せたがや百景 No.41-50の紹介
昭和59年に世田谷区と区民によって選定された「せたがや百景」のNo.41-50の紹介です。詳細は個別のページをご覧ください。
No.41 烏山西沢つつじ園

4月から5月の初め、満開時の西沢つつじ園は色彩の乱舞する華やかさでおおわれる。ツツジ、サツキの品種も多く、愛好家はもちろん多くの人々が訪れる。入り口付近の年を経たカラタチの大木も珍しい。園内では苗木の販売も行われ、遠くから買い求めに来る客もあると聞く。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:北烏山6-15、16 備考:ーーー


甲州街道の烏山総合支所入り口交差点の北側に昭和大付属烏山病院があります。この病院の北側に広大な西沢つつじ園と烏山つつじ緑地があります。
西沢つつじ園は、植木屋をやっている西沢さん個人のツツジ園というか、ツツジ畑です。その隣にある烏山つつじ緑地も、元々は西沢さんのツツジ園の一部でしたが、ツツジが植えられたまま区の公園として整備されました。
緑地の方は、私有地の西沢つつじ園とは違って通路が舗装されていて、ベンチも置かれているので、くつろげるようになっています。

普段は地味な場所ですが、ツツジの見ごろの時期に訪れると、辺り一面が色とりどりのツツジであふれかえっています。およそ100種類という種類の多さや、色の違いから、目に入ってくる色が飽和してしまうぐらいの色鮮やかな光景となります。
23区内では、お寺や神社、庭園などがツツジの名所として知られていますが、そういった場所は同じような種類のツツジが咲いていたり、木々の下草といった感じで植えられています。あくまでもツツジは庭園などの美しさを引き立てる、縁の下の力持ちといった存在です。
ここでは禁断のというか、ツツジがメインで植えられています。というより、正式にはツツジ畑なので、ほぼツツジしかありません。なので、青空に生えるツツジがとても美しいです。その様子はまるでツツジの絨毯。感動すること間違いなしです。
- <詳細ページ>
- ・烏山西沢つつじ園(百景41)
No.42 烏山寺町

東京の小京都といわれるこの一帯は寺院が連なり、静かで緑濃いたたずまいとなっている。関東大震災後、被害にあった都心の寺院が移転して寺町はできた。景観を守るために、地域の住民の手で自主的に環境が保持されていることにも注目したい。一日ゆっくり寺々を訪れれば、それぞれ見所の多いところでもある。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:北烏山2、4、5丁目 備考:ーーー


大正12年(1923年)の関東大震災を機に、都心部から郊外へ住居や教育機関などの移転する動きが活発になりました。
お寺も例外ではなく、震災で被害を受けたり、復興の都市計画で移転を余儀なくされた寺院が、烏山の外れに寺町を造り、集団で引っ越してきました。
烏山寺町は、震災の翌年から建設が始まり、大正15年までに6寺、昭和3年までの間に16の寺が引っ越してきました。その後、昭和30年までに4寺が増えて、現在では26の寺院で形成されています。
26もの寺が集まっているので、この一帯はお寺だらけ。それぞれのお寺の個性や風情を楽しみながら散策することができます。とはいえ、小京都を名乗るには・・・。ちょっと役不足かなといった感じがします。

26もの寺があるので、色々と見どころも多いです。ただ、文化財に関しては、震災で焼け出されたお寺が多いので、寺町の規模からしたら、ちょっと少ないと言えるかもしれません。
建物的には新しいものばかりですが、移築して客殿として使っている鍋島家の楼閣は、世田谷区の文化財になっています。ちょっと変わった蕎麦禁制の石碑や、江戸の名鋳物師、釜六が制作した天水桶もあります。
多くの墓地があるので、都の史跡になっている浮世絵師、喜多川歌麿の墓をはじめ、世間に名を知られた方のお墓があります。

自然も多く残っていて、高源院の弁天池は烏山弁天池特別保護区に指定されています。桜は玄照寺の枝垂れ桜が有名で、その他、保存樹になっている立派な樹木も多く、季節ごとに散策を楽しむことができます。
No.43 烏山の鴨池

寺町の北の外れにある高源院の鴨池には、秋も深まるとたくさんの鴨が飛んでくる。コガモ、カルガモ、マガモなどが、浮御堂を映した水面を泳ぐ。夏には睡蓮などが咲き乱れ、赤い欄干にもたれていつまでも見飽きない。湧き水の涸れることのないこの池は、地域住民の環境協定で守られている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:北烏山4-30-1(高源院) 備考:ーーー


