* 上馬と駒留八幡神社について *
三軒茶屋は国道246号(玉川通り)から世田谷通りが枝分かれする交差点を中心とした賑やかな商業地域です。
現在では玉川通りの方が本筋となっていますが、一昔前は世田谷通りの方が大山道の本筋で、玉川通りの方は玉電が敷設されるまでは道が狭く、あまり人通りが多くありませんでした。
三軒茶屋の町自体も大まかに世田谷通りの北側が太子堂村、南側が馬引沢村に分かれていました。馬引沢村という名は現在ではなくなってしまいましたが、源頼朝に起源をもつ地名といわれています。
頼朝が奥州征伐に向った際にこの地を通り(或いはこの地で狩りを行った際に)、乗馬していた愛馬が突然暴れて沢に落ち、従者が慌てて引き上げるものの、馬は死んでしまったそうです。その馬を供養して埋めた場所を芦毛塚とし、落ちた沢を芦毛田とし、後に馬引沢という名がこの地に付いたそうです。
その他にもやはり頼朝に由来しますが、遠征に向かう途中この地で土砂崩れに遭い、「以後ここを渡る際は、馬を曳いて渡れ」と命じたのが由来とされるといった説もあります。
江戸時代には馬引沢は一村でしたが、内部では上馬引沢(現在の上馬、駒沢の一部)、中馬引沢(現在の三軒茶屋)、下馬引沢(現在の下馬)に分かれていました。
明治になるとそれぞれが村として独立するものの、明治12年には中馬引沢村が上馬引沢村に編入しました。
後に上馬と下馬と略称が住所表記に使われることになりますが、中馬引沢村の部分は世田谷区の成立の際に三軒茶屋と名付けられたので、現在では上馬と下馬が隣接していないといった不自然な配置になっています。
上馬引沢村の村社だったのが駒留八幡神社になります。
神社の由緒は鎌倉時代にまでさかのぼり、徳治三年(1308年)に当時のこの地の領主だった北条左近太郎入道成願が信仰している八幡宮を召致した事に始まるようです。
どこに神社を祀ろうか。場所の選定に迷っていたところ、夢に八幡神が現れ「私を祀るところは愛馬に聞け」と言ったとかで、翌朝に馬の手綱を緩して気儘に歩かせ、馬の止まったところに経筒を埋めて、塚を築き、その上に本殿を建てたそうです。
社号の駒留はそこからきているもので、最初は「経塚駒留八幡宮」と名付けられていました。
その後室町時代になるとこの地は世田谷城を築いた吉良氏の領地となります。
そして永禄年間(1558~70)には城主吉良頼康の側室であった常盤は策略により不義の疑いをかけられ、子どもを身籠もったまま自害するという事件が起きました。いわゆる常磐伝説です。
頼康は死産した子どもをこの神社に祀り、若宮八幡と改称しました。また、常盤を弁財天として厳島神社に祀ったとされています。
ただこれはあくまでも伝説なので、似たような、或いは違った経緯で若宮八幡宮と改称したのかもしれません。
時代が進んで江戸時代の天和二年(1682年)には当地を知行した旗本大久保忠誠が社殿の寄進と石段の修理を行っています。
明治になり、5年には村社に列格、40年には社号を駒留八幡宮と改称し、42年には村内の天祖神社が合祀されます。
その後昭和41年には社務所、神楽殿、神輿庫などを改築し、昭和53年にはおよそ250年前の作と推測されている絢爛豪華な宮神輿を修復するなどして現在にいたっています。
駒留八幡神社は環七と世田谷通りが交わる若林交差点の近く、環七からほんの少し入った場所にあります。
地図を見て知ったのですが、弦巻通りと駒留通りと環七が交差する陸橋は駒留八幡に因んで駒留陸橋で、世田谷通りが環七と交差している橋は常磐伝説にちなんで常盤陸橋という名が付けられています。
日本を代表する大動脈にも世田谷の古き良き時代の名残を見て取れるのはうれしいものです。
神社入り口は細い路地にあり、近年塗り替えられた一の鳥居をくぐり、少し階段を上ったら二の鳥居があり、狛犬や神楽殿、本殿があります。大きな交差点付近にありながら結構落ち着いた感じのたたずまいです。
境内は平坦で、あまり趣があるとは言えませんが、鳥居付近や拝殿前に何本か立派な松が植えられていて、飾り気のないちょっと渋めの建物と相成って部分的には重厚な印象も受けます。
拝殿の後ろの本殿は経筒を埋めて塚を築いたという伝説もなぞられてなのか、こんもりと盛られた土の上に建てられています。
拝殿の左手には鳥居があり、その先には小さな社が幾つも祀られています。沢山の社が結構な数並んでいるので、この一角は雰囲気が少し神秘的な感じがします。
これらの社はかつて旧上馬引沢村と中馬引沢村に祀られていたもので、合祀令や宅地開発などの際に移されました。中には女塚社といった謂れが気になるものもありました。
一番奥には伝説の常磐弁財天(厳島神社)が人工の池に囲まれた形で祀られています。コンクリートの池が設置されているのですが、水が溜められる気配がなく、ちょっと侘しい雰囲気でした。
* 駒留八幡神社の秋祭り *
駒留八幡神社の例大祭は毎年10月15日に本祭、前日に宵宮が行われていましたが、今では氏子などの都合により神事のみ15日の午前中(たぶん10時半頃)にひっそりと社殿内で行われ、それ以外の行事は15日以降の週末に「こまどめまつり」として行われています。
駒留八幡神社の境内はそこそこ広いので、多くの屋台が境内に並びます。特に飲食関係の店が充実していて、普段はひっそりとしている境内がとても賑やかな感じになります。
