世田谷散策記 世田谷の秋祭りのバーナー
秋祭りのポスター

世田谷の秋祭り File.32

砧三峯神社例大祭

新しく砧の氏神となった三峯神社で行われる祭り。三峯神社の神紋である菖蒲菱を掲げている神輿は数少ない存在です。

鎮座地 : 砧4-8-4  氏子地域 : 砧1~8丁目  社格 : ーーー
御祭神 : 伊弉諾神、伊弉冉神(いざなぎのかみ、いざなみのかみ)
例祭日 : 10月第一日曜
神輿渡御 : 宮神輿、子供神輿、太鼓車、山車
祭りの規模 : 小規模  露店数 : 数店
その他 : 奉納演芸が行われます。

*** 砧と砧三峯神社 ***

砧三峯神社の写真
神社の入り口

狭い通りにあります。

砧三峯神社の写真
社殿

昭和37年に建てられたものです。

砧三峯神社の写真
狼像

三峯といえばこれ、大神、大口神ともいいます。

砧三峯神社の写真
灯ろうと水盤

阿夫利神社の名が書かれていました。

* 砧と砧三峯神社について *

環八が右辺、小田急線が上辺、仙川が左辺、そして世田谷通り(一部旧道)が底辺といった方形に近い町域を持っているのが砧です。砧と聞くとまず砧公園を思い浮かべる人もいるかと思いますが、砧公園はこの町域ではなく、もっと南側にあります。

現在の砧は通りや線路に囲まれた不自然な形をしている町域で、かつては大蔵村の一部でした。最初に砧の名が登場するのは明治22年の事。多摩川流域付近にある大蔵、鎌田、岡本、喜多見、宇奈根の5村が合併し、そのときに生まれたのが砧村です。ちょうど小田急線から北側の村が合併して千歳村ができたのと一緒です。

千歳村の場合には村民に投票で縁起のいい千歳の名が付けられたのですが、砧の場合はこの地域に根付いた名前が付けられました。砧という言葉は、世田谷区の見解を見ると、「古く7、8世紀のころ、朝廷に納める布を衣板(きぬいた)でたたいて柔らかくし、つやを出すために使った道具から生まれたといわれています。女の人の夜なべ仕事として砧の音が響いたことや、その布を染め、多摩川の清流にさらして洗ったことなどは詩情にもうたわれてきました。」との事です。同じく多摩川沿いにある調布とか布田、染地などと通じるものがあります。

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その大規模な村連合の砧村は昭和11年に世田谷区に属する事となり、世田谷区大蔵といった元々の所属していた村の住所表記になりました。この時に砧の名はいったん消滅します。昭和30年になると複雑に絡み合った旧大蔵村、旧鎌田村地域の飛び地が整理され、この2村の細長い地形が、北が砧、真ん中が大蔵、南が鎌田といった具合に分けられました。概ね旧大蔵村の山野地域が新たな町域である砧になったといった感じです。

この山野地域は真ん中を流れる谷戸川で西と東に分かれ、川周辺に田んぼが開け、農家が点在しているといった地域でした。そして東側、現在の環八付近は世田谷でもっとも標高が高い地点で、その場所には山野給水場(現、砧給水場)が建てられていました。とりわけこの給水所の周辺は雑木林が広がり、開発が遅かった地域です。この地域は多摩川から遠く、土地も高台の台地にあるので、町名の由来となった砧が使われていたかは怪しいかもしれません。

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昭和35~42年にかけて環八と世田谷通りが整備され、現在の町域が決まります。その後急速に宅地化が進み、田畑が消え、雑木林が消えていきました。現在大蔵山野地区だった痕跡は余りありませんが、山野小学校や山野公園などにその名が受け継がれています。

砧は新しくできた町なので、特に何もないと言えば何もない地域なのですが、新しい町だからこその特徴もあります。それは撮影所が多い町なのです。東宝の砧撮影所、ウルトラマンで知られる円谷プロダクション、NHKの放送技術研究所、TMC(東京メディアシティ)といった撮影所があります。円谷プロは移転してしまいましたが、こういった撮影所が近いという立地上、成城に並んで著名人が多く暮らしている町でもあります。

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砧の氏神は三峯神社です。神社について少し知識のある人はあれっと感じるかもしれません。多くの場合、三峯神社は境内社とか、町の路地にひっそりとある小さな祠として存在しているからです。三峯神社は秩父の三峯山に鎮座する山岳信仰の秩父神社を本社とする神社で、祭神は国生みの神、伊弉諾尊と伊弉册尊です。

