世田谷散策記 世田谷の秋祭りのバーナー
秋祭りのポスター

世田谷の秋祭り File.44

瀬田玉川神社例大祭

瀬田と玉川と個性のある二つの町域で行われる祭りで、それぞれの町域をそれぞれの個性的な神輿が練り歩きます。二子玉川という賑やかな商業地で行われるので活気がある反面、二つの町域間で少しギクシャクした印象も受けます。

鎮座地 : 瀬田4-11-31
氏子地域 : 瀬田1~5丁目、玉川1~4丁目、玉川台の一部
御祭神 : 日本武尊、大己貴命、少彦名命  社格 : 旧瀬田村村社
例祭日 : 10月第三日曜と前日
神輿渡御 : 宮神輿(瀬田神輿、玉川神輿2基)、子供神輿、太鼓車、トラック山車
祭りの規模 : 中規模  露店数 : 30店程度
その他 : 奉納演芸が行われます。

*** 旧瀬田村と玉川と瀬田玉川神社 ***

瀬田玉川神社の写真
神社の入り口

旧大山道の慈眼寺坂の途中に参道があります。

瀬田玉川神社の写真
一の鳥居

一の鳥居の後にも階段があります。

瀬田玉川神社の写真
狛犬と参道

結構参道は長いです。

瀬田玉川神社の写真
社殿

赤塗りの社殿です。

瀬田玉川神社の写真
境内社

拝殿の後ろ側に色々とあります。

* 旧瀬田村と玉川と瀬田玉川神社について *

瀬田と言えば国道246号と環八が交わる瀬田交差点が有名かと思います。その瀬田交差点を下っていくと二子玉川に至り、逆の方向に進むと用賀に至り、田園都市線で言うなら用賀と二子玉川の間にある町域といった認識かと思います。

現在では瀬田と聞いてもあまりパッとした印象がありませんが、瀬田の歴史は古く、地名は奈良時代から平安初期に書かれた倭名抄に多磨郡勢多郷と記されているほどです。しかもその頃は少なくとも用賀を含むもっと広い地域を示していたのではと考えられています。

line

ちなみに世田谷という地名は永和2年(1376年)に「世田谷郷」と記されているのが一番古いようですが、この地名の由来には諸説あって、その中の一つにこの瀬田の地名から「勢多(瀬田)の谷地」となり、世田ヶ谷になったといった説もあるようです。

ただこれはどちらかというと少数意見で、狭小な海峡の意味の「瀬戸」が、海に関係なく狭い谷地も「瀬戸」と呼ばれるようになり、台地の間の狭い小谷の意味で「せとがや(瀬戸ヶ谷)」がなまったのではといった説の方が有力みたいですが、すぐ隣の村(昔は用賀が瀬田村、桜新町や桜丘が世田谷村)という事を考えると何かしらの関係があってもおかしくないように思います。

line

正式に瀬田と書かれるようになったのは14世紀ごろです。足利氏満の書簡に荏原郡瀬田郷とあります。その頃の瀬田村も今よりも広大な村域を誇っていました。現在の二子玉川周辺の玉川1~4丁目は昭和7年に世田谷区が成立した際に玉川町として分離したものです。また世田谷通りに三本杉陸橋がありますが、この付近から砧公園にかけても瀬田村三本杉という地域だったものを昭和43~46年の町域変更の際に大蔵一丁目に移したものです。玉川台という町域も同じ時期に瀬田と用賀から町域を分けて新しく造られた町域なので、環八付近の玉川台も瀬田の町域でした。

更には古い地図を見ると、多摩川の向こう岸に瀬田村の文字があります。多摩川の流路変更で取り残された土地で、この土地は明治45年に神奈川県に移され、逆に玉川一丁目の東部分はその時に神奈川から移ってきた部分です。昔の瀬田の低地にはあちこち沼地があったそうです。それは川の流れが変って取り残された跡で、多摩川の洪水によって度々流路変更が行われ、境界も何度となく変っていたようです。

line

このように瀬田という土地はかつては大きな村域を持つ村でした。瀬田が発展した理由は鎌倉時代になると鎌倉を中心とした鎌倉道が整備され、その主要な3本の道の真ん中の中の道が二子を通っていたとされている事が上げられます。伝説ですが、兵庫島は新田義興が足利氏のだまし討ちに遭って自害した地とされています。

