番賑やかなのは茶屋睦で、さすがは三軒茶屋の商店街が氏子地域だけはあるといった感じです。また夏には商店街で阿波踊りも行っているので比較的普段から地域でまとまっているのでしょう。

*** 宮神輿渡御の様子 ***

運行前の神事の写真
運行前の神事

多くの人が見守っていました。

宮出しの写真
宮出ししてきた宮神輿

すぐにトラックでの移動になります。

トラックに載せるの写真
トラックでの移動

大きいので何をするにしても大変です。

商店街を渡御する写真
商店街を進む神輿

阿波踊りで知られる南口の栄通り商店街です。

宮入の様子を写したの写真
宮入してきた神輿

普段とは比べものにならないほどの賑わいでした。

宮入の様子を写した写真
宮入の様子

境内が人であふれていました。

駒留八幡神社の宮神輿渡御について

現在世田谷にある神輿のほとんどは昭和に建造されたもので、古くても大正時代です。昔の世田谷は純農村地帯だったので人口は少なく、村民がお金を出し合って立派な神輿を買えるほど裕福でもなかったため、祭りで担がれる神輿といえば樽でつくった樽神輿が中心でした。

関東大震災後の人口流入、鉄道が敷かれたことで宅地化が進んだ結果、人が増え、地価の高騰などにより氏子の生活も少し余裕ができ、神輿を建造できるようになりました。隣町が神輿を買ったと聞けば我が町にもといった感じで昭和初期には次々と御神輿がつくられました。神輿は浅草に注文するのが主流で、江戸神輿(三社型)がほとんどです。そんな世田谷にあって唯一例外で特別な神輿がここ駒留八幡神社にある宮神輿です。

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駒留八幡神社の神輿は元々この神社にあったものではなく、大正時代に縁あって赤坂氷川神社より譲り受けたものです。神輿には江戸時代の宝暦12年(1762)、文化15年(1818)、天保10年(1839)の銘があり、今より250年程前の神輿だと言われています。

神輿の形も一般的な江戸神輿(胴体の部分がくびれている)とは異なり、その一時代前の形を残している鳳輦型(胴体が箱形になっている)と呼ばれるもので、東京にも数基しかない貴重なものです。大きさも台座が5尺、高さが6尺、重さ約90貫(約300kg)と大きく、担ぎ棒も親棒が6m、脇棒が5.5mあり、大きさとしてもなかなか立派なものです。この神輿は長年担がれることなく神輿庫に傷んだまま置かれていましたが、昭和53年に氏子の方々によって修復が行われ、再び担がれるようになりました。

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再び担がれるようになったとはいえ、貴重な神輿だけあって特別なときにしか担がれることがありません。近年では担がれた回数は数回を数えるほどだとか。特別な時というのは昭和や平成の始まりの御大典といった時代の節目、天皇陛下在位何十周年といった記念年といった皇室に関わる事が中心ですが、西暦の20世紀から21世紀になった折にも時代の節目として渡御が行われました。

一番最近では平成21年に天皇在位20年を祝した際で、その前は西暦で21世紀になった平成13年、その前は平成2年に平成の御大典、その前は昭和2年に昭和の御大典で担がれたようです。昭和2年から平成2年まで63年間隔が開いていますが、それは神輿が壊れていたためで、これからは睦会同士のもめ事などがない限り、少なくても10年に一回は天皇陛下在位何十周年記念で担がれる事になりそうです。

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宮神輿の運行は本祭の日曜日に行われ、平成21年の場合は宮出しが8時45分で、宮入が18時でした。当日は朝7時頃から準備が始まり、神輿が御輿舎から出され、飾り付けや担ぎ棒が取り付けられていました。8時から各町会などの代表が出席し拝殿前にて神事が行われ、それが終わるといよいよ宮出しとなります。