三峯神社と言えば三峯講です。江戸時代中期から後期にかけて秩父の山中に棲息する狼を猪などから農作物を守る「お犬さま」として崇める御眷属(ごけんぞく)信仰が流行るようになります。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになると、関東・東北等を中心に江戸の町や農村集落でも信仰されるようになり、各地から三峯山へ参拝する三峯講(三峰代参講)が行われました。砧でもこの頃より三峯講が行われていて、宝暦(1751~63)、安政(1854~59)、文久(1861~63)の年号が入った三峯神社発行の代参帖・寄付金額収書等が残っています。

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とまあ古くから砧では三峯講が行われていたのですが、講はあくまでも講であって、氏神とは違います。一般に村では神社の氏子、寺の檀家といった組織が主であって、講は副の組織になります。例えば世田谷では大山講も知られていますが、それは雨が降らなく困った場合とかに行われるもので、日常の氏神だけではどうにもならない場合のプラスアルファ的な意味合いであり、あくまでも村の外の神様です。いってみれば氏子などの切れない関係ではなく、利害関係で結ばれた関係と簡潔にいう方がわかりやすいかもしれません。

だから先に書いたように三峯神社は地域の氏神様を越えることはなく、境内社とか、街角の小さな祠で存在するのが普通であって、このような立派な社殿があり、村の鎮守として存在しているのは珍しいのです。

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その理由は、砧町が新しくできた町だからです。それまでは大蔵村山野だったので、氏神は大蔵村本村の氷川神社でした。砧から本村までは結構距離がありましたが、一村一社の合祀令があったし、人口が多いわけでもなかったので神社が造れずにいました。

戦後になると合祀令が解け、宅地化が進んで人口が増え、昭和27年に大蔵氷川神社の氏子から離れて、三峯講の蚕様として祀られていた三峯神社を砧地域の氏神とすることに決めました。この地域は日当たりのいい丘があったので桑畑がたくさんあり、古くから養蚕が盛んだったという土地柄だったので、三峯講が盛んだったのです。それに隣町にあたる横根稲荷神社や宇山稲荷神社が合祀先から独立した影響もあったことでしょう。それまでは37坪という小さな境内だったのを350坪に広げ、昭和37年には社殿、拝殿を新築し、神社の形態が整えられます。この時に秩父三峯神社から分霊を勧請して安置しています。

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昭和46年には正式に神社の指定を受け、昭和48年に社務所、昭和52年に手水舎、昭和59年に灯籠、平成元年に神輿、平成二年に舞台兼御輿舎が建設されるなど、神社の陣容が少しずつ整えられていきます。新しい神社なので境内には特に古いものがありませんが、三峯信仰の象徴である狼の像は社殿前にあるのが大正時代のもの。手水舎近くにあるものが昭和初期と神社として整備される前のものです。この他、境内には稲荷神社が境内社として祀られています。

*** 砧三峯神社の秋祭りの様子 ***

砧三峯神社の秋祭りの写真
秋祭りのときの入り口

幟と提灯が設置され賑やかになります。

砧三峯神社の秋祭りの写真
例大祭と神輿

午前中に社殿内で祭礼が行われます。

砧三峯神社の秋祭りの写真
夜の神社入り口

提灯に明かりが灯され賑やかです。

砧三峯神社の秋祭りの写真
奉納演芸

歌や舞踊が行われます。

砧三峯神社の秋祭りの写真
金魚すくい

境内に一店出店が出ていました。

* 砧三峯神社の秋祭りについて *

砧三峯神社の祭礼は、以前は10月1日に行われていましたが、今では10月第一日曜日に行われています。祭礼は一日のみで、午前10時から社殿で式典が行われ、正午に神輿が出発していき、19時頃に戻ってきます。境内では18時から奉納演芸がはじまります。奉納演芸は地元の団体による舞踊やカラオケなどになります。

境内が狭いこともあって露店は出ませんが、夕方になると金魚すくいなどの縁日が入り口の狭いスペースで有志によって行われる事もあります。また神社の前の通りは商店が並ぶ通りなので、有志の人が店の前などに簡単な出店を出して祭りを盛り上げています。境内が広くないのもあり、神輿の出入りがあるとき以外は人は少なめです。