永禄年間(1558~69年)には北条氏の直臣長崎伊予守重光とその子重高がこの瀬田の地を賜って居を移し、瀬田城を築いたとされています。行善寺の近く、ゴルフ練習場の付近がその跡地とされていますが、昔の遺構は全く残っていません。同じ時期にやってきた北条氏の家臣、南条氏が深沢に造った兎々呂城は簡単な土塁で囲った城だった事を考えると、そういった類の小規模なものだったに違いありません。それでも立地的には守るに易く、攻めるに難しい城址だったと言われています。

line

長崎氏は北条氏の滅亡後にはこの地に留まり、瀬田の地主として帰農します。岡本にある民家園に展示してある古民家は長崎家のものを瀬田から移築したものです。江戸時代になると街道が整備され、大山道の二子の渡しの利用者も多くなります。

ただこの時代は、いわゆる崖下の土地、現在の玉川地域には住む人は少なく、田んぼが広がる田園地帯で、瀬田原、瀬田耕地などと呼ばれていました。渡しの場所には旅館や茶屋が並んでいるようなイメージを描いてしまいますが、川向こうの溝ノ口村や二子村の方が宿場となっていたようで、瀬田村には宿がなく、幕末にようやく一軒宿ができたとのことです。

その代わりというか、天保年間の記録では茶屋が7、8軒川原の堤にあったようです。洪水が多い土地だったので、崖上に住居が多かったのも頷けます。行善寺も洪水によって現在の見晴らしのいい高台に移ってきたといわれています。

line

瀬田村が急速に発展していくのは明治40年に玉電が開通してからです。同じ頃に多摩川改修工事も行われ、河畔には料亭が並び、多摩川には屋形船が浮かんで新鮮な鮎料理が出されていました。更には玉川遊園地も造られ、多摩川沿いの低地が次第に郊外行楽地となっていきます。

大正時代になると丘陵地帯には著名人の別荘も並ぶようになり、大きな歓楽街として玉川地域が発展していきました。今でもその面白い名残があり、行善寺には猫塚があるのですが、これは歓楽街で使われた三味線の材料となった猫を供養した塚です。元々は歓楽街にあったそうですが、こちらの境内に移されました。また慈眼寺の近くには瘡守稲荷神社がありますが、「瘡」には「おでき」などの悪いもの、或いは梅毒(性病)の意味もあるので芸者さんたちの信仰も厚かったそうです。

line

行政的には明治から昭和初期にかけて色々と起こります。明治11年には用賀村と連合村を形成し、瀬田用賀連合村となり、明治22年には戸数が少なくて税収の少ない村は合併するように政府から促され、周辺の等々力や野毛などといった村と合併し、玉川村の一部となります。

この合併に関してはかなり揉めました。どこに役場を置くのか、村名は、どこの村とは一緒になりたくない、などなど。瀬田村(瀬田、用賀、野良田、上野毛)、等々力村(等々力、尾山、奥沢、野毛)といった2村案も出されていたそうです。玉川村の名前は明治8年に等々力に開校した玉川学校の玉川を、妥協の産物として付けたものです。こんな状態なので、玉川村が成立した後も村内の対立は絶えず、村長職が空いたり、村外の人間に村長を頼んだこともあったそうです。

昭和7年には世田谷区が成立し、玉川村は世田谷区に編入します。その際に瀬田村は丸子川を境界に崖上の玉川瀬田町と崖下の玉川町に分かれます。戦後、昭和22年に板橋区から練馬区が独立し、東京が23区に増えました。同じ時期に玉川区独立案が区議会に持ち込まれましたが、後の不況で立ち消えとなってしまったのはあまり知られていない事かもしれません。玉川全円耕地整理の際にも脅迫やらボイコットやら様々な騒動が起きていますし、何かとよく揉める地域ともいえるかもしれません。

line

瀬田交差点の北側、いわゆる昔の大山道の慈眼寺ルート沿いの崖地に瀬田村の村社であった瀬田玉川神社があります。元々は御嶽神社で、明治18年に役所に提出した書類の由緒には、「戦国時代の永禄年間(1558~70年)に、この村の下屋敷に勧請し、その後、寛永三年(1626年)、瀧ヶ谷に長崎四郎右衛門嘉国が寄付をして遷宮した」と書かれているようです。

