世田谷散策記 世田谷の秋祭りのバーナー
秋祭りのポスター

世田谷の秋祭り File.43

用賀神社例大祭

かつてはあばれ獅子が練り歩くことで有名だった祭りですが、現在では広大な氏子町域を誇り、多くの屋台が出て、多くの参拝客で賑わう祭りとなっています。

鎮座地 : 用賀2-16-26 
氏子地域 : 用賀1~4丁目、上用賀1~6丁目、玉川台の一部
御祭神 : 天照皇大神、応神天皇、菅原道真公  社格 : 旧用賀村村社
例祭日 : 10月10日前後の週末  神輿渡御 : 宮神輿、子供神輿、太鼓車
祭りの規模 : 中規模  露店数 : 30店ぐらい
その他 : 奉納演芸が行われます。

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*** 旧用賀村と用賀神社 ***

用賀神社の写真
神社の入り口

用賀中町通りから少し入ったところにあります。

用賀神社の写真
境内

松の高木があり、落ち着いた感じです。

用賀神社の写真
社殿

木曽産の檜を使った建物です。

用賀神社の写真
祭神標

祭神を記した石碑が社殿前にあります。

用賀神社の写真
境内社

稲荷社が社殿横にあります。

用賀神社の写真
初詣の長い列

中町通りまで参拝客の列ができます。

* 旧用賀村と用賀神社について *

用賀というと、日本の大動脈と言える東名高速から連絡する首都高の用賀料金所があるので多少区外にも名が知れていますが、特に何があるわけでもなく、地味な印象の町です。ただ地名に関しては他に同じ地名がないというような特徴のある地名が付けられています。

この用賀という地名は平安から鎌倉初期に勢田郷であったこの地にヨガ道場ができた事に由来するそうです。ヨガとはあのインドの座禅を組んで精神統一を・・・といったあのやつです。ヨガはサンスクリット語の梵語となるようで漢字で書くと「瑜伽」となり、「ユガ」とも「ヨガ」とも読まれていたそうです。それが最終的にヨーガとなり、用賀になったのではと考えられています。

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なぜ用賀の字が当てられたのか、そもそもなんでこんな辺鄙なところにヨガ道場が出来たのかなど色々と不明な部分も多いです。後の永禄から元亀年間(1558~72年)に北条の家臣飯田帯刀の子、飯田図書が用賀を治めるようになってから用賀村が開けていくのですが、その際に真福寺を開基し、その山号が地名に合わせて喩伽(ゆが)山と付けられたと言われています。これが用賀といった不思議な地名がつけられた名残となるのか、或いはこの真福寺の山号から用賀の名が付けられたのではという説もあり、どちらかというと後者の方が信憑性があるような気がします。

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現在の国道246号は用賀の南を通って厚木方面に向かっています。この道は旧大山道(矢倉沢往還)をバイパス化した道で、かつての道は三軒茶屋で二股に分かれ、片方は世田谷通りに進み、代官屋敷の前を通り、弦巻を通り、用賀に至り、もう片方は駒沢、桜新町の駅前を通り、用賀に至っていました。

その二つの道が合流するのが用賀で、用賀神社の北側にその追分が残っています。追分のすぐ先は用賀中町通りで、かつてはこの辺りが村の中心でした。現在でも商店が並んで少しにぎやかな感じとなっています。大山道は現在の中心部である用賀駅前を通り、用賀の西では北側を通る慈眼寺ルート、南側の行善寺ルートと再び分かれていきます。用賀は大山道が合流しているといった絶好の場所に位置していたことで、街道を中心に村が発展していきました。

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村は東西に1200m、南北に2000mと広大な村域を持っていましたが、水に不便をするような台地に位置していたことから街道とその周辺、或いは谷沢川流域と水源近く以外はほとんど人が住まないような雑木林ばかりだったようです。馬事公苑内に武蔵野の原生林が残されていますが、そういった風景の連続だったはずです。

ちなみに駅前の通りが谷沢川と首都高と交わるところにある橋は田中橋と名付けられていますが、かつては村外れに辺り、田んぼの真ん中といった事から付けられたそうです。そしてこの付近は大雨でよく水が溢れた場所で、玉電がよく立ち往生した場所でもあるようです。

