世田谷散策記 世田谷の秋祭りのバーナー
秋祭りのポスター

世田谷の秋祭り File.35

大蔵氷川神社例大祭

かつて広大な氏子町域を誇った大蔵氷川神社ですが、行政上などの理由から今では本村だけの祭礼と寂しいものとなってしまいました。

鎮座地 : 大蔵6-6-7  氏子地域 : 大蔵2、4、6丁目
御祭神 : 素盞嗚尊  社格 : 旧大蔵村村社
例祭日 : 10月2日と10月第一日曜
神輿渡御 : 宮神輿、太鼓車、トラック山車
祭りの規模 : 小規模  露店数 : なし
その他 : ーーー

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*** 旧大蔵村と大蔵氷川神社 ***

大蔵氷川神社の写真
神社の入り口

かつては階段下にも鳥居がありました。

大蔵氷川神社の写真
鳥居と狛犬

狛犬は古いものですが、鳥居は新しいものです。

大蔵氷川神社の写真
社殿

平成元年に造営されました。

大蔵氷川神社の写真
愛宕社と7つ宮

合祀された社が並びます。

大蔵氷川神社の盆踊りの写真
盆踊り大会

出店も並び賑わいます。

大蔵氷川神社の盆踊りの写真
盆踊りの様子

昭和的な雰囲気のする会場です。

* 旧大蔵村と大蔵氷川神社について *

大蔵町というとどの場所をイメージするでしょうか。多くの人が世田谷通り南部の国立成育医療センター(旧国立大蔵病院)や大蔵運動公園、大蔵団地などをイメージするのではないでしょうか。確かに現住所では世田谷通りの南側付近が大蔵ですが、離れた場所、小田急線の祖師谷大蔵駅にも大蔵の名があります。これは小田急線が開通した頃、この付近が大蔵村だったから付けられた駅名です。

かつての大蔵村は広大で、現在の砧町に小田急線の北側を少々、そして南部も鎌田町に玉川3、4丁目の一部を含む村域を持っていました。その大蔵村に表現が悪いですが、虫食いのように大小十八の飛地として点在していたのが鎌田村です。

昭和30年になると複雑に絡み合った旧大蔵村、旧鎌田村地域の飛び地が整理され、この2村の細長い地形が、北が砧として新しく独立、真ん中が大蔵、南が鎌田といった具合に分けられました。概ね旧大蔵村の山野地域が新たな町域である砧になったといった感じです。

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広大な村域を誇った大蔵村ですが、その由来についてははっきりしていません。古い話では、この地を治める石川朝臣豊人という人が延暦7年(788年)に武蔵守となり、さらに大蔵卿となったことから、このあたりを大蔵村というようになったといった話が伝えられています。

面白い話では、「吾妻鏡」によると久寿二年(1155年)に武蔵国大倉館で源義賢が鎌倉悪源太義平によって討たれていますが、この大倉はここ大蔵のことで、館があったのが殿山(永安寺の裏手の丘)で、村社の氷川神社に源義賢などが祀られたといった話もあります。信憑性の薄い話のように思えますが、「源義賢朝臣墳」という石碑も個人宅ですが祀られているそうです。

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実際にある記録から推測すると、仁治元年(1240年)に石井石見守兼周やその子左衛門尉兼章が幕府から武州石井郷を賜って移り住んでいます。石井郷は現在の大蔵5丁目の石井戸地区を指していると思われます。更に少し時代を進めると天文二年(1533年)に吉良頼康が大平氏に大蔵村の年貢40貫を与えているという記録があります。これより古い記録があるのか分かりませんが、これが文献で残る最初の記録かもしれません。

そして大蔵6丁目にある永安寺は延徳2年(1490年)に建立されたとされていますが、この寺は元々鎌倉の大蔵ヶ谷に足利氏満が建てたもので、二度の戦火で荒廃したものを遺臣たちが地名の同じこの地に再建したと言われています。この話が真実なら1490年以前に大蔵村なり集落が存在したということになりますが、この史実が後に村の名となった、いわゆる永安寺が引っ越してきたことで大蔵村という地名が付けられたという説もあるので、1490年から1533年の間に大蔵村が誕生した可能性もあります。

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寛永10年(1633年)の記録では石高263石と記録されていることから、大きく村が発展しています。これには慶長二年(1597)から12年かけて完成した六郷用水(次大夫堀用水)の影響があったようです。そして「江戸名所図会」には石井郷は明暦年間(1655~57年)の頃、大蔵村と共に多摩郡の内に加えられ、大蔵村の小名となったと書かれているので、この時に大きく村域が加算され、大きな村となったと思われます。

