世田谷散策記 世田谷の秋祭りのバーナー
秋祭りのポスター

世田谷の秋祭り File.46

上野毛稲荷神社例大祭

崖線の急な坂道の途中にある神社で行われるこじんまりとした小さな祭り。ただ神輿渡御の迫力だけは他の神社に負けていません。

鎮座地 : 上野毛3-22-2  氏子地域 : 上野毛1~4丁目
御祭神 : 倉稲魂神  社格 : 旧上野毛村村社
例祭日 : 10月10日前後の週末
神輿渡御 : 宮神輿、子供神輿、太鼓車、お囃子トラック
祭りの規模 : 小規模  露店数 : 5店程度
その他 : 奉納演芸が行われます。

*** 旧上野毛村と上野毛稲荷神社 ***

上野毛稲荷神社の写真
神社の入り口

急な坂の途中にあります。

上野毛稲荷神社の写真
境内と社殿

ひっそりと鎮座しているといった感じです。

上野毛稲荷神社の写真
社殿

あまり古さを感じない建物です。

上野毛稲荷神社の写真
北野神社の石碑

社殿の脇にあります。

* 旧上野毛村と上野毛稲荷神社について *

大井町線の上野毛駅周辺が上野毛です。ちょうど二子玉川や瀬田の南側になります。上野毛の南側の野毛はかつて下野毛と呼ばれた地域で、明治まで同じ神社で祭りを共同で行っていた事などから、江戸時代以前は一つの野毛村だったのではと考えられています。

野毛という名は変わっていますが、ノゲとは崖を意味する言葉で、その名の通り国分寺崖線上に町域が広がっています。といっても上野毛の方は大部分が崖上の台地で、環八よりも内側が中心となっているのであまり崖というイメージはないかもしれません。

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その一方下野毛村、現在の野毛の方は崖に町域が大きく被っているので、崖の名がふさわしい立地です。北の崖上の上野毛、南の崖下の下野毛といった感じでしょうか。昭和初期頃までは多摩川の水利に恵まれた下野毛の方が発展し、人口が多かったようですが、戦後になると区内の宅地化が進み、地盤が固く、洪水の心配のない台地の方が宅地に向いている事や大井町線の上野毛駅のある事からどんどんと宅地化が進み、今では上野毛の方が人口が多く、賑やかになっています。

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上野毛は特に何があったといった土地ではありませんが、上野毛の歴史を語る上で外せないのが、上野毛の名主であった田中家です。現在の上野毛駅の北側や西側付近はかつて「筑後丸」という字が付けられていました。これは田中筑後という世田谷吉良家の家臣が住んで意た事から名づけられた字です。

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この田中筑後の末裔が田中家で、「一本氏名主」という一段高い格式を与えられていた家柄だそうです。上野毛駅前の交差点から多摩川に向かって崖線を下る上野毛通り沿いの坂は稲荷坂です。坂の途中に稲荷神社があることから名付けられていますが、この坂の南側には上野毛自然公園があります。この自然公園も田中家所有のものでした。

しかもただの敷地ではなく、桜や楓が多く植えられた桜楓園と呼ばれる庭園だったのです。何でも先祖の一人が道楽の全てをかけて粋を凝らした庭園にしたとかで、付近の住民からは旦那の森とも呼ばれていたそうです。特に桜の花見の頃は美しく、都心より大勢の人が見物にやってきて、中には楽隊を引き連れてきて賑やかに踊ったりと、普段何もないような土地が大いににぎわったそうです。

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とまあ田中家の影響の強い上野毛ですが、村の鎮守の稲荷社も田中家の屋敷内にあった稲荷社を村の氏神としたものです。こう書くとなんて横暴なといった感想を持つかもしれませんが、これには少々事情があり、元々上野毛と下野毛(野毛)は村の境界付近にあった六所明神を共通の氏神とし、祭礼も一年おきに交代で執り行なっていました。現在でも上野毛と野毛の境界をなしている坂道は明神坂と呼ばれているように、この付近に神社があったようです。