ちょうど祭礼と同じ日に三軒茶屋では三茶de大道芸といった町を挙げての大道芸のイベントが行われます。昼間は大道芸の方に人が流れていますが、夜になると大道芸を見終わった人や地元の人が集まってくるといった感じです。
土曜、日曜の夕方から神楽殿にて奉納演芸が行われます。演芸の内容は地域の舞踊会などの舞が中心です。下馬の駒繋神社でも民舞が盛んに行われているので、世田谷の中でも旧馬引沢村地域では舞踊が伝統的に盛んなのかもしれません。
その他に若駒連によってお囃子や獅子舞が奉納されます。かつては宮司舞として天の岩戸などの神楽が行われていたり、上馬ばやしも盛んに行われていたそうですが、多くの人が舞や囃子の意味が分からなくなってきたことから昭和30年頃には行われなくなってしまったそうです。
その後伝統芸能を復活させようと結成されたのが駒留お囃子若駒連で、現在では祭りの余興や神輿渡御を盛り上げています。
日曜日は各町会の神輿渡御が行われます。駒留八幡神社には宮元、茶屋、一三、東西の4つの睦会が所属していて、それぞれの町域を回った後、夕方前になると神社に宮入してきます。
宮入は年によって連合でやってきて勢揃いしたり、次々と個別にやって来たりします。どちらにしても静かだった境内が一気に賑わい、境内が熱気にあふれます。
* 駒留八幡神社の宮神輿 *
現在世田谷にある神輿のほとんどは昭和に建造されたもので、古くても大正時代です。昔の世田谷は純農村地帯だったので人口は少なく、村民がお金を出し合って立派な神輿を買えるほど裕福でもなかったため、祭りで担がれる神輿といえば樽でつくった樽神輿が中心でした。
関東大震災後の人口流入と下町からのとび職人の移住によって江戸の神輿文化が根付いていきました。また鉄道が敷かれたことで宅地化が進み、氏子の人口が増えたことで神輿を建造できるようになりました。
隣町が神輿を買ったと聞けば我が町にもといった感じで昭和初期には次々と立派な神輿がつくられました。
神輿は浅草に注文するのが主流で、江戸神輿(三社型)がほとんどです。そんな世田谷にあって唯一例外で特別な神輿がここ駒留八幡神社にある宮神輿です。
駒留八幡神社の宮神輿は、江戸時代の宝暦12年(1762)、文化15年(1818)、天保10年(1839)の銘があり、今より250年程前の神輿だと言われています。
神輿の形は世田谷で一般的な江戸神輿(胴体の部分がくびれている)とは異なり、その一時代前の形を残している鳳輦型(胴体が箱形になっている)と呼ばれるもので、この型の古神輿は東京にも数基しかなく貴重なものです。
大きさも台座が5尺、高さが6尺、重さ約90貫(約300kg)と大きく、担ぎ棒も親棒が6m、脇棒が5.5mあり、大きさとしてもなかなか立派です。
この神輿は元から神社にあったものではなく、大正時代に縁あって赤坂氷川神社より譲り受けたものです。長年担がれることなく神輿庫に傷んだまま置かれていましたが、昭和53年に氏子の方々によって修復が行われ、再び担がれるようになりました。
再び担がれるようになったとはいえ、貴重な神輿だけあって特別なときにしか担がれることがありません。
特別な時というのは昭和や平成の始まりの御大典といった時代の節目、天皇陛下在位何十周年といった記念年といった皇室に関わる事が中心ですが、西暦の20世紀から21世紀になった折にも時代の節目として渡御が行われました。
一番最近では平成21年に天皇在位20年を祝した際で、その前は西暦で21世紀になった平成13年、その前は平成2年に平成の御大典、その前は昭和2年に昭和の御大典で担がれたようです。担がれない年も境内の左手にある神輿舎で飾られているので是非ご覧になってください。
宮神輿が運行される年は、本祭の日の朝に神社で神事が行われ、神輿が宮出しされ、各町会を順番に巡っていき、夜に戻ってきます。
かつては大神輿が担がれるときは神幸祭といった形で金棒、伶人、馬上の神主、天狗に紋付羽織姿の各総代が神輿の前を進み、神輿の担ぎ手は白い装束に鳥帽子といった格好で静かに整然と担いでいたそうです。
といってもこれは戦前の話で、神輿が壊れていて近年まで担がれることがなかったので、今ではそういった時代絵巻のようなことは行われなくなってしまいました。
各町会の渡御は持ち回りで順番が決められ、町会から町会への移動はトラックが使われます。
各町域ではやはり大きな神輿が自分たちの町に来るのはうれしいようで、担ぎ手の顔は誇らしそうでしたし、沿道での見守る人もうれしそうな顔をしていました。
各町域を回った後は、町会神輿と同じように駒留陸橋近くから神社に向けて宮入が行われます。クライマックスとなる宮入には大勢の担ぎ手と観客が集まり、神社に神輿が入ってくると境内は熱気に包まれます。
* 感想など *
常盤伝説所縁の駒留八幡神社。境内は立派な松が植えられていて、武骨な感じの社殿と相成って素晴らしい空間となっています。特に薄暗くなってからは伝説の世界に吸い込まれそうな雰囲気になります。
しかしながら常磐弁天の池が干上がってしまっているのが象徴的なように、一昔前には世田谷区の案内板にもさぞ鷺草伝説が本当にあったかのように書かれていたのが、今では伝説と現実が混乱するという理由なのか、架空の人物といった記述が目立つようになってしまいました。
伝説はあくまでも伝説にすぎませんが、そういった話が残っていること自体がとても素晴らしいことであり、駒留八幡神社の魅力の一つになっているように思います。
せたがや百景No.19 上馬の駒留八幡神社
ー 風の旅人 ー
2018年11月改訂