元禄3年(1690年)には石井兼重が家塾菅刈学舎を開き、玉川文庫を創設しました。この石井家に安永7年(1778年)に石井至穀が生まれます。至穀は幼い内から書物に通じた文人で、幕府の御家人として江戸城に長く勤めた人です。湯島の学問所では勤番組頭を務め、嘉永4年(1851年)には書物奉行に任じられています。至穀には玉川紀行といった著書も多くあり、大蔵にとっては郷土の人という位置づけになるでしょうか。石井家の菩提寺である永安寺に彼の墓があります。

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明治になると、明治8年に大蔵の東にあった小さな横根村が併合され、明治12年には大蔵、喜多見、宇奈根、鎌田、岡本の各村が連合し、大蔵に役場が置かれました。明治22年にはこれらの村が完全に合併し、新たに砧村が誕生しました。砧の名は、世田谷区の見解を見ると、「古く7、8世紀のころ、朝廷に納める布を衣板(きぬいた)でたたいて柔らかくし、つやを出すために使った道具から生まれたといわれています。女の人の夜なべ仕事として砧の音が響いたことや、その布を染め、多摩川の清流にさらして洗ったことなどは詩情にもうたわれてきました。」との事です。同じく多摩川沿いにある調布とか布田、染地などと通じるものがあります。

明治26年には砧村は神奈川から東京府に編入されます。大正から昭和初期にかけては玉川電車、小田急線が開通し、人口が急増します。昭和11年には砧村が東京市に編入し、世田谷区に属する事となり、砧村は消滅し、世田谷区大蔵町になりました。昭和30年には先に書いたように飛び地整理が行われ、大蔵の北の山野地区は砧の名前が復活し砧町と付けられ、南は鎌田町となり、現在の町域になりました。

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大蔵村の鎮守だったのが氷川神社です。境内にある由緒によると、「暦仁元年(1238年)当地の主となる江戸氏が、足立郡大宮(さいたま市大宮区)の御神を勧請したことに始まる。」とあります。仁治元年(1240年)に石井石見守兼周やその子左衛門尉兼章が幕府から武州石井郷(大蔵村)を賜って移り住んでいます。氷川神社や永安寺から東名高速へ続く丘は殿山と呼ばれています。殿山は鎌倉時代に石井氏の館があったからそう呼ばれているとされています。

そうなら石井氏がこの地の鎮守として氷川神社を祀ったと考える方が適切な感じもしますが、喜多見村、宇奈根村の氷川神社と三所明神となっているとなると話は違ってきます。大蔵村だけではなく、喜多見村や宇奈根村にも影響力がなければ三所明神を祀る事はできないのです。

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そう考えると、源頼朝の武蔵入国に助力、さらに源平の合戦、奥州征伐などに参戦し、鎌倉幕府の樹立に尽力した功によって喜多見を含む武蔵七郷を賜った江戸氏が創建に関わったと考えるのがやはり自然に感じます。当初、喜多見には江戸氏の一族である木田見氏が住むだけでしたが、太田道灌の台頭によって本家の江戸氏は江戸を明け渡すことになり、1457年に一族を頼って喜多見に住むことになりました。そして吉良氏の配下となり喜多見を守っています。

神社の創建に関しては鎮座年歴不詳というのが実際のところで、氷川神社を勧請したのが、木田見氏の鎌倉時代なのか、江戸氏の室町時代なのかははっきりしません。天文年間(1532~55)には松井坊なる山伏が奉祀し修験道の道場になったといった記録があるので、少なくともそれ以前には宗派はわかりませんが、神社としての形態が整えられていたようです。

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大蔵氷川神社には多くの棟札が残っていて、ある程度その歴史が分かります。一番古いものは永禄八年(1565年)で、「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神四ノ宮」と記されています。これはおそらく石井戸に造られた神社のものではないかと思われます。大蔵出身で幕府の書物奉行にもなった石井至穀の書いた「大蔵村旧事項」によると、宇奈根に大己貴尊(一の宮)、大蔵に素戔嗚尊(二の宮)、北見(喜多見)に奇稲田姫(三の宮)、石井戸大神宮に手摩乳(四の宮)、岩戸八幡(狛江市)に脚摩乳(五の宮)が勧請されたとあります。それと一致するにはするのですが、そうなると五所明神となり、また話がややこしくなってしまいます。