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明治7年の用賀村は戸数154、住民740人ほどでした。明治22年には周辺の村が統合し玉川村の一部になります。そして明治40年には玉電が開通し、人口が徐々に増え始めます。大正9年の国勢調査では世帯数256、人口1343人となり、更には大正12年の関東大震災後には人口流入が激しくなります。

大正15年になると住宅街としてのインフラを整えようと玉川全円耕地整理の話が持ち上がりましたが、費用面のことでなかなか話がまとまりませんでした。この事業は玉川村をあげての大事業でありながら、都や国の援助を受けていませんでした。それに田園調布や成城などと違って企業が整地して売る出すといった類のものでもありません。ですから資金繰りには困っていました。

ちょうどその時に帝国競馬協会が広大な敷地を要する馬事施設を建設するための土地を探していて、用賀地区の土地(5万坪)を30万円で購入したという経緯があります。それが昭和9年の事で、これが現在の馬事公苑になります。実際に耕地整理の工事が始まるのも昭和9年になってからでした。用賀地域の場合は比較的平坦な土地であり、土地を売ったお金があったことから道が広く、きれいな碁盤の目状になっています。駅から世田谷通りの間までに用賀一条通りから用賀十条通りまでと10筋の通りが設けられるなど、まるで京都のような区画整理が行われていて、玉川全円耕地整理の象徴のような地域となっています。

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用賀村には幾つか神社がありました。その中で一番街道に近くにあったのが神明社でした。明治以降は都の方針で天祖神社と称し、明治5年には村社となり、合祀令により明治41年8月には村内の八幡神社(用賀1丁目、国道246の南側)、天神社(上用賀3丁目、馬事公苑の南)を相殿として、巌島神社、稲荷神社、山際神社を境内社として合祀し、名称も地名をとって用賀神社と改められました。

祭神は神明社の天照皇大神、八幡神社の応神天皇、天神社の菅原道真の三柱となっています。神明社と天神社の由緒は分かっていませんが、八幡神社は宇佐神社とも言われ、天正年間(1573~91年)に鶴岡八幡宮から分霊を勧請したものと言い伝えられているそうです。江戸時代の1828年に書かれた新編武蔵国風土記では八幡神社が用賀村の鎮守となっていて、昔はこちらの方が格式や規模が大きかったのかもしれません。

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神社は用賀の東の端に位置します。現在でいうなら桜新町へ向かう坂の途中といった感じでしょうか。境内は斜面に位置していて、一の鳥居のある層、二の鳥居や神楽殿、社務所、社殿がある層と立体的な二層構造になっています。境内はあまり広いとは言えませんが、それでも昭和48年には隣の敷地と土地を交換したり、新たに土地を購入するなどして境内を広げる努力をしています。

現在の社殿は昭和52年に造営されたものです。社殿を造営するにあたっては、当時入手困難と言われていた貴重な木曽産の檜を現地に出向いて調達したそうです。木曽産の総檜造りで造られた社殿は重厚で、拝殿の屋根にまで千木・堅魚が付けられているので貫禄のある建物となっています。奥沢神社の尾州檜材を用いて、室町期の様式を模した社殿もいいですが、用賀神社の社殿も区内の中では隠れた名建築です。

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現在の神社自体はこぢんまりとした印象ですが、氏子町域はとても広いです。現在用賀は用賀と上用賀に分れていますが、これは1971年の住居表示変更の際に分かれたものです。その際には用賀の一部が新しくできた玉川台という町域に加えられたので、氏子町域は用賀1~4丁目、上用賀1~6丁目に玉川台の一部と広大であり、そのほとんどが住宅街なので氏子地域に暮らす人口も多いです。

おまけに駅から比較的近いといった立地もあって、参拝客が多く、祭礼時には混雑しますが、何より初詣の時期に恐ろしいほど混み合います。元旦の日の昼間に通ると、用賀中町通りにまで参拝者の長い列が続いていてビックリした事があります。これは拝殿の間口が狭いので一人、或いは一組ずつしか一度にお参りできないといった事情がありますが、それでもこれだけの列ができるというのはそれだけ地域の人に親しまれている事ではないでしょうか。

