世田谷散策記 世田谷の秋祭りのバーナー
秋祭りのポスター

世田谷の秋祭り File.27

給田六所神社例大祭

旧甲州街道の西の端にある給田では大太鼓と子供御輿が給田の自慢である給田小学校子ども囃子の演奏と共に練り歩きます。

鎮座地 : 給田1-3-7  氏子地域 : 給田1~5丁目
御祭神 : 大国魂大神、天照皇大神  社格 : 旧給田村村社
例祭日 : 10月第四日曜と前日?
神輿渡御 : 子供神輿、大太鼓車
祭りの規模 : 小規模  露店数 : 10店弱
その他 : 奉納演芸が行われます。

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*** 旧給田村と給田六所神社 ***

給田六所神社の写真
神社の入り口

こぢんまりとした感じの神社です。

給田六所神社の写真
社殿

平成3年に改築された神明造、銅板葺の建物です。

* 旧給田村と給田六所神社について *

甲州街道沿いというか、京王線沿いの西端に位置するのが給田です。天正18年(1590年)の記録に給田という地名が記されているので、古くから給田という地名は存在していたようです。

ちょっと変わった地名ですが、給田という言葉を辞書などで調べると、中世の荘園制における給田が出てきます。これは、荘園領主や国衙が荘園の管理を命ぜられた荘官、地頭、年貢運輸者・手工業者などといった人にその手当として渡した田や畑を意味する言葉で、給畠や給田畠も同じような意味です。おそらくこの給田という言葉が地名の由来となったと考えられていますが、具体的な由来は伝わっていないそうです。

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江戸時代、給田村は幕府の天領と旗本領として治められていました。給田村には仙川が流れていて、その付近の低地で稲作を中心に農業が行われ、甲州街道沿いにはまばらに民家が並び、その他は雑木林ばかりの土地だったようです。

明治に入ると品川県、そして東京府、更には多摩郡、神奈川県と所属が変わり、明治22年に千歳村が成立した際に三鷹や調布の村の連合から分かれて烏山などと同じ千歳村に所属することとなります。後に千歳村は東京府の所属となり、世田谷の一部となります。世田谷の端という立地上、過去には色々と所属変更があったようです。

大正二年には京王線が調布まで開通し、給田には駅がなかったものの交通の便が少しよくなります。ただ大正九年(1920年)の第一回国勢調査では給田村に暮らすのは56世帯、352人でした。江戸時代の文政十年(1827年)の資料では民家46戸と書かれているので、なかなか人口の増えない土地だったようです。

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仙川の南側の丘に給田六所神社があります。府中六所宮(現在の大国魂神社)の分霊を勧請して造られた神社で、おそらく天文年間(1532~1554年)に創建されたのではと言われていますが、詳しいことは分かっていないそうです。

明治6年に給田村の村社となり、明治24年には社殿が改築され、明治42年には合祀令により、村内にあった室町時代創建と言われる神明社が合祀され、稲荷神社も境内に移転してきました。大正4年に本殿などの改築を行い、昭和37年に神楽殿や社務所を新築しています。

平成3年には社殿を改築し、参道や鳥居、手水舎、境内社等を整備し、遷座祭を執り行っています。境内はそんなに広くありませんが、整備されてまだあまり年月が経っていないので、比較的新しい感じがする神社となっています。

*** 給田六所神社の秋祭りの様子 ***

給田六所神社の秋祭りの写真
秋祭りのときの入り口

ちょっと賑やかな感じになります。

給田六所神社の秋祭りの写真
夜の風景

夜になってもあまり混雑しません。

給田六所神社の秋祭りの写真
大太鼓

土曜日の最後に叩いていました

給田六所神社の秋祭りの写真
奉納演芸

とても近代的な神楽殿です。

給田六所神社の秋祭りの写真
お囃子の奉納

給田小学校子どもばやしのみなさんです。

給田六所神社の秋祭りの写真
同じく獅子舞の奉納

観客が少ないのが残念です。

* 給田六所神社の秋祭りについて *

昔の祭礼は11月23日に行われていて、霜降り祭りと言われていました。後に10月6日になり、更には10月2日となり、今ではここ数年の傾向からみると10月の第四週とか第三週の週末に行われているようです。ちゃんと尋ねていないので祭礼日に関してはよく分かりません。祭礼自体はとても地味で、参拝客も多くなく、露店も境内に少し出るだけです。境内が混み合うことはほとんどありません。

