世田谷散策記 世田谷の秋祭りのバーナー
秋祭りのポスター

世田谷の秋祭り File.42

深澤神社例大祭

高級住宅街として名が知れる深沢で行われる祭礼。桜並木の美しい閑静な住宅街や呑川緑道を神輿が進んでいきます。

鎮座地 : 深沢5-11-1  氏子地域 : 深沢1~8丁目、桜新町1丁目と新町1丁目の南部、駒沢5丁目、駒沢公園など  社格 : 旧深沢村村社
御祭神 : 天照大神、大山都見尊、日本武尊、倉稲魂神、八幡大神
例祭日 : 10月第二月曜(体育の日)に本祭、前日の日曜に宵宮
神輿渡御 : 大神輿、女神輿(深沢不動から)、子供神輿、太鼓車、町会神輿
祭りの規模 : 小規模  露店数 : 15店程度
その他 : 奉納演芸が行われます。

*** 旧深沢村と深澤神社 ***

深澤神社の写真
神社の入り口

坂の途中に入り口があります。

深澤神社の写真
社殿

コンクリート製の神明造です。

深澤神社の写真
弁天社

社殿の横にあります。

深澤神社の写真
弁天池

社殿後ろにひっそりあります。

* 旧深沢村と深澤神社について *

深沢は名前の通り深い沢、呑川が台地を削った深い沢地を中心とした地域です。現在の呑川は国道246号から駒沢通りまでが水を循環させている親水公園となっていて、駒沢通りから目黒区へは暗渠となった緑道になっています。このきれいに整備された様子からはあまり深い沢といったイメージが湧きませんが、かつては水量が豊富で、川幅は1m程、深いところでは水深が80cmもあったそうです。長い年月をかけて台地を削って深い沢になったのも頷けますし、「呑川」の名がたび重なる氾濫で回りの村々を「呑みこんだ川」と言われ、それが「呑川」と呼称されるようになったというのも納得です。

また深沢高校にある清明亭は元わかもと製薬社長長尾鉄弥氏の邸宅の一部として昭和6年に建築されたものですが、呑川へ向けての崖地を利用した地上階の約半分が列柱により支えられた木造住宅(懸造り)になっていて、武蔵野の趣のある眺望を得られるようにできています。かつては深沢の名にふさわしい渓谷のような風景が広がり、お金持ちが別荘にするにはふさわしい土地でもありました。

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深沢が開けたのは小田原北条氏の配下、伊豆衆の一人と知られた南条右京亮重長がこの地を治めるようになってからです。南条氏は永禄七年(1564年)に下総で行われた里見氏との国府台合戦に功をたて、北条氏康から深沢郷を賜わりました。そして簡単な土塁で囲った兎々呂城を築いてこの地を治めたそうです。都立園芸高校はその兎々呂城の跡地に造られたとされ、園芸高校に城址跡の碑が建てられています。

ただこれには色々と諸説があり、別に深沢城があり、兎々呂城は出城だったとか、深沢城と兎々呂城は同じものだとか、玉川警察署付近、或いは深沢坂上付近から深沢神社の辺りにあったのでは・・・などとも言われています。また兎々呂城の名からお隣の等々力町の名が付いたという説もあったりします。

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当時の世田谷は吉良氏が支配していたとはいえ、1560年には血筋が絶え、吉良氏に嫁いだ北条氏綱の娘、崎姫の子(吉良氏との子ではない)、氏朝を嗣子として迎え、奥沢の大平氏を直臣とし、用賀には飯田氏、瀬田には長崎氏そして深沢には南条氏が入り、北条の支配下に移行している時期でした。しかしながらその北条氏も天正十八年(1590年)に秀吉に滅ぼされて、主君を失った南条氏は城を壊して平地とし、性を南条から小谷岡と替え(後に谷岡)、この地で帰農し、深沢の名主を務めました。現在でも深沢神社の南付近に谷岡の性がみられます。

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江戸時代になると初めは旗本領でしたが、正保年間(1644~1648年)頃から幕府の天領となり、純農村として発展していきます。新編武蔵国風土記稿には幕末の村の様子が書かれていますが、村内にはわずかに高低差があるけど多くは平地で、田は少なく畑が多い土地。野土にし粗田だったそうです。

大正や昭和の初め頃には呑川流域の崖でつくるタケノコがおいしくて有名だったとか。また明治45年から大正2年にかけて新町の南部から深沢にかけて関東で最初の郊外型分譲住宅地が東京信託会社(現日本不動産)によって新町分譲地として造成されました。深沢が高級住宅地となる始まりです。