*** 用賀神社の秋祭りの様子 ***

用賀神社の秋祭りの写真
一対の獅子頭

祭礼時のみ社殿内に置かれます。

用賀神社の秋祭りの写真
用賀囃子

随時演奏されます。

用賀神社の秋祭りの写真
奉納演芸

神楽で夕方から行われます。

用賀神社の秋祭りの写真
プロによる奉納演芸

遅い時間帯はプロのステージになります。

用賀神社の秋祭りの写真
境内の様子

時間帯によってはかなり混雑します。

用賀神社の秋祭りの写真
屋台が並ぶ様子

多くの出店が境内や参道などに並びます。

* 用賀神社の秋祭りについて *

用賀神社の祭礼は、かつて10月8、9日に行われていました。勤め人が多くなり、祝日の方がいいということになり昭和52年から9、10日にずらされましたが、体育の日が変動となったため、今では10月10日前後の週末、ここのところの日程を見る限りでは体育の日の前日に行われています。そのため年によって10月第一週末だったり、第二週末だったりします。

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用賀神社の祭りといえば、かつては「あばれ獅子」で有名だったそうです。「あばれ獅子」は明治の初め頃から秋祭りで行われていた行事で、雄雌一対の獅子頭にそれぞれ胴の着物を付けて、その中に大勢の若衆が入り、五穀豊穣、悪疫退散を願って練り歩くといったものです。この着物を作るのに八反の反物を使ったというからとても長い胴で、多くの人が中に入っていたと思われます。

あばれ獅子は初め境内で雄と雌で獅子合わせをしてから町域に繰り出していきましたが、若者はこの時とばかりに暴れ回り、人の家へ入って土足のまま家の中を駆け抜けたり、家々を荒らし回ったのでとうとう行事は中止となってしまいました。具体的に何時の頃の話なのか、何時から行われなくなったのか聞きそびれたので分かりませんが、今では祭礼の時のみ社殿内に獅子頭のみ飾られています。

あばれ獅子も暴れすぎて封印されてしまったといたところでしょうか。この獅子頭は、製作年代は不明で、一説には神田明神より移入したものと伝えられているそうですが、確かな記録ではないようです。

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現在の祭礼は土曜日に宵宮、日曜日に本祭となっています。宵宮の日は昼間に子供神輿と太鼓車が運行されますが、その前に神輿への御霊移しの神事が行われます。夕刻、17時より奉納演芸が神楽殿で行われます。かつては神代神楽も行われていたそうですが、舞手がいなくなり行われなくなったとか。

用賀神社の祭礼で感心するのは奉納演芸です。宵宮も本宮も17時から21時までみっちりと演目が行われます。早い時間は素人によるカラオケや舞踊が中心ですが、遅い時間になるとプロによる大道芸だったり、本祭の日は演歌歌手のステージだったりします。両日とも奉納演芸が終わると用賀囃子によるお囃子が行われ、餅まきが行われます。

本祭の日は午前10時より玉川神社の神主により例大祭が行われ、昼すぎ13時に大人の神輿が出発し、商店街を中心に町内を練り歩き、19時半頃神社に戻ってきます。

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用賀神社は神社自体が大きくない割には氏子町域が広いです。いや、氏子町域が広いのに対して神社が小さいと書くべきでしょうか。普段はあまりぱっとしない感じの神社ですが、祭礼となると境内に所狭しと露店が並び、更には隣の駐車場、周囲の道路にまでも露店が並んで賑やかになります。そしてビックリするぐらい混雑します。初詣の際にも恐ろしく混み合い、参拝者の列が中町通にまで続くほどです。

さりげなく世田谷の中でも参拝客が多い神社なのです。かつて「用賀は貧乏村だが子供相手の商売はなんでも成り立つ」と言われていたそうです。そういった土地柄というか、屋台商も稼ぎがいいのか、多くの露店が並びます。