また、神社に現存する棟札には、元禄八年(1695年)、長崎四郎左衛門嘉満、又四郎嘉包が、子孫の長久繁栄を祈願して、拝殿一宇(棟)を造営したと記録されているそうです。初代の別当は、真言宗慈眼寺権大僧都源長で、代々別当として慈眼寺が管理してきました。明治7年には村社に定められ、同41年には合祀令によって村内にあった八幡社、熊野神社、天祖神社、六所宮などを合祀し、社号を村名より玉川神社と改称しました。

line

この玉川神社の名称が色々と物事を複雑にしているように感じます。確かに当時は玉川村瀬田だったので玉川神社というのもありかと思いますが、合祀してその地名、例えばお隣の用賀のように用賀神社と付けることはあっても地域全体の名を付けることは一般的ではないように感じます。

同じ年には等々力でも合祀によって玉川神社が誕生しています。等々力の方は役場が置かれるなど玉川村の中心的な存在でしたが、瀬田の方は元々用賀などと瀬田村を画策していた経緯を考えると、我々の神社こそが玉川村で一番の神社といった思いが入っているのかもしれません。

line

更に悪いことに、後に世田谷区が成立した際に玉川村が消滅した代わりに、瀬田の平地部分が玉川町として独立しました。玉川村の玉川のつもりが、玉川町ができてしまったら瀬田地区の住民にしてみれば、玉川町の神社のような感じとなってしまいちょっと複雑です。

後に瀬田と玉川の両地区の氏神様として瀬田玉川神社と呼ばれることになります。等々力にある玉川神社は等々力の玉川神社という意味ですが、瀬田玉川神社は瀬田にある玉川神社、瀬田にある瀬田と玉川の両地区の神社、いわゆる瀬田玉川神社と二通りの解釈ができるわけで、このへんは色々と揉める原因になるので氏子の間では曖昧になっているような感じでした。

line

瀬田玉川神社は古墳の上に建てられています。大正3年に社殿を改築し、同12年には関東大震災の被害を受けて補修が行われました。境内には遠くからも見ることができた樹齢7~800年の黒松があり、神社のシンボルになっていましたが、昭和41年の台風で惜しくも折れてしまいました。今ではその幹が御神木として祀られています。現在の社殿や社務所は昭和43年(1968年)に再建されたものです。

*** 瀬田玉川神社の秋祭りの様子 ***

瀬田玉川神社の秋祭りの写真
秋祭りのときの社殿

五色の幟が立ち華やかです。

瀬田玉川神社の秋祭りの写真
社殿に参進する列

境内の中だけを移動します。

瀬田玉川神社の秋祭りの写真
瀬田囃子

保存会によって伝統が守られています。

瀬田玉川神社の秋祭りの写真
慈眼寺側の入り口

こちら側には参道の道に露店が並びます。

瀬田玉川神社の秋祭りの写真
鳥居の前

一番賑やかです。

瀬田玉川神社の秋祭りの写真
神楽殿や社務所がある広場

こちらの広場もにぎわいます。

瀬田玉川神社の秋祭りの写真
素人奉納演芸の様子

地元の人たちがお互いに楽しんでいる感じです。

瀬田玉川神社の秋祭りの写真
プロによる奉納演芸

セクシーなお姉さんが登場し、活況でした。

* 瀬田玉川神社の秋祭りについて *

瀬田玉川神社の祭礼は10月第三週末に行われています。昔はかなり遅く10月30日に行われていたようです。ここの祭礼の特徴は境内や参道に多くの出店が並び、訪れる参拝客も多く、とても賑やかなことです。二子玉川は三軒茶屋や下北沢程ではないにしても世田谷を代表する商業圏の一つなので、賑やかなのはまあ当然と言えば当然ですが、駅から結構離れているし、坂の上という立地を考えると頑張っている方だと感じます。