その他、明暦二年(1656年)の棟札には再建した事。文政年間(1818~30)の棟札には本殿および拝殿が再建された事など詳細に記してあります。本殿は文政7年(1825年)に造られたもので、現川崎市の上平間村の大工、渡辺喜右衛門源暁の作。彫刻は渡辺徳次郎源棟績の作で、江戸時代後期の建築的特徴をよく現しており、数点伝わる棟札とともに、世田谷区の有形文化財に指定されています。

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創建に関してはどうであれ、石井氏を中心とした大蔵の人々によって守られてきた神社であるのは確かなようです。明治10年に村社に指定され、明治41年には合祀令により、石井戸の愛宕神社、横根の稲荷神社が合祀され手いるほか、7つ宮も境内に祀られています。以前、拝殿内に飾られていた絵馬、板絵着色大蔵氷川神社奉納絵図は世田谷区指定有形文化財に指定されている貴重なもので、今では損傷が酷く保管されています。

この絵馬は明治7年に氏子によって奉納された畳一畳ほどの大きなもので、明治初頭の大蔵村氷川神社周辺の風景がよく表現されています。その絵には氷川神社には二の鳥居まであるのですが、現在は階段の上にしかありません。寛政七年の棟札に石鳥居と石灯籠を造るとあり、その鳥居が現在で言う階段の下に一の鳥居としてあったのですが、平成七年の台風で大きな木が倒れ、その下敷きとなり倒壊。そのまま撤去されてしまいました。

現在の社殿は平成元年に再建されたものです。その他境内には・・・、絵馬と同様にとくに何もなかったりします。昔からそう変らない神社のようです。

*** 大蔵氷川神社の秋祭りの様子 ***

大蔵氷川神社の秋祭りの写真
秋祭りのときの入り口

参道などに提灯がつるされ少し賑やかです。

大蔵氷川神社の秋祭りの写真
お神輿が戻ってきた後の境内

周囲には何もなく、暗いです。

大蔵氷川神社の秋祭りの写真
発輿の準備中

神輿があるだけで普段とあまり変りません。

* 大蔵氷川神社の秋祭りについて *

大蔵氷川神社の祭礼は大祭の式典が行われるのは昔から10月2日と決まっていて、神輿渡御は氏子などの事情に合わせて10月第一日曜日か、2日以降の日曜日となるのかわかりませんが、日曜日に行われています。祭礼中は境内や参道、社殿前に提灯が並べられて、ちょっと華やかな感じにはなりますが、基本的には普段と変りません。

境内に出店もでなければ、奉納演芸も行われなく、大祭日には式典が行われ、日曜日には神輿が町会を練り歩くだけです。何というか、神事だけというか、ちょっと寂しい感じの祭りです。

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もちろん広大な町域を誇っていた大蔵村の村社だった頃は祭りも盛大だったようです。戦前までは広大な氏子地域を神輿が2日かけて回っていたし、境内では神楽や芝居などが夜がふけるまで行われていました。山野地区(現砧町)、東部、石井戸、本村、吉沢などから多くの人がやってきてとても賑やかな祭りだったそうです。明治7年に描かれた板絵着色大蔵氷川神社奉納絵図には湯花神事を行っている様子が描かれていて、かつては湯花神事も行われていたことが伺えます。

それが戦後になると、旧横根村の大蔵一丁目が合祀された横根稲荷神社を復活させ、昭和27年に山野地区(現砧町)が氷川神社から脱会し、三峯神社を創建し、新たな氏子となりました。昭和30年には町域変更で南部が鎌田町となり、石井戸も神社は合祀されたままですが、石井戸地区(5丁目)で独自に祭りを行うようになり、気がつけば大蔵4丁目と6丁目ぐらいしか氏子地域がなくなってしまいました。4丁目も大半が大蔵運動場なので、実質6丁目を中心とした地域ということになります。そう考えると祭礼規模は氏子地域相当といった感じなのでしょうが、大蔵村の村社であり、本村で行われているお祭りにしては・・・と考えると、ちょっと寂しいものを感じます。