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祭礼は土日の二日間ですが、土曜日に神輿と大太鼓が巡行します。13時に出発して16時頃に戻ってくるといった感じで、子供が中心の渡御です。土曜日の夜には18時から地元の有志によって奉納演芸大会が行われます。カラオケが中心で、舞踊があり、なぜか柔道の形や演舞が多かったりします。演芸が終わると大太鼓を境内の真ん中に引っ張り出してきて打ち鳴らしていました。日曜日は18時半より芸能人演芸大会が行われます。どういった芸人が来て、どういった演目をやるのかは見ていないので分かりません。

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六所神社の祭礼で注目すべきはお囃子です。ここのお囃子はなんと地元の小学生が中心で、その名も「給田小学校子どもばやし」といいます。昭和53年に結成され、その活動は30年以上も続いているというから驚きます。なぜ小学校のお囃子なのか。それはよくある後継者不足で、給田や烏山地域に昔から伝わる郷土芸能の存続が危ぶまれたのを継承し続けようと給田小学校の中から希望者を募り、結成されました。

給田六所神社以外にも烏山神社の祭礼や区の郷土芸能大会でも活躍しています。そういった行事以外にも各施設に赴き、施設に入所している方へ元気を与えているそうです。さすがに笛は大人がやっていましたが、それ以外はよく練習しているようで、なかなか頑張っていました。区の郷土芸能大会でも子供が中心なのはここだけなので、一際声援が多いです。

*** 給田六所神社の神輿渡御 ***

*** 子供神輿と太鼓車 ***

給田六所神社の神輿渡御の写真
大太鼓の巡行1

結構賑やかな感じの渡御です。

給田六所神社の神輿渡御の写真
大太鼓の巡行2

横から見た図です。やっぱりでかい。

給田六所神社の神輿渡御の写真
子供神輿

おとなしい渡御でした。

給田六所神社の神輿渡御の写真
太鼓車

台座部分が結構高いです。

給田六所神社の神輿渡御の写真
お囃子車

給田小学校子どもばやしが活躍します。

給田六所神社の神輿渡御の写真
お囃子と太鼓行列

子どもたちを鼓舞していました。

給田六所神社には大人が担ぐ大きな神輿はなく、子供が担ぐような小さな神輿しかありません。その代わりと言っては何ですが、ご自慢の大太鼓があります。この大太鼓は平成五年に奉納されたもので、愛知県津島市の太鼓処 堀田新五郎で作られたものです。

太鼓自体大きいのですが、台車の方も結構高めに造られているので、全体としてはかなり大きく見えます。太鼓の上に立つと家の二階と同じ目線になるというのは稲荷森稲荷神社の大太鼓と同じですが、やはり稲荷森の大きさを見てしまうと、少し小振りに感じてしまうものです。大太鼓と言えば給田六所神社が神様を勧請してきたと言われる府中の大国魂神社のくらやみ祭でも大きな太鼓が打ち鳴らされます。その時に各町会の大きな太鼓が並ぶ様子は圧巻です。

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渡御が行われるのは土曜日で、13時に宮出しが行われ、16時に宮入となっています。先導するのはお囃子のトラック車で、太鼓車、子供神輿と続きます。太鼓引きに参加する子どもは多く、それなりに長い行列となります。

大人神輿がないので、盛大とか、賑やかで活気のある神輿渡御とはいきませんが、大太鼓から鳴り響く大きな音は迫力があり、旧甲州街道を子どもたちが渡御する様子はほのぼのとしていい感じです。同じように旧甲州街道を渡御する烏山神社の賑やかな渡御とはまた違った趣がありました。

* 感想など *

給田と烏山。世田谷の北西部の旧甲州街道沿いに並んでいる町域ですが、烏山神社の祭礼に子供囃子が参加していたりと、色んな場面で文化が被ります。そもそも給田六所神社の真ん前にあるのは烏山小学校です。元々は烏山の中心付近にあったのが給田に移動してきたものだそうです。一方、子供囃子で知られる給田小学校は甲州街道の北側、烏山に面した場所に位置しています。小学校の学区からしてごちゃ混ぜになっている感じです。

給田の特徴とも言える給田子供囃子も地元に伝わるお囃子という事ですが、烏山でも地元の囃子は給田小学校で伝えられているといった紹介がされています。ここではあまり区別しないというか、そういった土地柄なのでしょうか。給田らしさは何だろう。千手観音堂で行われている盆踊りにも出向いてみましたが、今のところ給田らしさを見つけられずにいます。

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<世田谷の秋祭り File.27 給田六所神社例大祭 2013年8月初稿 - 2015年10月更新>