* 旧横根村と横根稲荷神社について *
環八と世田谷通りが交わる交差点は三本杉陸橋です。環八の東名高速の交差点から三本杉陸橋にかけての西側は砧公園や清掃工場、世田谷市場と大きな敷地が続きます。現在の住所では大蔵になりますが、かつてこの付近には世田谷で最小の横根村がありました。横根というのは横野、横沼といった言葉と同じで、外れにある野原や沼を意味する言葉だとされています。実際にこの付近は人家は少なく、文化・文政期(1804年から1829年)に書かれた「新編武蔵風土記稿」にも民家9軒と記されているような寒村でした。
江戸時代には村の大部分が旗本領でした。文化十年(1813年)以前にその旗本領以外は大蔵村に併合され、明治8年に残りの全てが大蔵村に編入され、横根村は消滅します。
その時でも村内に建っていた家屋は20軒ほどだったそうです。ちなみに環八を挟んだ北東には桜丘、桜と旧世田谷村の地域がありますが、桜丘や桜にも小字として横根という地名が幾つかありました。稲荷森稲荷神社の横根睦などがその名残ですが、ここの横根村とは関係ありません。
三本杉陸橋の少し南側に世田谷通りの旧道が残っています。くねくねと曲がりくねり、道幅は狭く、高低差もありと走りにくい道です。そしてNHK技研のところで現在の世田谷通りと合流します。この道沿い、環八から西へ向かい、谷戸川へ下りかけたカーブのところに大蔵庚申神社の祠があり、そこから南に道をそれた先に横根稲荷神社があります。
鳥居の真ん前が世田谷市場というのもある意味凄い立地ですが、かつての横根村で稲荷講を中心として篤い崇敬と深い信仰をあつめてきた神社です。三本杉という地名もこの神社の境内にあった根元部分に洞穴が空き、上部が三つ叉に分かれている杉の大木に由来していて、神社も三本杉のお稲荷さんと人々から親しまれていたとか境内の案内板にありました。
この神社は清水氏宅にあった屋敷社が起源になるそうです。しかしながら村は明治8年に大蔵村に編入され、明治41年には合祀令により、本村の氷川神社に合祀される事となってしまいました。合祀後はこの地で天災や疫病が続き、これはお稲荷様の祟りじゃ!ということで祠を跡地の隅に建てて祀ったそうです。戦後になると合祀令が解け、新たに京都伏見稲荷より稲荷神社を勧請し直し、社殿を建てて神社としました。
ちなみに旧道から南側、現在清掃工場がある付近は瀬田村でした。小字が三本杉と付けられていて、その名前の由来はこの地を開いたときに三本の杉を残したからだとか。別の文献では横根稲荷神社の境内に三本の大きな杉があったからと書かれていたり、単純明快そうな三本杉という地名も一筋縄ではいかないようです。
横根稲荷神社は規模の小さな神社ですが、敷地内はきれいに整備され、全体的に新しい感じのする神社です。境内に置いてある石碑によると、「社殿は永い年月により老朽化がはなはだしくなり相寄りあい語らいて御造営をいたし御神徳をお慰め申し上げることに致しました」とあり、平成元年に地鎮祭を行い、社殿を改築し、社務所を新築し、鳥居、狐像を建立し、手水舎と参道敷石の新設を行い、平成二年に遷座祭を執り行っています。
それ以前がどうだったのか分かりませんが、社殿以外は全て新しく建設したようなものなので、神社が新しく感じるわけです。そしてここの特徴は西の空がよく見えるということです。社殿の西側は谷戸川へ向かって斜面になっているので、視界が開けています。その為、夕焼け時はきれいです。