またこの頃園芸高校や駒澤大学、そして駒沢公園の位置には駒沢ゴルフ場ができるなど雑木林ばかりだった村がどんどんと開けていった時期です。戦後になると宅地化がどんどん進んでいきます。それでも深沢村には秋山氏、三田氏、谷岡氏などといった土地を持った地主がいて、そういった地主の広い土地は遅くまで開発から守られてきました。近年そういった広く、閑静な土地に高級マンションが建ち、現在でも高級住宅地という土地柄は変りません。

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深沢の中心を流れている呑川。その駒沢通りの南側に三島公園があり、その奥に三島幼稚園と深沢神社があります。三島の名が示すようにかつては三島神社でした。三島神社といえば静岡の三島にある三嶋大社が本山です。伊豆に流された源頼朝は深く崇敬した神社と知られ、頼朝が旗揚げを成功してから武門武将の崇敬が篤く、伊豆国一宮として知られています。

世田谷でその三嶋大社を本山とする三島神社というのは珍しい存在なのですが、これは兎々呂城の城主南条氏が伊豆出身の武将だったからです。創建は永禄七年(1564年)と伝わっているという事から、この地に三嶋大社の分霊と共に着任し、すぐにお祀りしたようです。

ただこれは伝承で、元禄九年(1696年)に南条氏の子孫である谷岡家が勧請したことになっています。新たに勧請したのか、きちんと勧請し直したのか、屋敷社程度のものを勧請し直して神社にしたのかその辺の事情は分かりません。

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明治の初め(7年?)には村社となります。深沢にはズシごとに八体の神様が祀られていたのですが、合祀令で明治40年に伊勢神社と稲荷神社、明治42年に天祖神社、山際神社、稲荷神社、御嶽神社、八幡神社が三嶋神社に合祀され、社名も深沢神社と改められました。大正5年頃には社殿や神楽殿を改築しています。

この当時は社殿は呑川の方、北東向きに建てられていました。参道も同じく呑川の方へ向いていて、参道の北側、現在の三島幼稚園から三島公園にかけて湧き水による広い三島池がありました。この池には三島になぞられてなのか、一坪半程度の大きさの三つの島が設けられていて、それぞれ丸太の橋でつながれ、一番奥の島には弁財天が祀られていました。

この弁財天も伊豆の三嶋大社の末社として祀られている農耕用の水の神様を祀ったものだとか。この池には片目の鯉の伝説が残っています。この弁天様は眼病に患う人に信仰があり、病に苦しむ人々が願をかけ、身代わりに鯉の目をつぶして池に放したとかで、池の鯉が片目のものばかりだったという不気味な話も残っています。

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昭和39年には三島池が埋め立てられ、呑川も埋め立てられ、緑道となります。そして三島公園と幼稚園が建てられました。恐らく敷地を売ってお金ができたことで、境内や社殿の大幅な改築が行われます。その際に今まで三島公園の方向にあった参道が南東側の道路の方に付けられ、社殿も南東向きになりました。

社殿は昭和41年建築の鉄筋コンクリートの神明造です。社殿の東側に境内社として弁財天が祀られていて、奥には階段を下りていくと小さな池と橋があります。小さなまいまいず井戸(渦巻き井戸)のような感じです。かつての大きな池から考えると寂れた感じですが、今でも眼病のお参りにくる方もいるそうですが、夏には蚊がもの凄く多そうな感じです。神社全体としては住宅地の中にポツンとある感じであまり趣がありませんが、境内には古い大木が幾つかあります。

*** 深澤神社の秋祭りの様子 ***

深澤神社の秋祭りの写真
清め

式典に先立って行われます。

深澤神社の秋祭りの写真
例大祭の式典へ向かう人たち

神社の外を回って社殿に向かいます。

深澤神社の秋祭りの写真
神楽殿

見上げるような高い位置に舞台があります。

深澤神社の秋祭りの写真
深沢囃子

子供の姿もありました。

深澤神社の秋祭りの写真
神社の周りの様子

周辺道路にも屋台が出ます。

深澤神社の秋祭りの写真
境内の様子

社殿前を中心に屋台がでます。

* 深澤神社の秋祭りについて *

合祀される以前は広い深沢村だったので上地区と下地区とに分かれ、一年おきに交代で祭礼を行っていました。上地区は現在の深沢神社を中心とした地区で、下地区は駒沢公園の南部に当たる地域で駒八通りの深沢交差点近くに神明社です。現在でも神輿渡御は一年おきに上地区と下地区を交代で回っているのはその名残かもしれません。

合祀された明治42年以降は10月17日が例祭日となり、戦後は祭日に合わせて日曜日になりましたが、その後10月10日の体育の日となり、現在も体育の日に行われていますが、曜日が固定された為、日曜日が宵宮、月曜日が本祭とちょっと変った感じの日程になっています。