この付近、玉川地域は大きな商業圏がないのもあって、昔からこの辺りで一番賑やかな祭りだといわれてきましたが、今でもその言葉通りといった感じです。特に周辺の上野毛、岡本、鎌田の秋祭りでは屋台が出ないのもあって、周辺からも多くの人が訪れるといった感じです。

line

祭礼は土曜日の宵宮の13時から子供神輿や太鼓山車が巡幸されますが、それに先だって神輿への御霊移しが行われます。神輿の宮出しの時もそうですが、ここでの神輿に関する祭事はスペースの都合上本殿の前ではなく、神楽殿の前で行われます。夕方から奉納演芸が神楽殿で行われますが、宵宮の日は地元の団体による素人奉納演芸になり、舞踏や歌謡が中心となります。

本祭の日曜日は、午前10時半より祭典式が行われます。祭典式は宮司や関係者が雅楽を伴って本殿に参進しますが、一旦神社の外に出て表参道の階段を上がってくるわけではなく、脇参道から入って行くだけの短いものです。正午からは大人神輿や子供神輿、太鼓山車の渡御が行われます。そして夜には奉納演芸が行われますが、本宮の日はプロによる奉納演芸となります。私が訪れたときは奉納演芸としては珍しく、セクシーなお姉さんによるダンスショーだったので見物人が多かったです。

奉納演芸が終わった後には神輿を御輿舎にしまうのですが、その前に境内の中を少し担がれます。この時は半纏を着ていない一般の人でも神輿を担ぐことができます。あまりこういう趣向はないので、とてもいいことだと思います。ただ最終的には半纏を着た人ばかりになってしまいますが・・・。そして一番最後に餅まきが行われますが、ここでは投げないで手渡しでの配布になります。

line

祭礼期間中には随時神楽殿で、或いは神輿渡御の先導として瀬田囃子が演奏されます。瀬田囃子は今から300年ほど前に始まったと言われている程古いお囃子です。昔は現在の二子玉川駅周辺は一面の田んぼで瀬田村のほとんどが農家でした。そのため農業を中心に生活が営まれ、春に田畑の作物がよく実るように祭礼を行い、秋には収穫の無事を祝って祭りが行われました。その祭礼で欠かせなかったのがお囃子で、昔の人々にとっては氏神様のお祭りのお囃子は大変な楽しみだったそうです。

現在は保存会を結成し、その文化と伝統を受け継いでいます。子供の姿も多く、宵宮の子供神輿渡御では活躍しています。お囃子では獅子舞やおかめ、ひょっとこの踊りも舞われます。

*** 瀬田玉川神社の神輿渡御 ***

*** 宮神輿渡御(瀬田) ***

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
御魂入れの儀式

土曜日の昼間に行われます。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
出発式

大人神輿は日曜日の昼に出発します。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
太鼓引きの行列

沢山の子供が参加していました。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
子供神輿

三基運行され、それぞれ楽しそうに担いでいました。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
いきなりの柵越え

本殿の敷地に入るのに柵の上を神輿が越えます。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
本殿前で

まずは本殿に差し上げます。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
階段下り

まず小さな階段が続きます。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
最後の階段

最後は急で長い階段です。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
階段を降ろす様子

下から見ると急なのがよく分かります。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
坂登り

階段下りの後は坂登りです。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
渡御の様子

お囃子車、露払い、高張り、神輿と続きます。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
瀬田の交差点

困ったことになかなか進みません。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
お囃子車

瀬田囃子が務めます。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
夜の渡御

宮入近くになるとかなりの数の担ぎ手になります。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
宮入の階段登り