*** 用賀神社の神輿渡御 ***

*** 宮神輿渡御 ***

用賀神社の神輿渡御の写真
出発前の式典

挨拶や半纏合わせ、乾杯などが行われます。

用賀神社の神輿渡御の写真
担ぎ出し

狭い通りなのでゆっくり担ぎ出されます。

用賀神社の神輿渡御の写真
太鼓車の行列

多くの子供たちが参加していました。

用賀神社の神輿渡御の写真
子供神輿

野球少年たちが頑張っていました。

用賀神社の神輿渡御の写真
商店街へ向かう神輿

色んな地域から応援の担ぎ手が集まります。

用賀神社の神輿渡御の写真
本村稲荷を出発

ここでは上用賀地区の担ぎ手が前で頑張ります。

用賀神社の神輿渡御の写真
夜の渡御

賑やかな商店街を進みます。

用賀神社の神輿渡御の写真
夜の中町通りの渡御

車線をはみ出さないようにするのが大変です。

用賀神社の神輿渡御の写真
宮入りの様子

横の駐車場で宮入が行われます。

用賀神社の神輿渡御の写真
若獅子会の宮入

若獅子会、その他と分けて宮入が行われます。

用賀神社の神輿渡御の写真
最後の収め

交代で三度宮入が行われていました。

用賀神社の神輿渡御の写真
飾り神輿の一之宮

台座が弱いので担がれる事はありません。

用賀神社の祭礼では、宵宮に子供神輿と太鼓車、本祭では大人の宮神輿の渡御が行われます。一の鳥居の横には神輿をしまっている巨大な御輿舎があり、祭礼時には多くの神輿が並びます。その中でも目を引くのが一之宮の神輿。昭和10年に神田鍛冶町・村田惣三郎によって建造されたもので、台座は2尺6寸、延軒屋根、勾欄造りの立派な神輿です。

昭和51年に修理されているので見た目には古さを感じなく、まだまだ現役でやれるようにも見えますが、現在では担がれる事はなく、祭礼期間中は飾り神輿として御輿舎に飾られています。昔のものなので台座部分、特に台座から出ている棒穴が細く、現在の担ぎ方では台座が持たないのだとか。修理から上がって担いだ時なのか分かりませんが、もう台座が緩くなっているから担げないようなことを言っている人もいました。いわゆる手製の工芸品と同じなので、簡単に部品を交換して強化するといった訳にはいかないようです。

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現在担がれているのは、社殿を新しくし、遷宮を機に建造された二之宮です。昭和53年に浅草・宮本重義によって製作された台座が2尺3寸(71cm)で、唐破風軒屋根、勾欄造り、駒札は用賀神社が掲げられます。神輿の宮出しが行われるのは社殿前とか、境内の中ではなく、御輿舎の前の道路になります。ちょうど一之宮の神輿の前から出発するといった感じです。

12時半にまず子供神輿や太鼓車が出発していき、13時になると出発式が行われます。御霊移しは前日に行われているので、挨拶や注意事項、半纏合わせなどが和やかな雰囲気の中で行われ、最後に乾杯をして出発の準備に入ります。子供神輿や太鼓車は別ルートで、渡御は高張りと神輿になります。渡御コースは毎年ほぼ一緒で、駅周辺の商店街、住所にすると用賀2~4丁目を中心に回ります。広大な氏子町域を持つ事を考えると、駅周辺しか回らないといった表現が正しいかもしれません。

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渡御コースで興味深いのは上用賀3丁目にある本村稲荷に向かうことです。名前の通りかつてこの辺は本村と呼ばれていた地域で、用賀村を開き、江戸時代には用賀村の名主を務めた飯田家の屋敷があった地域です。本村稲荷がある付近は少し高台になっていて、明治41年に用賀神社に合祀された天神社があったのがここで、地元の人は天神山と呼んでいたとか。

天神社が合祀された後、境内にあった稲荷様は残され、本村稲荷と名付け地域の人々が守り続けてきました。また天神社の東側には用賀で一番大きな溜池、天神溜池がありました。用賀村は台地状にあり、水にとても苦労した地域であります。本村であること、名主の家があること、祭神である天神社の跡地であること、村人が力を合わせて掘った大事な溜池があったことなどからわざわざ神輿がやってくるにふさわしいほど用賀では大事な地域であると言えます。