宮神輿が担がれるときにはそれぞれの町会の半纏ではなく、4町会が揃い半纏を着て担ぎます。そして担ぐのにもルールがあり、担ぎ棒は縦に四本あり、宮入と宮出しの時には縦棒ごとに町会が割り振られていました。宮出しと宮入は町会神輿の時もそうですが、鳥居のある参道を抜けて行われるのではなく、神楽殿の横にある環七の側道に抜ける通路が使われます。ちょっと味気ない感じですが、スムーズに出入りは出来ます。

各町会の渡御は持ち回りで順番が決められるようで、町会から町会への移動は基本的にトラックが使われます。そのため神社から宮出しが行われたら30m程で一旦納めて、トラックの荷台へ積み込んでいました。宮入も神社近くの駒留陸橋付近に運ばれてきて、そこから宮入道中が行われます。

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各町会での渡御も揃いの半纏で行われるので、飛び入りとか部外者はお断りのようです。やはり大きな神輿が自分たちの町に来るのはうれしいようで、担ぎ手の顔はうれしそうでしたし、沿道での見守る人もうれしそうな顔をしていました。

かつては大神輿が担がれるときは神幸祭といった形で金棒、伶人、馬上の神主、天狗に紋付羽織姿の各総代が神輿の前を進み、神輿の担ぎ手は白い装束に鳥帽子といった格好で静かに整然と担いでいたそうです。といってもこれは戦前の話で、近年までずっと神輿が壊れていて担がれることがなかったので、今ではそういった時代絵巻のようなことは行われなくなってしまいました。ちなみに訪れたときは、理由は分かりませんが、担ぐのをボイコットする町会があり、せっかくの宮神輿渡御なのにちょっと後味の悪い宮入となっていました。

* 駒留八幡神社例大祭の感想 *

駒留八幡神社は世田谷にあって中世の伝説が残る数少ない神社です。かつて吉良氏によって若宮八幡と名付けられたこと、神社の奥にある常磐弁財天、そして神社の近くにある常磐塚など鷺草伝説になぞられた事柄が多くあります。

しかしながら常磐弁天の池が干上がってしまっているのが象徴的なように、一昔前には世田谷区の案内板にもさぞ鷺草伝説が本当にあったかのように書かれていたのが、今では伝説と現実が混乱するという理由なのか、架空の人物といった記述が目立つようになってしまいました。伝説はあくまでも伝説にすぎませんが、そういった話が残っていること自体がとても魅力的であり、駒留八幡神社の魅力の一つに違いありません。

それに東京でも珍しい古神輿があるというのもこの神社ならではであり、神社自体の特異性、珍しい神輿があるといった事など世田谷区の秋祭りの中でも特徴的な部類に入ります。

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神社の境内には多くの出店が出て、多くの参拝客で賑わい、神楽殿では奉納演芸が行われと秋祭りの雰囲気はなかなかいいものでした。しかしながら神輿渡御については微妙にギスギスしたもの感じてしまいました。

この地域はかつて大きな馬引沢村でした。それを住民が勝手に上馬引沢、中馬引沢、下馬引沢に分け、明治になって正式にそれぞれが村となりますが、中馬引沢村は上馬引沢村に合流したり、上馬の住所も三軒茶屋、駒沢と分裂してしまったり、歴史的にちょっと複雑です。

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更には氏子地域は大動脈である環八や玉川通り(国道246号)が整備されたことで分断されてしまい、商業圏も三軒茶屋駅周辺と駒澤大学駅周辺と分かれていたりして更に複雑さを増しています。同じ町名で何丁目と何丁目が仲が悪いという話はそこまで多くないものですが、やはり町名が違うと細かい積み重ねで色々とあるのかもしれません。

まあどこでも町域間の微妙な壁というのはあったりしますが、めったに担がれない宮神輿の渡御中にボイコットが行われたりするのはちょっと他よりも壁が高いのかなと感じてしまいました。

<せたがや百景 No.19 上馬の駒留八幡神社 2008年6月初稿 - 2015年10月改訂>
( 世田谷の秋祭り File.4 駒留八幡神社例大祭 )