*** 砧三峯神社の神輿渡御 ***

*** 宮神輿渡御 ***

砧三峯神社の神輿渡御の写真
運行前

狼像に挟まれた場所から出発です。

砧三峯神社の神輿渡御の写真
担ぎ始め

赤い半纏が三峯神社の半纏です。

砧三峯神社の神輿渡御の写真
宮出し

狭い参道を進んで鳥居をくぐります。

砧三峯神社の神輿渡御の写真
世田谷通りの渡御

NHK技研に入り差し上げを行います。

砧三峯神社の神輿渡御の写真
NHK技研横の桜並木

担ぎ手が多いです。

砧三峯神社の神輿渡御の写真
子供神輿

子供神輿も菖蒲菱が入っています。

砧三峯神社の神輿渡御の写真
お囃子車

砧囃子が努めます。

砧三峯神社の神輿渡御の写真
宮入前

神社前の通りは盛り上がります。

砧三峯神社の神輿渡御の写真
宮入

提灯のトンネルをくぐる感じです。

砧三峯神社の神輿渡御の写真
宮入りしてきた神輿

境内が狭いので人が溢れるといった感じです。

砧三峯神社の神輿渡御は毎年10月第一日曜日に行われます。宮出しは昼12時で、社殿前の狼像の間という狭い場所から担ぎ始めます。渡御は弊、つゆ払い、高張り、太鼓、子供神輿、山車、大人神輿の順で行われます。神社の規模の割には長い行列となり、担ぎ手も比較的多いので、賑やかな感じの渡御となります。

渡御コースは分かりませんが、一番の繁華街である祖師ヶ谷大蔵駅前や祖師谷商店街が担ぎ手の見せ場となるでしょうか。また東京メディアシティやNHK技研といった撮影所を回れるのもここの神輿渡御の特徴となります。

宮入は19時頃で、神社前の商店街を練り歩くのが最後の見せ場となり、盛り上がります。神社の前が狭く、鳥居も低いので、神社に入るまでが大変ですが、境内に入ってしまえば狭いのもあって、簡単に収めてしまう感じでした。

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大人神輿は平成元年に浅草・宮本重義によって製作されたもので、延軒屋根 勾欄造り、台座は二尺(63cm)です。比較的小振りですが、黒の屋根に金色の飾り紐と相成って大きさ以上に重厚な印象を受けます。特に屋根に付けられた菱形の紋はインパクトがあり、まるで兜とか、甲冑のようなイメージを持ちます。

この菱形の紋は菖蒲菱といい、秩父三峯神社の神紋になります。神社の紋にしては格好いいというか、精錬されているのは、京都花山院宮家の紋でもあるからです。天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称していた頃、観音院七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は十万石の格式をもって遇れ、社紋も花山院宮家の菖蒲菱が使われているそうです。三峯神社で神輿が出るところは少ないので、ある意味菖蒲菱が付けられている神輿は珍しいとも言えます。

* 感想など *

約56mと世田谷一の標高誇る砧の氏神が山岳信仰の三峯神社であるという事は、まあ大したネタにもならないのでしょうが、全くの無関係でもなく、標高の高い砧の丘は日当たりがよく、桑畑に最適だった為に養蚕業が盛んでした。当時の秩父でも養蚕業が盛んに行われていて、ほとんどの人が蚕で生計がなっていたものだから「お蚕様」と最大級の敬意を込めて呼ばれていました。そういった土地の事情から蚕は大事にされ、普通は蚕は天の虫と書きますが、秩父の三峰神社では神の虫と書かれています。

そういった背景を考えると、江戸時代に砧から遙々秩父まで三峯講が何度も行われていた背景には養蚕の本場で知識や技術の取得といった側面もあったのかもしれません。昭和になり、養蚕業や三峯講は下火になっていきますが、三峯講は火事や盗難を防いでくれる神様でもあり、宅地化、都市化が進んでいく砧にとってふさわしい神様でした。砧の氏神となってからまだ新しい神様ですが、ずっと時代の流れと共に砧の人々と一緒にあった神様と言えるようです。

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色々と複雑な事情のある三峯神社ですが、今ではすっかりと町に溶け込んでいます。祭礼も特筆することがないような当り前の祭礼が行われ、菖蒲菱を付けた神輿が賑やかに町を練り歩きます。町を守り、平和をもたらしているのは三峯の狼様のおかげと言いたいところですが、砧には町を守るヒーローが他にもいます。それはウルトラマンです。

円谷プロが砧にあったことから砧の英雄でもあります。近年砧の商店街と祖師谷の商店街が連携してウルトラマン商店街を名乗るなど、地域内、地域外と人々の心を繋げる潤滑油の役割も担っていたりします。地球を守るヒーローと地域の火事や盗難を防いでくれる三峯様に守られた砧は人の心も穏やかで、きっと住みやすい町に違いありません。

<世田谷の秋祭り File.32 砧三峯神社例大祭 2012年8月初稿 - 2015年10月更新>