#13 ビルの谷間のワンコ
香港 深水埗 2000年1月Sham Shui Po, HongKong / Jan.2000
香港と聞くと、高層ビルが密集した町並みを思い浮かべる人が多いだろう。観光パンフレットなどに使われる写真も、香港島と九龍半島を隔てた海峡沿いに並ぶ高層ビル群や、香港島・セントラルのビジネス街、九龍半島南端の繁華街の華やかなビル群が選ばれることが多い。
実際に香港の町を歩いてみると、そういった商業地区や繁華街だけではなく、少し中心から離れた下町や住宅地でも、高層マンションが所狭しと建ち並んでいて、香港の凄まじい人口密集ぶりに驚く。そして、あまりのビルの多さに圧迫感や息苦しさを感じてしまったりする。
そんな高層マンションが所狭しと建ち並ぶ香港にあって、古くからの市場や商店が多く残り、古き良き下町の風情を感じられる場所がある。それは九龍半島の北西部に位置している深水埗(シャムシュイポー)だ。
その深水埗を散策しているときのこと。雑然としたビルが建ち並ぶエリアを歩いていると、ビルの合間の狭い路地にワンコがいるのに気が付いた。
深水埗(Sham Shui Po)、HongKong Jan.2000
この路地には、引越しなのか、普段からこういうものなのかわからないが、古くなった家財道具が散乱していた。その中に置物のように混じってワンコがいた。
「これはいったい、どういうことなのだ……」ワンコも家財道具などと一緒に捨てられたのか。ただ、ここに居付いているだけなのか。飼い主はいるのだろうか。カオスな光景に頭が混乱する。
立ち止まって状況を整理していると、ワンコは私の方へおもむろに寄ってきた。そして、悲し気な様子で見つめてくる。
「ワンコ、やっぱりお前も家具のように捨てられてしまったのか……」
ワンコのみすぼらしさに元気のなさ、そして周囲の様子から、そんな悲しい想像が一番しっくりくる。
一緒に連れて行ってあげたいところだが、私には人生をかけた旅がある。犬連れでは宿に泊まれないし、国境も越えられそうにない。「ごめんよ」と、頭をなでてあげるのだった。
ちなみに、この写真は「1年かけてユーラシア大陸を横断するぞ!」と、日本を旅立って5日目に撮ったもの。そして、この旅で最初に撮ったワンコの写真になる。
旅慣れた人や狂犬病の知識がある人は、この写真を見て、「海外で犬に近づいて大丈夫なの?」「ちゃんと狂犬病の注射は打ったの?」と思っただろう。
(*イラスト:まさぷすさん 【イラストAC】)
長旅を行う決意をし、出発の準備をしている際、私は狂犬病の人間用ワクチンを打つか打たないかで、とても迷った。
狂犬病は、狂犬病ウイルスを保有する犬、猫およびコウモリを含む野生動物に咬まれたり、引っ掻かれたりすることで発症する病気で、すぐに病院で適切な処置をしないと、ほぼ100%死に至るという非常に恐ろしい病気だ。
事前にワクチンを打っておくことで、狂犬病の犬などに噛まれたとしても、感染が抑えられ、すぐに命の危険に直面するリスクを回避することができる。
狂犬病の多い地域、アジアや南米、アフリカなどを長期で旅する場合、日本でワクチンを打ってから旅立つ人はそれなりに多い。
とはいえ、日本は狂犬病のリスクがない国。その怖さを実感する場面がないし、費用もそれなりにするので、みんながみんなワクチンを打っているわけではない。ユーラシア大陸横断する程度の旅なら、私の体感だと多くても4割程度だろう。南米やアフリカの旅になると、当然もっと増える。
私も値段で二の足を踏んでいた。狂犬病のワクチンは保険適用外のため高額だ。数千円なら迷わず「とりあえず打っておこう」となるが、数万円単位となると旅費が大きく減ることになる。「本当に打つ価値はあるのだろうか……」と、貧乏性なので費用対効果を考えてしまったのだ。
(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】)
「でも、死んでしまっては元も子もない。性格的に犬に近づいてしまうに違いないし、旅費は減ってしまうが安心して旅をするためにも接種しておこう」
最終的にはそう決断するのだが、値段のことばかりに気を取られてしまい、期間を空けて全部で3回接種しないと効果が望めないことを知らなかった。(*2000年当時の話。現在は2回でもそれなりに効果があるとされています)
気づいた時にはもう遅かった。今から接種を始めても、3回目を打てずに出国することになってしまう。高いからと迷っている場合ではなかったのだ。
(*イラスト:かめこさん 【イラストAC】)
結局、「高額の費用をかけ、中途半端に接種するのなら、わざわざ痛い思いをして打たなくてもいいか。犬に近づかなければいいんだ」という結論に落ち着き、打たずに日本を旅立った。
――が、犬好きには無理な注文だったようで、いざ旅が始まり、5日目にしてワンコの姿を見つけるやいなや、まるで磁石のように吸い寄せられてしまうのだから世話はない。
今回に関しては、香港は衛生環境や社会インフラが整っているので、狂犬病の犬に出会う確率は交通事故に遭うよりも低いはず。それに狂犬病独特の異常な挙動もない。「このワンコはきっと大丈夫」と、都合のいい言い訳(私なりの判断)をして近づいた次第である。
ただ、国や地域にもよるが、海外で可愛いからと日本と同じ感覚で犬や猫に接すると、病院行きとなり、そのまま旅が終了ということになってしまいかねない。
いや、それで済めば御の字。最悪の場合、一気に人生の終着駅に飛ばされ、旅も人生も強制終了となってしまうのだ。旅に出て5日目にワンコに近づいている私が言っても説得力ゼロかもしれないけれど、そのことはくれぐれも頭に入れて旅をしてほしい。
#13 ビルの谷間のワンコ