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その六所明神が明治の初めに野毛の現在の場所に移転する事となってしまいました。移転した理由は下野毛の方で村社という格式が欲しい為に広い敷地に移転したかったからというのが有力な理由のようですが、いまいちはっきりしていません。当時の村の力関係でいえば圧倒的に下野毛の方が栄えていたので、上野毛側としても色々と断れない事情があったりしたのかもしれません。

ということで村の氏神がなくなってしまったので、どうしたもんだということになり、田中家のお稲荷様を新たな上野毛の氏神として迎えることになったというのが、村の氏神としての上野毛稲荷神社の始まりです。

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上野毛稲荷神社は上野毛通りの稲荷坂の途中にひっそりとある神社です。敷地自体はそこそこ広いのですが、間口が狭いためあまり存在感がありません。崖線上に立地しているにもかかわらず敷地が結構広いのは、神社を建てる際に村人たちが協力し崖の傾斜を切り崩して平らな土地を造ったからです。

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敷地の一番奥にある社殿は昭和29年頃に建て替えられたものだと思われますが、近年修復が行われたようで、きれいな状態を保っていました。境内は稲荷社の割には境内に狐の像が見あたらなく、敷地内もいたって簡素で、全体的には崖と木々に囲まれて薄暗い感じのする神社だなというのが率直な感想です。

また社殿の横には北野神社の石碑と石の小さな祠が置かれています。北野神社は北野天満宮、菅原道真公を祀った神社で、この石碑は明治35年に菅公千年祭記念に際して神社を再建したという碑のようですが、詳しくは分かりません。

*** 上野毛稲荷神社の秋祭りの様子 ***

上野毛稲荷神社の秋祭りの写真
秋祭りのときの入り口

鳥居に掲げられた国旗が目立ちます。

上野毛稲荷神社の秋祭りの写真
社殿

あまりお参りする人はいません。

上野毛稲荷神社の秋祭りの写真
境内の様子

広々としていいのですが、少し寂しい感じです。

上野毛稲荷神社の秋祭りの写真
奉納演芸

観客は多くありませんでした。

* 上野毛稲荷神社の秋祭りについて *

明治以前の上野毛のお祭りは野毛と合同で一年おきに村の境界付近にあった六所明神で行っていました。明治の初めに六所明神が野毛に移動してからは、田中家の稲荷社を上野毛の氏神として祀った上野毛稲荷神社が村の鎮守となるものの、その頃の上野毛は人口が少なく、毎年祭りを行うことが出来なかったそうです。

神輿も子供のものしかなく、祭りのない年はとっくり祭で済ませ、費用は何年目かの祭りのために蓄えていたそうです。その分祭りが行われるとなると盛大に催されたとか。特に稲荷坂の坂上まで美しい絵や詩などを書いた地行行灯が並び、中に灯が入った様子は何とも言えない雰囲気となり、住民の自慢の一つだったようです。

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以前の祭礼日は10月10日でしたが体育の日の移動と共に週末に移されました。祭礼日は正式に尋ねていないので推測なのですが、10月の第一週末だったり、第二週末だったりしているようなので、おそらく10日前後の週末となるような感じです。

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祭礼は二日間行われ、土曜日の宵宮は夕方から模擬店が出て、神輿の前での写真撮影会やら子供にお祭り券が配布されたりします。18時半から神楽殿にて素人による奉納演芸が行われます。

日曜日のは本祭の日は10時から式典、そして御霊入れが行われます。正午から子供神輿に太鼓車、大人神輿が巡幸され、町域を回り、夕方に宮入します。夜は宵宮と同じように奉納演芸が行われ、最後に祝い餅が配布されます。戦後瀬田の人々の世話で誕生した上野毛囃子連というお囃子もあり、神輿渡御や祭礼を盛り上げています。