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日程は宵宮の日の13時より神輿遷霊祭が執行され、境内では保存会により囃子も行われます。年によって違うようですが、18時~19時ぐらいから氏子による奉納演芸が行われます。

本祭の日は朝9時より随時お囃子が演奏され、11時から例大祭式典が執行されます。式典は宮司、関係者が雅楽を伴って脇参道から出て、神社の周りを通り、表参道から社殿へ参進するのが伝統となっているようです。13時から神輿渡御が行われ、18時頃宮入。

そして19時よりプロによる奉納演芸が行われます。露店は境内に10店ぐらい、神社周辺の道路に5店ぐらいと15~20店ぐらい並びます。夜になると結構賑わった感じになりますが、昔はもっと露店が並び、もっと賑っていたそうです。

*** 深澤神社の神輿渡御 ***

*** 宮神輿渡御 ***

深澤神社の神輿渡御の写真
出発式

出発前に挨拶や乾杯などを行います。

深澤神社の神輿渡御の写真
宮出し

広めの階段と鳥居なので比較的スムーズです。

深澤神社の神輿渡御の写真
太鼓車

多くの子供たちが引っ張ります。

深澤神社の神輿渡御の写真
子供神輿

桜並木が美しい呑川緑道の脇を進みます。

深澤神社の神輿渡御の写真
台車での移動

移動の長い区間では台車が使用されます。

深澤神社の神輿渡御の写真
駒八通りを進む神輿

お隣の等々力からの応援も多いようでした。

深澤神社の神輿渡御の写真
エダンモール商店街

深沢三丁目の御酒所となります。

深澤神社の神輿渡御の写真
深沢一丁目の御酒所

広々とした御酒所が設置されていました。

深澤神社の神輿渡御の写真
深沢不動

ここから女神輿も出て、宮入道中が行われます。

深澤神社の神輿渡御の写真
お囃子連中

御酒所で神輿を迎え、そして送ります。

深澤神社の神輿渡御の写真
女神輿の出発

大神輿よりも一足先に出発します。

深澤神社の神輿渡御の写真
女神輿の宮入

大神輿より先に済ませます。

深澤神社の神輿渡御の写真
深沢坂上を目指して登る神輿

宮入前の山場です。

深澤神社の神輿渡御の写真
深沢坂上交差点

後は神社に向かうだけです。

深澤神社の神輿渡御の写真
宮入り道中

役員が提灯を掲げて先導します。

深澤神社の神輿渡御の写真
宮入してきた神輿

神楽殿前は広いのでそんなに混雑はしません。

深澤神社の神輿渡御の写真
神楽殿前での甚句

毎年恒例となっています。

深澤神社の神輿渡御の写真
社殿前での収め

最後は社殿前に場所を移して収めます。

深澤神社の神輿渡御の写真
締めの一本

多くの人が見守っていました。

深沢神社では毎年体育の日に宮神輿の渡御が行われています。運行されるのは太鼓車、子供神輿、大人神輿ですが、最後の区間のみ女神輿も運行されます。渡御コースは一年おきに違います。かつて広い深沢村では一年おきに上地区と下地区とで祭礼を行っていました。上地区は現在の深沢神社を中心とした地区で、下地区は駒沢公園の南部に当たる地域で駒八通りの深沢交差点近くに神明社で行われていました。そういった名残りだと思うのですが、現在でも神社の北側を回る年と神社の東側を回る年に別れています。

北側は国道246号を越えて桜新町商店街の交番があるところまで行き、南側は目黒通り近くまで行くのでどちらのルートにしても長丁場となります。そしてどちらのルートを通るにしても新町住宅街の桜並木に呑川の桜並木と世田谷でも有名な桜並木を通るというのもここの神輿渡御の特徴となるでしょうか。

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深澤神社の宮神輿は昭和初期、浅草宮本神輿店の宮本重義作です。御霊入れは前日の宵宮に行われ、本祭の日は13時から挨拶や乾杯などが行われた後に宮出しが行われます。神輿渡御は太鼓車、子供神輿、大人神輿が運行されますが、太鼓車と子供神輿は大人神輿と同じようなルートを進むのですが、大人神輿よりも少し先を進み、一緒に渡御するわけではありません。また移動が長い区間では台車が使われます。

ここの神輿渡御で少し変っているのはお囃子です。トラックを改造した山車などにお囃子連中が乗って神輿の先導をするというのはよくあるのですが、ここの場合は神輿と一緒に練り歩くことはなく、神社や御酒所で神輿を見送ると、次の御酒所などに先回りし、そこで神輿を迎え、また見送ると次の御酒所へといった感じで出迎えと見送りを繰り返します。一応子供神輿や太鼓車は子供たちが、大人神輿は大人の方が演奏していました。