引っ張り上げるのが結構大変です。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
柵越え

多くの人が待つ神楽殿前に向かいます。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
境内でのもみ合い

もみくちゃにされ、なかなか収まりません。

瀬田玉川神社の瀬田神輿渡御の写真
神楽殿前での収め

最後は神楽殿前で収めます。

先の項でも書きましたが、元々瀬田町と玉川町は一つの瀬田町域でしたが、昭和7年の世田谷区成立の際に丸子川を境界に分かれました。町域は分裂しても瀬田玉川神社の氏子地域は瀬田町と玉川町と変らないのですが、神輿渡御は瀬田地域と玉川地域とで別々に行われています。

line

神社のある瀬田地域の神輿渡御は瀬田玉川神社から宮出しが行われ、神社に戻ってきます。神輿は宵宮の12時半前ぐらいから神楽殿の前で御霊移しが行われ、13時頃から子供神輿と太鼓山車が運行されます。すぐお隣が瀬田幼稚園というのもあって参加する子供は多く、小神輿三基と太鼓車、そしてお囃子の先導と結構賑やかな感じの渡御です。囃子は子供神輿の渡御なので子供が中心に務めます。

日曜日にも子供神輿は運行されますが、渡御コースは大人神輿と子供神輿は全く別で、大人神輿は瀬田交差点や環八を中心にした賑やかな地域を練り歩き、子供神輿と太鼓車はそれ以外の狭い路地に広がる住宅地を中心に氏子地域を土日の二日間かけて回るといった感じになっています。

line

本宮の日曜日は12時半から大人神輿の渡御が行われます。神輿は大正15年に浅草・宮本重義によって建造された台座三尺(91cm)の延軒屋根、勾欄造りです。宮出しに先立って式典が行われますが、御霊入れと一緒で神楽殿や社務所の前の広場で行われ、ここから担ぎ始めます。しかしながら神社の外へ出るまでが大変で、それがここの神社の神輿渡御の名物というか、特徴となっています。

まず担がれた神輿は社殿へと向かいます。本来なら正面の鳥居から入るのが楽なのですが、正面の鳥居へ続く道は露店がびっしり並んでいて神輿が通れません。なので、脇参道から入るのですが、こちらは鳥居が小さく、神輿はくぐって入れません。ということで、なんと設置されたスロープや柵を手渡しで越えさせるのです。見ていてビックリです。そして社殿の前で揉んで差し上げます。

line

ここからも大変で神輿の向きを変えると、今度は表参道を通って神社の外へ向かいます。表参道沿いには露店が並んでいるので、通るのも一苦労。更には長い階段があるので、これを大きな神輿を降ろすのが大変。山神輿のように引き綱を付けて降ります。何とか苦労して階段を降ろすと見物人から拍手が起こります。

そして神輿渡御が始まるのですが、参道の始まりが崖線上の坂の途中にあるので、いきなり急な上り坂となります。これが結構きついので、登りきると担ぎ手は始まって間もないのに疲れ切った表情になっていたりします。わざわざ階段を降りて坂を登るのなら、脇参道から真っ直ぐ出てくれば楽なのに・・・なんて思ったりもしますが、それでは渡御の意味がないのでしょうね。

line

現在の瀬田町域は幹線道路である環八と国道246号が交わるような交通の要所となっているものの、大きな商店街があるわけでもなく、単なる車の通り道といった感じです。さすがに大通り沿いには店が並んでいますが、小さな店ばかりで、そのすぐ裏側は住宅街になっています。

大人神輿はあまりそういった住宅街には入り込まずに環八を中心に渡御をします。環八の瀬田交差点といえば外回りが渋滞する事で有名です。その環八を何度か横断するので、他の地域の人からしてみれば厄介な神輿渡御となります。

特に夕方四時頃、瀬田の交差点の交通を停めて用賀駅方面から横断する際は激しい渋滞を引き起こします。担ぎ手にしてみれば渡御中の一番の見せ場となるので、ちょっと張り切りすぎてなかなか前に進まないのも渋滞を大きくする要因となります。

line

宮入は18時頃、宮出しと反対の行程で行われます。まずは坂を下り、そして参道の入り口で一回降ろし、ここから階段登りが行われます。狭い階段なので大勢で担ぐことができません。宮出しと反対で神輿の前方に引き綱が付けられ、上から引っ張りあげていきます。一日の渡御の終わりであり、アルコールが入っている人もいるので、慎重にやらないと事故につながってしまいます。一般の人が周囲に入って事故にならないように警備も厳重です。