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境内には露店は数店しか出ません。ちょっと寂しい感じの境内です。二子玉川から南側の国分寺崖線上には上野毛稲荷神社、野毛六所神社、尾山宇佐神社と並びますが、どこも人が少なく、あまり活気があるとはいえません。その中でも上野毛の祭りはいわゆる客寄せ的なビンゴ大会とか抽選会といったものが行われないので、お神輿が出入りする時以外は境内が閑散としている状態です。人通りが多くない場所に立地しているのでしょうがない部分もあるかもしれませんが、もう少し賑わうといいかなといったところです。

*** 上野毛稲荷神社の神輿渡御 ***

*** 宮神輿渡御 ***

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
出発前の挨拶

役員や責任者の挨拶等が行われます。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
肩を入れて一本

上野毛のスタイルのようです。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
境内で

まずは境内を一回り

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
宮出し

横の参道を使います。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
坂登り

宮出し後は急な坂が待ち構えています。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
坂を登った神輿

かなりしんどそうです。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
鈴蘭幼稚園での収め

覚願寺の境内でもあります。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
太鼓車

鈴蘭幼稚園の園児などが引きます。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
子供神輿

暗くなっての渡御は珍しいかも

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
トラック山車

上野毛囃子連が努めます。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
上野毛交番裏の交差点

上野毛の中心です。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
環八横断

ハイライトの一つです。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
坂下り

宮入前の難所です。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
宮入してきた神輿

余韻を楽しむように境内を何周もしていました。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
神楽殿で

まずは神楽殿で差します。

上野毛稲荷神社の神輿渡御の写真
最後の収め

社殿前で最後に収めます。

上野毛稲荷神社では毎年大人用の宮神輿、子供神輿、太鼓車が運行されています。大人神輿は台座が二尺三寸(70cm)、唐破風軒屋根の勾欄造りで、昭和50年に浅草・宮本重義によって建造されたものです。 駒札は上野毛が掲げられます。

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渡御ルートは上野毛1、2丁目ルートと上野毛3、4丁目ルートの二つあり、一年ごとにルートを変えています。今のところ西暦の奇数年が1、2丁目、偶数年が3、4丁目となっています。気になるのが崖線です。上野毛は崖線上にまたがる町域を持っています。特に神社の前を通る稲荷坂は二車線道路としてはなかなかの急坂です。この道は古くからある道で、かつてはもっと幅が狭く、かつ短く急な坂だったようです。大山道の行善寺坂にも荷馬車の転倒の話が残っているのですが、この坂もそういった話が多く残っています。

そういった坂を神輿が通るというのは荷馬車ではありませんが、かなり大変な事です。しかしながらどちらのルートにせよ神社のある位置から下には行かないようになっていて、宮出しと宮入の時に通る神社と坂の上までの区間が難所という事になります。といっても神社が坂の真ん中よりも下寄りにあるので、この区間だけでも結構大変だったりします。

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神輿が運行されるのは本祭の日のみで、10時から式典、御霊移しが行われ、正午から太鼓車、子供神輿、大人神輿の順に宮出しが行われます。私が訪れたときは子供神輿は後から担がれていたので、子供神輿の運行は集まった子供の数によってケースバイケースなのかもしれません。太鼓車は最初の休憩所が鈴蘭幼稚園というのもあって、そこの園児や保母さんが多く参加しています。

大人神輿は肩に担いだ後に一本締めをして出発します。境内では威勢良く揉むようなことはせず、すぐに神社の外へ向かいます。神社の外へは正面の鳥居を通らず、横の通路から宮出しが行われます。神社から出るといきなりきつい坂が待っているので、これが大変です。体が温まっているとまた別なのでしょうが、担ぎ始めなのですぐに息が上がってしまい、見ているとかなりしんどそうでした。