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ちなみに夏には盆踊りが行われるのですが、盆踊りの時には大きな櫓が境内に建てられ、地元の有志による出店も並び、そこそこ多くの人が訪れ、境内も賑やかです。かつての賑やかさを思い浮かべるなら盆踊りの時に訪れた方がイメージが沸くかと思います。盆踊りに関しても大蔵では1丁目の東部自治会が横根稲荷神社で、3丁目の大蔵団地自治会が団地内で、5丁目の石井戸自治会が石井戸公会堂で、そして6丁目の本村が氷川神社で行い、大蔵全体として第二運動公園で納涼盆踊り大会が行われるといった具合にこの大蔵地域はバラバラなのか、団結しているのかよく分かりません。

*** 大蔵氷川神社の神輿渡御 ***

*** 宮神輿渡御 ***

大蔵氷川神社の神輿渡御の写真
運行前

挨拶や注意事項の説明が行われます。

大蔵氷川神社の神輿渡御の写真
宮出し

階段ではなく、脇の坂道から出ます。

大蔵氷川神社の神輿渡御の写真
神社の下を進む太鼓車

 

大蔵氷川神社の神輿渡御の写真
路地を進む太鼓車

付近の神社に比べると子供が少ないかも。

大蔵氷川神社の神輿渡御の写真
路地を進む神輿

坂が多い土地なので大変です。

大蔵氷川神社の神輿渡御の写真
渡御風景

 

大蔵氷川神社の神輿渡御の写真
宮入してきた神輿

観客はほとんどいないけど盛り上がっていました。

大蔵氷川神社の神輿渡御の写真
最後の締め

周りに何もなく、時代感覚がなくなります。

大蔵氷川神社では毎年10月の第一日曜日、或いは2日以降の日曜に神輿渡御が行われます。神輿は平成6年に浅草・宮本重義によって建造されたもの。延軒屋根 勾欄造り、台座は一尺九寸(58cm)で、駒札は本村。提灯にも大蔵本村と入り、本村が強調された感の強い神輿です。

かつては広大な大蔵村の村社だったので、一日で本村、山野(現在の砧町)、東部、石井戸、本村、吉沢といった町域を回りきれず、二日間神輿が担がれていました。それが現在では大蔵の本村地区だけが氏子地域となってしまったので、本村が強調されているのかなといった感じです。

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神輿渡御は12時半から挨拶などが行われます。2日の大祭日に御魂入れやお祓いなどは済ませているようで、宮司の姿はなく、挨拶や御神酒での清めだけで出発となります。担ぎ手は半纏を見る限りではすぐ近くの鎌田や石井戸、宇奈根からの応援が多いようでした。

渡御は太鼓車、お囃子を乗せたトラック山車、大人神輿で進みます。町域は実質大蔵6丁目と4丁目なので、広い地域を回らなくてもいいのですが、結構坂が多い土地でもあります。最初に登る殿山と、後で登る大蔵運動公園に至る坂は担ぎ手には堪えます。

宮入は18時半頃。暗い中での宮入となりますが、露店などが出ていない神社はかなり暗いです。一応参道などには提灯が灯り、境内にも幾つか照明が灯されますが、この暗さは世田谷とは思えないといった感じです。これはこれで雰囲気があって、ちょっと昔にタイムスリップしたような感覚になっていいかもしれません。

* 感想など *

かつて広大な村域を誇り、祭りも二日間に渡って盛大に開かれていたといった面影は今は全くありません。砧三峯神社、横根稲荷神社、石井戸祭りとそれぞれの地域で祭りが行われるようになり、また大蔵村南部も鎌田に町域変更されたので、極端に氏子地域が小さくなってしまいました。本来では本村と言えば村の中心であり、周辺の地区が沢山あってこその本村の存在感というものが増すのですが、氏子町域が本村だけといった祭りというのはちょっと寂しいものがあります。

大蔵は気前のいい土地柄のようです。石井戸の井戸の話、安藤家の薬の話などといった伝承を読むと、人に尽くしてもお礼を受け取らないのが大蔵流といったところでしょうか。まあ現実はどうなのか分かりませんが、この話的に現状をなぞると、何でもかんでも気前よくあげてしまい、気がついたら自分の周りの土地しかなくなってしまったといった教訓的な昔話が大蔵本村に当てはまりそうです。もちろんそれは行政などの決めたことで大蔵村には関係ない事だったかもしれません。でもここまで小さくなってしまった本村の現状を考えると、こんな話が頭に思い浮かんでしまいました。

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<世田谷の秋祭り File.35 大蔵氷川神社例大祭 2013年9月初稿 - 2015年10月更新>