烏山寺町の一番北に高源院があります。高源院には湧水を蓄える弁天池があり、烏山川の源流の一つとなっています。
実は、最初からこの地に弁天池があったわけではありません。品川からこの地に引っ越してきた高源院が、湧水が湧いていた場所を掘り下げ、大きく広げて池にしました。そして、弁財天を祀る弁天堂を建て、弁天池と名付けました。

作為的に作られた池ではありますが、自然本来の湧水をたたえ、自然らしい環境が整っていることには代わりなく、毎年秋になると、渡り鳥のコガモが池に飛来してくるようになりました。そして、いつしか人々から鴨池と呼ばれるようになりました。
ただ、それは昭和の話となり、現在では留鳥のカルガモを目にするぐらいです。カモは飛来してこなくなりましたが、餌を求めてサギなどの水鳥の姿を目にすることもあります。そういった自然本来の環境が残っていることから、烏山弁天池特別保護区に指定されています。
- <詳細ページ>
- ・烏山の鴨池(百景43)
No.44 北烏山の田園風景

都会の緑の保全に都市農業が役立っていることが見直されている。田園風景などとっくに世田谷から消えたと思っている人も多いが、この一帯には生産緑地としての畑が残っている。田園風景の広がっていた世田谷の昔日が思い出される。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:北烏山7丁目付近 備考:ーーー


かつての烏山地域(旧千歳村)は、甲州街道沿いに家々が並び、街道沿いに町が発展していました。街道を外れると、家はまばらで、現在の甲州街道の辺りは農村風景が広がり、中央自動車道よりも北側は、ほとんど人ガ住んでいませんでした。
この地が変わっていくのが、関東大震災後。郊外への移住や移転が進み、未使用の広大な土地があった北烏山では、まず寺町が引っ越してきて、何もない北烏山に忽然と寺町が出来上がりました。その後、戦前、戦後にかけて多くの団地が建ち、高度経済成長期になると、一般住宅も多く建つようになりました。
そういった中に畑が多くあり、百景に選ばれたわけですが、近年では烏山は住みたい町にランクインするなど、人気の町。現在進行形で離農や相続やらで畑が宅地にどんどん変わっていて、今では他の地域と比べ、明確に畑が多いとは言えない状態になってしまいました。
- <詳細ページ>
- ・北烏山の田園風景(百景44)
No.45 旧甲州街道の道筋

南烏山から給田へとつづく道はかつての甲州街道。昔の街道筋を偲ばせる風景はほとんど残っていないが、実はこの道筋そのものが街道だったことを忘れるわけにはいかない。道の由来を知れば、その時代、時代の道筋の風景を脳裏に浮かべることもできる。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:南烏山3丁目~給田3丁目 備考:ーーー


甲州街道は、江戸から甲州、甲斐国(山梨県)へ通じている道で、江戸幕府によって整備された江戸五街道の1つです。
環八と甲州街道が交わる交差点のすぐ西側から、大通りを斜めに南側に外れていく道があります。この道はかつての甲州街道の本筋だった道ですが、バイパスができたので旧道になりました。
旧道というのは、往々にして昔の様子を色濃く残しているものですが、百景の紹介文にあるように、ここでは昔の面影はほとんど残っていません。でも、ゆったりと道が曲がっている様子や、街道沿いにある石碑などから、昔の様子をかろうじて偲ぶことができます。
- <詳細ページ>
- ・旧甲州街道の道筋(百景45)
No.46 給田小学校の民俗館

給田小学校の一角にワラ葺のままの農家が保存されている。農具などの農村生活に深い関りがあった道具類も併せて保存され、小さな民俗館となっている。農村だったころを思い出させる。児童にとって得がたい郷土教育の教材でもある。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:給田4-24-1 備考:ーーー


建て替え前の給田小学校には、地域から移築してきた宍戸家のワラ葺古民家と、農機具を保存した民俗館があり、一般の人も見学することができました。
平成17年から給田小学校の建て替えに伴い、古民家は一度解体されましたが、建て替え終了後、学校の敷地の隅に復元され、平成22年に落成式が行われました。
ただ、以前のように見学可という状態にはなっていなく、古民家も藁ぶきだった屋根はトタンでのようなもので覆われ、壁も過剰に保護され、古民家風建物といった存在になってしまいました。
- <詳細ページ>
- ・給田小学校の民俗館(百景46)
No.47 祖師谷つりがね池