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どちらのルートを渡御するにせよ最初の休憩は鈴蘭幼稚園になります。この幼稚園は覚願寺の境内にある幼稚園なので、お山入りといった感じで寺の山門から敷地に入ります。担ぎ始めてから神社境内では盛り上がることなくすぐ外へ向かうし、その後は凄まじい坂だし、幼稚園までは細い道だしとようやくここで担ぎ手が生き生きと担いでいるといった感じでした。この後は年によってルートが分かれていきます。

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最後もどちらのルートでも同じで、上野毛駅の商店街から環八を越えて、神社に宮入します。特に最後の休憩からは怒濤の渡御といった感じで、上野毛の商店街を通り、駅前を通り、環八を渡り、急な稲荷坂を下り、神社に宮入します。

宮入した後もテンションは上がったままで境内での熱気もなかなかのもの。普段神社が静かなのが信じられないぐらいの熱気です。神楽殿の前で差し、最後は社殿前で収めて神輿渡御は終了します。この最後の休憩から宮入まではなかなか見応えのある神輿渡御でした。

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かつて上野毛は人口が少なく、祭りも毎年行うことが出来ませんでした。お神輿が担げるようになったのも関東大震災後で、大正15年頃大人神輿が欲しいということで青年部がお金を出し合って浅草に出向いて神輿を購入してからです。よほどうれしかったのか、当時は女の襦袢のようなものを来て裾をまくり威勢良く担ぎ、家の庭まで担ぎ込んだとか。そういった昔の活気を少し垣間見れた気がしました。

* 感想など *

駅前を通る環八は昭和初期の耕地整理で広げられ、東京オリンピックの際に現在の広さに拡張されました。そして昭和30年頃から交通量が増え、交通事故も増加していきました。住民は信号を付けて欲しいと玉川警察署に陳情に行くものの、予算がないと断られ、東急本社などあちこちに足を運んで寄付金を集め、玉川警察署管内に第一号の信号機が上野毛駅前の環八に出来たそうです。駅からはこの交差点を渡り、坂を下ると上野毛稲荷神社に行くことになり、神輿渡御の宮入前に一番盛り上がる環八横断が行われます。

昔、この交差点付近にあった店で一時期アルバイトしていたことがあり、そして気がついたのですが、ここの信号を渡る人は意外と少ないのです。私がアルバイトしていた頃は坂を下ったところに玉川高校や東急自動車学校と専門学校などがあり、昼間はそこそこ人が歩いていたのですが、それでも夜になるとビックリするぐらい人が渡ってこないのです。上野毛駅前、しかも環八という大通りなのに。

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その理由は簡単で、坂の下に住む人は大井町線を使わない限りわざわざ坂を登って上野毛駅にやって来ません。二子玉川駅へ歩いて行く方が乗り換えの手間などを考えたら早いし、朝からきつい坂を登っていたら気が滅入ってくるというものです。

では坂の上に住む人はというと、この付近は大地主である田中家が暮らしていたり、東急の創設者五島氏の邸宅やらその収集品を集めた五島美術館があったり、昭和35年3月に昭和天皇の第5皇子、清宮貴子内親王が平民になって暮らしたのもこの付近です。電車を使う必要のない方々が多く暮らす地域でもあるのです。

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そういった周辺環境を考えると、上野毛稲荷神社はあまり地元の人が訪れないような場所にあり、神社として微妙な立地場所となっているような気がします。更には上野毛は中町と文化圏が被り、子供などは友人などに誘われ、広くて露店が多く出る中町天祖神社の祭礼の方に出かける人も多いようです。

そういった事情を考えると上野毛稲荷神社の祭礼に訪れる人が少ないのもしょうがないのかなと思えてしまいます。ただ、近年は青年会が祭りを盛り上げようと色々と頑張っているようです。隣の野毛も徐々に人が戻ってきているので、上野毛もそのうち努力が実って賑やかな祭礼になるといいですね。

<世田谷の秋祭り File.46 上野毛稲荷神社例大祭 2013年10月初稿 - 2015年10月更新>