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最後に神社近くで小休止がありますが、宮入前の大きな休憩はどちらのルートでも一緒で駒沢通りと駒沢公園通りの交差点に位置する深沢不動です。17時頃から宮入道中が行われますが、ここからは子供神輿などに代わって女神輿が運行されます。女神輿も昭和7年に浅草宮本製作のもので、残念ながら大神輿と一緒にアベック渡御するわけではなく、一足先に進んでいきます。宮入も女神輿が宮入した後に大神輿が宮入を行うといった形になります。

宮入道中では深沢坂上まで登る区間が難所というか、ハイライトとなります。きつい坂ではないのですが、だらだらと登っているので段々と担ぎ手の威勢がなくなるといった感じです。この坂は江戸時代には主要道路だった道で、等々力の満願寺もここの付近にあったのではといわれています。

宮入は役員の人が提灯を灯して歩き、その後ろを神輿が続きます。宮入した神輿はまずは神楽殿に向かい、ここで甚句を詠います。その後は社殿の前で収めます。昔訪れたときや現在でも女神輿は御輿舎の前で収めているのですが、大神輿は社殿前に替えたのか、年によって替えているのかは分かりません。

*** 町会神輿 ***

深澤神社の町会神輿の写真
御酒所前に置かれた太鼓車や神輿

東深沢睦の名が入っていました。

深澤神社の町会神輿の写真
東深沢神輿

延軒屋根のシンプルな神輿です。

深沢神社の宮神輿の渡御では「深三」の文字の入った半纏をよく見かけます。深沢三丁目で活動する睦会です。深沢三丁目といえばエダンモール商店街があり、この商店街が中心となって深沢神社の祭礼では御酒所が設置されます。ここには大人神輿に子供神輿、太鼓車があります。

深沢神社の祭礼では宮神輿は一年おきに桜新町方面の新町方面と、こちらの東深沢方面と交互に巡幸されています。どちらの場合でも同じなのか分かりませんが、東深沢方面に巡幸した際に置いてあった神輿を発見して尋ねると、土曜日の夕方17時から商店街内だけだけど神輿を担いで回ったそうです。昔は担ぎ手が多くいたので東深沢神輿を運行できていたそうですが、担ぎ手が少なくなり、神社の神輿が中心で、商店街のみ担ぐことになったとか。このエダンモール商店街と駒八通りを隔てた深一商店街でも子供神輿の運行を行っているようでした。

* 感想など *

深沢と言えば高級住宅地としては名が知れているようですが、それ以外ではあまり印象の深くない町です。深沢はかなり大きな町域を持っているのに鉄道の駅がないのもその原因でしょうか。深沢がある位置も人によっては桜新町の南側、駒沢の西側、或いは都立大駅の西側、等々力の北側などと人ぞれぞれの立ち位置によって見方が違うようです。深沢には旧町域を含めると、駒澤大学、日本体育大学、都立園芸高校、都立深沢高校、学芸大学附属小、中学と学校が多く、実は学園都市の先駆け的な存在だったりするのですが、学生たちが利用する駅はバラバラで、同じ学校でも学生の都合によって駅が違っているのがその象徴かもしれません。

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深沢は高級住宅地の先駆けとなった新町住宅地があった土地でもあります。そして近年でも高級住宅地というより高級マンションが多い土地として知られています。高級マンションが建つにはそれなりの広さの土地が必要なわけで、そういった土地は地主が守ってきた土地を利用したものが多いです。

深沢には2丁目を中心とした三田家、6丁目を中心とした秋山家、5丁目を中心とした谷岡家といった大きな土地を持った地主が居ました。谷岡家は等々力城の城主だった家系で、三田家は豪農、2丁目にある深沢二丁目広場に展示してある旧家屋を見れば納得です。秋山家は世田谷に名が知れた大地主で、隣の旧野良田村だった中町は秋山家の小作人が多かったと聞きます。そういった地主たちが中心となって耕地整理が行われたり、村のしきたりなどが決められました。

神社の総代やら祭礼もそのはずです。お金が掛かるものですから。現在の祭礼ではあまり地主の影響は感じないかもしれませんが、地主の本宅の前を子供神輿が通っていくのは昔の名残かもしれません。ただ逆にいい面もあって、駅や大きな商店街がない町域の祭礼は町域ごとの自治会がバラバラになりがちなのですが、ここではよくまとまって見えます。それはまとめ役の地主がいたからなのでしょう。長いものには巻かれろといいますが、まあその通りだと思います。深沢を歩いているとつくづく地主の力や財力は凄いなと思ってしまいます。

<世田谷の秋祭り File.42 深澤神社例大祭 2013年11月初稿 - 2015年10月更新>