雨乞いのため、僧が釣鐘を抱えて身を沈めたことから、その名がついたと伝えられている。現在は付近の子ども達の絶好の遊び場だ。池の周辺には緑も残り、雨の降った後には池底から水が湧き出すのを見ることもできる。小さな風景だが、なんともいえない親しみがある。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:祖師谷5-33 備考:ーーー


祖師谷の住宅地の中につりがね池があります。池のすぐそばにまで住宅が建ち、住宅に埋まるように池が立地している様子に驚きます。
つりがね池は元々湧水が豊富で、池の水は生活用水、農業用水に使われていましたが、都市化によって湧水が枯れてしまいました。今ある池は、公園化の際、人工的に復活させたものです。なので、池のすぐそばに家を建てても大丈夫というわけです。

池のほとりには弁天様を祀った弁天社があり、古くから付近の住民がこの池と湧水を大切にしてきたことが分かります。今でも小規模ながら弁天まつりを行っているそうです。
池の周囲には木々が多く、池の周回に設けられた散策路を歩くと、四季の情緒を感じることができます。また、池の中にはコイや亀、またカルガモなどの水鳥も暮らしています。池のすぐそばに住宅があること以外は、素敵な池のある空間になっています。
- <詳細ページ>
- ・祖師谷つりがね池(百景47)
No.48 上祖師谷の六郷田無道

狭いうえにも交通量が多く、古い道とは想像もできない。しかし、道筋に寺や社を見つけると、かつてののんびりした往来が目に浮かんでくる。地形に素直に合っている古い道は、なぜか人の匂いがある。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:上祖師谷1、2丁目 備考:ーーー


滝坂道の榎交差点から、旧甲州街道の給田町交差点を結んでいるのが、六郷田無道です。この道は大田区の六郷と、西東京市の田無を結んでいる道で、環七や環八が整備される前は、環状線の役割を担っていたので、交通量が多かったそうです。
現在の六郷田無道は、そういった昔の面影はなく、道沿いには普通の住宅が並び、通行する車も少なく、これといった特徴のない道です。道沿いにある造園業者で、鶏が放し飼いで飼われていることが、印象的だったぐらいです。
- <詳細ページ>
- ・上祖師谷の六郷田無道(百景48)
No.49 武家屋敷風の安穏寺

寛永年間(1624-44)に建てられたといわれるが、一時荒れはてていたため詳しいことは不明。古い墓石には名字を持つものが多く、謎が深まる。車の往来の激しい坂道に沿って、山門や白壁の塀が黙然と存在している。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:上祖師谷2-3-6 備考:ーーー


滝坂道の榎交差点から調布にかけては、旧道のままなので、道が狭く、しかも交通量が多いので、歩行者や自転車は通行するのが大変です。
その中でも難所の一つになっているのが、安穏寺前の安穏寺坂で、坂の途中に寺の入り口があります。車におびえながら安穏寺に入ると、正面に白壁と立派な山門が目に入ります。
タイトルにある武家屋敷風と入っているのは、この門のことで、武家屋敷にあってもさほど違和感を感じない佇まいをしています。この門以外は、武家屋敷といった雰囲気はなく、普通のお寺といった感じでした。
- <詳細ページ>
- ・武家屋敷風の安穏寺(百景49)
No.50 上祖師谷神明社

浅葱色をした社殿は昭和41年に建てられたもの。江戸時代から上祖師谷の鎮守だったと思われます。神明社の脇を通る道は、昔「滝坂道」といわれた街道で、現在も交通量は多い。時代の激しい移り変わりをじっと見つめてきたお社です。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:上祖師谷4-19-24 備考:ーーー


古くから街道、滝坂道が仙川を渡る場所にかかるのが、宮下橋。そのすぐ傍の丘に、上祖師谷村の村社だった上祖師谷神明社があります。
現在の神社はコンクリート製で建て直されていて、境内にもそんなに見所と呼べるものはなく、訪れても普通の神社といった感想になるかと思います。

ただ、街道沿いの丘にあるという立地は素晴らしく、特に何もないけど、なんだか雰囲気がいいと感じる人も多いです。それ故に、百景に選ばれたのでしょう。
特に雰囲気がいいと感じるいのが、秋祭りの時の境内。丘全体が適度に明るくなり、何か懐かしいような、情緒を感じるような・・・といった感じで、素敵な雰囲気に包まれます。
- <詳細ページ>
- ・上祖師谷神明社(百景50)