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せたがや地域風景資産 No.3-4

下馬、野沢の道と人を見守る古道沿いの三猿

寛文十(1670)年、11名の方によって立てられた三猿が刻まれた庚申塔である。街道から邪悪な物や病気が入らないようにという想いが込められているという。(紹介文の引用)

・場所 : 野沢1-9-31
・登録団体など : 三猿の会
・備考 : ーーー

*** 下馬、野沢の道と人を見守る古道沿いの三猿の写真 ***

庚申塔の写真
庚申塔のある風景

通り沿いにさりげなくあります。

庚申塔の写真
古道と庚申塔

住宅街の一角で、古道といった感じはしません。

庚申塔の写真
庚申塔

お花が供えてありました。

庚申塔の写真
三猿

結構ボロボロです。

* 下馬、野沢の道と人を見守る古道沿いの三猿について *

野沢の住宅街の中にポツンと庚申塔が祀られています。目の前の通りはかつての旧道にあたるようですが、大掛かりに耕地整理が行われた地域なので、少なくとも庚申塔がある付近ではその面影はなく、今では普通の住宅地の一画にあるといった感じです。

この庚申塔が風景資産に選定されたのですが・・・、庚申塔が祀られている様子が特徴的な光景というわけでもなく、これといった凄い曰くがあるわけでもなく、庚申塔自体も珍しいといえば珍しいし、ありふれているといえばありふれているといった存在なので、なんていうか説明に困ってしまいます。簡単に言ってしまえば道端にあるお地蔵様と同じ・・・で済ませてはいけないですね。

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庚申塔というのは奈良時代に中国から伝わったとされる庚申信仰に基づいて祀られた石像です。庚申信仰の「庚申」というのは干支の組み合わせの一つで、十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせると全部で60通りの組み合わせができ、その一つが「庚申(かのえさる)」となります。

これを暦に当てはめると60日ごとに庚申の日、60年に一度庚申の年が巡ってくることになります。これだけだとなぜ庚申なのか、なぜ庚申だけが信仰されるのかわかりませんが、庚申信仰の核は中国道教の教えにある「三尸説(さんしせつ)」にあります。

三尸というのは人の身体の中にいる虫の事で、厄介なことに60日毎に巡ってくる庚申の日の夜、人々が眠りにつくと天帝にその人の悪行を報告するために体を抜け出してしまいます。そして三尸からの報告を聞いた天帝は罪の軽重に応じて寿命を縮め、時には命を奪ってしまうとされています。よって長く生きたければ庚申の日は三尸が体内から抜け出さないようにしなければならなく、そのためには眠らないで身を慎む行為、「庚申待(守庚申)」を行うのが庚申信仰になります。って、普段からいい行いを心がけようといった考え方にはならないのですね・・・。

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これが基本的な庚申信仰となるのですが、まあ人間というのはそう真面目な生き物ではありません。眠らないようにしてごまかしている時点で悪徳を積み重ねているのです。でも恐らく伝わった初期のころは庚申の夜は家族で、あるいは集落で厳かに過ごすのが普通だったと思うのですが、夜に人が集まれば・・・というやつで、平安時代のころから「2ヶ月に一度の楽しい夜通しの宴会の日」となってしまい、娯楽の乏しかった時代だったので全国の村々に一気に広がっていきました。

こういった庚申信仰をともに行う集団を「庚申講」というのですが、結局庚申講に限らず信仰の講というのは娯楽の乏しい時代では信仰に名を借りた宴会だったり、旅行だったりすることが多いものです。また庚申信仰自体も時代とともに仏教や神道の影響を受けて発展していき、地域によっては土着の信仰や風俗と融合するなど、色々な信仰が合わさった複合信仰として定着していきました。特に江戸時代には多くの人に熱心に信仰され、日本各地に多くの庚申塔が建てられました。

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そして本題の庚申塔ですが、庚申信仰では60年に一度の庚申の年に庚申塔を建立することを原則としました。庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)から後期にかけてで、近代化が行われた明治時代になると政府から迷信と位置付けられ、主要街道に置かれたものなどは街道整備の際などに撤去されていきました。

世田谷などの都心部では庚申塔は神社の境内に移動されていたり、道に置かれていてもこの野沢のように住宅地に埋もれていますが、地方などでは道の交差している箇所や集落の入り口などに道祖神など他の石神(または石碑)と一緒に置かれている例が多いです。これは庚申信仰が地域の「塞の神」と融合した例で、ムラの辻の守り神として集落に邪気や疫病などが入ってこないようにといった道祖神と同じ役割を担っています。

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庚申塔は小さな石像であることがほとんどですが、その種類は結構あります。江戸初期のころは石像に彫られる主尊は一般的には青面金剛や三猿像が多かったのですが、神道の影響を受け猿田彦の命だったり、阿弥陀、地蔵など地方によってはそれ以外の様々なバリエーションもあり、主尊が定まっていませんでした。中期になると徐々に青面金剛像が主流となり、江戸後期ころには「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみが彫られるようになります。

庚申が風邪、咳などの治病神、あるいは作神、福神、賽の神など様々な信仰や風習と結びついたためにその形式や祀られている場所も色々とあるのです。とりわけ「庚申」の「申」から猿が庚申の使いとされ、特に「見ざる」「言わざる」「聞かざる」の三猿を描いたものはユニークであり、駄洒落大好きな日本の信仰らしいかなと思います。

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庚申信仰や庚申塔の説明が長くなってしまいましたが、この野沢の庚申塔は紹介文の説明によると寛文十(1670)年、11名の方によって建てられたようです。比較的初期のころのものなのでシンプルな三猿が描かれています。さすがに近づいてみると、お猿さんの顔の部分の彫りは浅くなっていて350年の月日の流れを感じます。今でも信仰があるようで訪れたときは花が備えてありました。だからこそ地域風景資産に選定されたのでしょうが・・・・。

この近く、同じ旧道沿いとなるのか分かりませんが、野沢稲荷神社の敷地の北側の角の小さなお堂の中にも庚申塔が祀られています。この庚申塔には「元禄八年野沢村」と刻まれていて、1695年17世紀末には野沢村が成立していたことを示す貴重な資料となっています。

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この他にも区内には特徴のある庚申塔があり、尾山台にある八幡神社境内にある庚申塔では青面金剛像が十字架のようなものを持っています。この地域には隠れキリシタンが多くいてキリスト教と融合したのだろうか?と想像が膨らみます。また太子堂の門前にある大けやき内に祀られている庚申塔は今なお庚申塔らしい雰囲気があっていいものです。この他にも区内には多くの庚申塔が残っていますが、その多くは耕地整理や区画整理の際に神社や寺の境内、資料館などに移されています。

<地域風景資産 No.3-4、下馬、野沢の道と人を見守る古道沿いの三猿 2014年6月初稿 - 2015年10月改訂>