階段を登ると参道を進み、社殿前で一回差し上げます。更には朝と同じように神楽殿の方へ柵を乗り越えて受け渡しが行われます。神楽殿の前の広場ではある程度担ぎまわれるスペースがあるので、何度ももみ合い、神楽殿の前で最後収められます。この時が一番熱気が帯び、喧嘩もたまに起きます。

神輿自体はこれで終わりますが、ここのいいところはこの後奉納演芸が神楽殿で行われますが、そういった行事が終わった後に神輿を御輿舎にしまう前にもう一回境内で担がれます。その際には半纏を着ていない一般の人でも担ぐことができます。なかなか半纏を着ていない一般の人が大きな神輿を担ぐ機会がないのでこういった事はとてもいいことだと思います。でも最終的には半纏を着た人ばかりになってしまうのはしょうがないことかもしれません。

*** 神輿渡御(玉川) ***

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
玉川町会の御酒所

なんと国道の高架下です。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
神輿の出発式

いざ出発です。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
太鼓車の宮出し

多くの子供が引っ張ります。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
子供神輿の宮出し

揃いの半纏で頑張ります。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
商店街を進む太鼓車など

旧大山道沿いの商店街です。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
大人神輿の渡御

多くの担ぎ手によって担がれます。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
住宅街付近の渡御

商業地ではない地域も回ります。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
玉堤通りの土手沿い

中神輿が合流して賑やかな渡御となります。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
路地を進む神輿

神輿が大きいので曲がるのが大変です。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
飲み屋が密集する繁華街を進む女神輿

二子玉川らしい光景です。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
高島屋前の交差点

一番の見せ所です。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
旧国道246を進む御輿

車線の中央を進みます。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
夜の繁華街を進む神輿

間もなく宮入となります。

瀬田玉川神社の玉川神輿渡御の写真
宮入

御酒所で揉み、最後差し上げます。

瀬田の項でも書きましたが、元々瀬田町と玉川町は一つの瀬田村で、昭和7年の世田谷区成立の際に丸子川を境界として崖下の低地が玉川町として分離しました。町域が分かれても玉川町の方に新しく神社が造られるといった事はなかったので、瀬田玉川神社の氏子地域は現在でも瀬田町と玉川町と変らないのですが、神輿渡御においては瀬田地域と玉川地域とで別々に行われています。

line

玉川町は多摩川流域付近の低地に広がっています。もともとこの地域は現在の瀬田地域に暮らす人々の田畑が広がる地域で、人家はほとんどありませんでした。発展するのは多摩川の砂利を運ぶのに施設された玉電が明治40年に開通してからです。自然豊かな多摩川を利用した郊外型行楽地として発展していき、遊園地やプールなどもでき、また歓楽街としての顔もありました。現在でも玉川高島屋を中心に世田谷でも有数の繁華街が広がり、近年は再開発で世田谷一ののっぽビルや大きなショッピングセンターも造られました。とても賑やかな地域であり、もはや瀬田町であった名残は感じられず、世間一般的に二子玉川と呼ばれる地域として定着しています。

このような賑やかな商業地域を練り歩くのが玉川町の神輿なのですが、瀬田玉川神社から宮出しされることはなく、神社に出向いて宮入することもありません。ちょうど玉川高島屋裏手、国道246号の高架下に設けられた二子玉川ふれあい広場に御酒所が設置され、この広場から宮出し、宮入が行われます。高架下の広場なので頭上が騒々しく、またスペース的にも細長く、あまり御酒所としてふさわしくない感じもしますが、盆踊り大会もこの広場で行われていることから、玉川町域でのイベント会場となるようです。ちなみにこの広場のすぐ横には諏訪神社がありますが、これは旧鎌田村の神社になります。

line

神輿は大人が担ぐ大神輿、女性用の中神輿、子供用の小神輿と太鼓山車が運行されます。大人神輿は宵宮の夕方と本祭と二日間担がれ、女神輿は本宮の夕方から宮入まで。子供神輿と太鼓車は宵宮と本祭の昼間に運行されます。神輿には神社所有の宮神輿と町会や睦会が所持している町神輿、町会神輿がありますが、ここの神輿はいまいち区分が分かりません。見た感じは玉川町会とか、睦会の町会神輿といった感じがするのですが、何人かに尋ねると宮神輿だという返答が返ってきたので区分的には宮神輿なのかもしれません。