それに上用賀地域に神輿がやってくるのはここだけです。用賀神社の神輿渡御では「若獅子」の文字の入った半纏と「賀」のはいった半纏が多いですが、「賀」の半纏は上用賀地域の睦会です。本村稲荷周辺では上用賀の人間が中心となって担いでいるのも象徴的です。ちなみに馬事公苑があるのは上用賀になります。馬事公苑では夏に世田谷区の区民祭りが行われ、神輿パレードも行われます。その時には普段見ることのできない上用賀神輿が出ます。

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夕方からは旧大山通りや駅前通り、中町通りと練り歩いていき、宮入は19時半頃になります。宮入も宮出し同様神社に入ることはなく、収める場所は御輿舎の横の駐車場になります。ここでは一旦収めると若獅子会の宮入、同好会の宮入と分けて宮入が何度も行われます。確か三回ずつ行っていたような気がしますが、そんなに広いスペースがあるわけではないので、ちょっと窮屈そうでした。それでもみんな神輿を中心に輪になって楽しそうに宮入をしていました。用賀神社の神輿渡御は全体的に商店街の渡御が中心なので賑やかな感じの神輿渡御となっています。

* 感想など *

用賀は人気のある田園都市線に駅がありながら、地味な印象のする町です。田園都市線は渋谷から池尻、三軒茶屋、駒沢、桜新町、用賀、二子玉川と続きますが、その中で一番印象が薄いのが用賀のように感じます。町名にしても、名前は恐らく日本でここだけといった独特なものですが、なんていうか地味な響きなのです。

田園都市線の車内アナウンスでも用賀だけはトーンが下がる感じがしてしまいます。もちろんこれは個人的な印象なのでお洒落な地名に感じる人もいるかもしれませんが、私自身長く用賀に住んでいて用賀っていまいちぱっとしないなと常々感じています。

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用賀には世田谷で三番目に高いビルが駅前にあったり、首都高の用賀料金場があったり、砧公園までいらか道が通じていたり、馬事公苑もさりげなく用賀にあったりしますが、用賀の顔というか、用賀らしさがあまりないので印象が薄いのでしょうか。一応用賀らしさと言えば、いらか道や駅前の再開発がありますが、いらかとは瓦のことで灰色が基調とした道となっていて、用賀の駅前の再開発もいらか道に合わせて灰色で統一されています。

そのため用賀の町全体とはいいませんが、町の中心的な存在である駅前の印象が灰色といった感じとなり、余計に印象が薄くなってしまっているような気がします。もちろんこれは裏返せば落ち着いた雰囲気の町とも言えるかと思います。

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そういった印象が薄く、落ち着いた感じの用賀で行われる用賀神社の祭礼ですが、普段の町の様子からするとビックリするぐらい境内は混み合い、奉納演芸も賑わい、神輿渡御も盛大に行われます。お隣の桜新町では春には桜祭り、秋の初めにはねぶた祭りと大きなイベントがあり、そういった賑やかな様子を知っているので神社の秋祭りが賑やかに行われていても、まあこんなものかとビックリすることもないのですが、用賀の場合は普段人が集まるようなイベントがほとんどないので、余計に賑やかさが際立っている感じです。

普通に考えれば氏子地域が広大なのでこれぐらい賑わっても不思議ではないのですが、神社はそんなに大きくないし、平凡な住宅街が一面に広がっている町といった事から、規模が縮小され、小さな秋祭りとして細々と行われているのかなと想像していたのでちょっとビックリしてしまいました。

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かつては祭礼時に暴れ獅子が町を練り歩いていたようです。残念ながら暴れすぎて封印されてしまったようで、現在では社殿に飾られるだけとなってしまいました。暴れ獅子といえば港町でよく行われている印象があり、現在でも三浦半島の三崎では暴れ獅子が家に突入していきます。もちろん家主に了解を得て、家側もここまでとか、或いはビニールシートを敷いていたりと準備をしています。おそらくそういった獅子舞が用賀で行われていたに違いありません。

現在の地味で落ち着いた雰囲気の用賀でそういった荒々しいような独特な風習が行われれば、また用賀のイメージが変り、用賀も特徴が出ていいのにと思います。そろそろ獅子の眠りを覚ましてあげてもいいのでは・・・と思うのですが、どうでしょう。

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<世田谷の秋祭り File.43 用賀神社例大祭 2013年11月初稿 - 2015年10月更新>