ちなみに昔は神社まで宮入しに出向いていたそうですが、坂を登ったり、あの階段を登るのが大変なのでやめたそうです。そういった神社に向かう様子などからすると町神輿ってな感じなのですが、実際の所はどうなのでしょう。

line

渡御コースは一応1~4丁目を全て回りますが、旧246号の西側が中心となり、1、2丁目は大通り周辺や川辺の昔料亭が並んでいた地域の渡御となります。なんでも昔は神輿が川に入ることもあったとか。これはよそ者が景気にのって暴れるのを防ぐための苦肉の策だったとか聞きますがどうなのでしょうか。

山場は16時から運行される女神輿が合流してからです。居酒屋などが並んだ繁華街を通り、そして駅前のメイン通りに出てきます。多くの買い物客が足を止めて見物するので、担ぎ手も気合が入ります。ここでは駐車場待ちの車を避けるためなのか、道路の真ん中よりを進むのもちょっと気分がいいようです。暗くなると町のネオンが灯り、繁華街らしい渡御となります。宮入は神社ではないので、雰囲気は余りありませんが、結構盛り上がっていました。

居酒屋の並ぶ細い路地やネオンの灯る通りを進む神輿渡御は繁華街として発展していった玉川町らしいと言えるかと思います。繁華街として賑やかな場所を練り歩くし、10月の後半とあまり他の神社と祭礼日が重ならないのもあって人気の神輿渡御となっていて、多くの担ぎ手が集まってきます。

* 感想など *

世田谷区内の神社は明治時代に発令された合祀令、明治から昭和にかけての町域変更や行政区分の変更、そして何より急激な宅地化や町の発展によって大なり小なり問題を抱えてきました。その中でも瀬田玉川神社は特に歴史に翻弄された神社というか、そういった要素がぎっしりと詰まった神社と言えるかもしれません。

とりわけ瀬田町と玉川町の神輿渡御がそれぞれ交わることもなく、あっちはあっち、こっちはこっちといった感じで別の神社の祭礼のように淡々と行われているのが気になるところです。それぞれの関係者に話を聞いてみると、何か微妙な温度差みたいなものを感じてしまったのもそう思う一因です。

line

恐らくもともと一つの村だったのが二つの町域に分かれ、崖上の瀬田地域が町の中心だったのが、崖下の玉川の方が賑やかになり、お互いこっちがこの地域の中心だといった気持ちがあるのかもしれません。それに世間一般的には高台の山の手が高級住宅地で、低地が庶民的な下町となります。ここでもそういった山の手と下町といった構図、或いは商業地と住宅地といった環境の違いによる馬が合わないと行った構図があるのかもしれません。とまあ外部の人間からすると勝手に色々と想像してしまいますが、きっと様々な事情が複雑に絡み合っているのではないでしょうか。

line

とは言うものの、そういった事は普通の人には関係ないことです。お祭りは楽しければそれでよし。そういう点では多くの出店が出て、境内がとても賑わっていて、この付近で行われる祭りとしては賑やかで楽しい秋祭りと言えます。両方で子供神輿も盛況に運行され、子供たちも姿も多いです。神輿渡御もそれぞれがいがみ合っているわけでもなく、それぞれの個性があっていいかと思います。個人的な感想としては、体育会系のノリが瀬田神輿で、サークル系というか、飲み屋系のノリが玉川神輿といった感じでしょうか。どちらも元気がいいので見ていて楽しい神輿です。

それにあまりそういった印象は受けないかと思いますが、瀬田や二子玉川周辺は公務員宿舎や企業の宿舎、都営住宅などが多い地域です。商店街の床屋さんと話をしてもお客が付いて2年もすると転勤となって・・・といった事の繰り返しだそうです。結構人の出入りが激しい地域でもあります。そういった土地で氏子の結束をまとめていくのは周りの人間が思っている以上に大変なことなのかもしれません。

<世田谷の秋祭り File.44 瀬田玉川神社例大祭 2013年11月初稿 - 2015年10月更新>