世田谷散策記 せたがや百景項目一覧

せたがや百景 No.21-30の紹介

昭和59年に世田谷区と区民によって選定された「せたがや百景」のNo.21-30の紹介です。詳細は個別のページをご覧ください。

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No.21 招き猫の豪徳寺

招き猫の豪徳寺の解説板

井伊家の菩提寺。幕末の大老井伊直弼の墓もここにある。区内有数の名刹で、広い境内には江戸開府のころ「オイデオイデ」の手招きで井伊直孝を危険から救ったという招き猫の伝説の招福堂や鐘楼、本堂が立っている。福を呼ぶ招き猫が門前で売られている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:豪徳寺2-24-7 備考:ーーー

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豪徳寺 仏殿
仏殿

江戸時代の世田谷は、彦根藩井伊家の所領となっていました。井伊家の東京での菩提寺となっていたのが、世田谷城の跡地を整備して建てられた豪徳寺でした。

井伊家の援助によって整えられた寺の伽藍は、禅宗伽藍配置の基本通りに、手前から山門、仏殿、法堂(本堂)と一直線上に建てられています。仏殿は昔のままで、中に安置されている仏像とともに世田谷区指定有形文化財に指定されています。

豪徳寺 三重塔
三重塔

この他にも豪徳寺には、背の高い黒松が並んでいる美しい参道、世田谷で一番古い梵鐘、大名屋敷を移築した庫裡、新しく建てられた三重塔など、境内には見所が多いです。

また、桜やモミジの木々も多く植えられているので、春や秋には境内がとても素晴らしい雰囲気になり、多くの参拝客が訪れます。

豪徳寺 返納された招き猫
返納された招き猫

百景のタイトルになっている招き猫ですが、豪徳寺が井伊家の菩提寺になり、栄えたのは、住職の飼っていた猫が門前で殿様を招いたのがきっかけだったという招き猫伝説が残っています。

飼い猫が亡くなったのち、その恩に報い、後世にこの猫の姿を招福猫児(まねぎねこ)と称え、崇め奉るようになりました。

仏殿の隣に招福堂があり、その横には招き猫の奉納所があります。返納された招き猫がずらっと置かれている様子は非日常的で、圧巻の光景になっています。

豪徳寺 国史跡 井伊家墓所
国史跡 井伊家墓所

豪徳寺の墓所内には、国指定史跡になっている彦根藩主井伊家墓所があります。さすが大名家の墓所ということで、この区画はかなり広々としています。

ここには6人の藩主の墓石がありますが、なかでも参拝客に人気なのが、都指定史跡になっている井伊直弼の墓。幕末に大老にまで上り詰め、桜田門外の変で暗殺された人物です。

No.22 世田谷城址公園

世田谷城址公園の案内図

初代吉良氏が南北朝のころ、関東管領足利基氏から戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらいうけて、築城したのが始まりといわれる。平城で、三方を塀で囲んだ防備の堅固な城であったが、現在はわずかに小高い台地の中に枯山水風の谷や小川があり、緑の茂る公園となっている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:豪徳寺2-14 備考:ーーー

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世田谷城址公園
世田谷城址公園

世田谷城は、室町から戦国時代に世田谷周辺を支配していた吉良氏の居城になります。正確な築城時期はわかっていませんが、室町時代の15世紀中頃には何かしらの建物が存在していて、16世紀前半頃にしっかりとした城に改修され、吉良氏の本拠となったと言われています。

吉良氏は小田原の北条氏と従属関係にあった為、1590年の豊臣秀吉の小田原城攻めによって北条氏が滅びた後、この地を追われ、城は廃城となります。

住宅で埋め尽くされつつある世田谷ですが、世田谷城の遺構の一部が残っていて、世田谷城址公園として整備されています。ここは世田谷区内で唯一の「歴史公園」となっていて、「東京都指定文化財」にも指定されています。

世田谷城址公園 土塁と空堀の跡
土塁と空堀の跡

城址公園となっている場所は、南東部にあった防御用の櫓などがあった部分とされています。現在、見ることができるのは、わずかな空堀と土塁の痕跡のみです。これらの遺構は16世紀前半に大改築された時のもののようですが、城跡と言われれば城跡に見るかな・・・といった感じで、専門家ではない限り、かつての城の様子を感じることは難しいでしょう。

でも、この地に世田谷城があり、吉良氏が世田谷を治めていたという事実には変わりはなく、わずかな痕跡を眺めながら、その時代に生きていた人々の様子を想像するのが、正しい見学方法なのかもしれません。

No.23 ボロ市と代官屋敷

世田谷ボロ市の垂れ幕

ボロ市通りには毎年12月と1月の中旬にボロ市が立つ。北条氏の楽市を起源に持つこのボロ市は、四百年の伝統を持ち、今も賑わいを見せている。通りの中ほどには茅葺の武家屋敷門の代官屋敷がある。これは江戸時代の中ごろ、初代の代官に任ぜられて以来、代官を勤めた大場家の屋敷が残されたものだ。敷地内には世田谷区立郷土資料館もある。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:代官屋敷と郷土資料館(世田谷1-29-18) 備考:ーーー

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世田谷ボロ市
ボロ市

世田谷を代表する行事といえば、毎年、12月15、16日と、1月15、16日に開催されているボロ市となるでしょうか。

開催期間中には、ボロ市通りに700近くの露店が軒を連ね、一日20~30万人もの人出があります。東京の冬の風物詩として広く認知されるようになり、区外からの来訪者も多くなりました。

ボロの起源は、北条氏政が天正六年(1578年)に楽市(市場税を免除した特別な市)として認めた六斎市が始まりだと言われています。

世田谷ボロ市
ボロの再現

なぜボロ市という名が付いたのか。ガラクタばかり売っていたから・・・ではなく、農家の作業着のつくろいや、わらじになえこむボロが安く売られていて、それが市の目玉的存在となっていたことに由来します。

明治中頃にはボロ専門の店が十数件もあり、午前中にはほとんど売切れになったほどの盛況ぶりだったとか。この時期にボロ市の名前が世間一般的に確立したようです。

現在のボロ市は、各地で行われているフリーマーケットとイベントの露店と、骨董市を混ぜたような感じです。骨董品を扱う店が多いのが、ボロ市の特徴になるでしょうか。

世田谷代官屋敷
世田谷代官屋敷

ボロ市が開催されるボロ市通りには立派な門のある世田谷代官屋敷があります。大名領の代官屋敷としては都内唯一のもので、国の重要文化財に指定されています。

代官を代々務めたのは、元・吉良家家臣だった大場家。領主である井伊家の代わりに世田谷の秩序を守っていました。

同じ敷地には世田谷区立郷土資料館も建てられていて、代官屋敷共に無料で公開されています。代官屋敷と言っても上流民家を改造したものなので、普通の古民家とあまり変わらない感じです。

現在の世田谷からは想像しにくいのですが、昔の世田谷は人の少ない農村だったので、代官屋敷も質素なものでした。そういった昔の世田谷の様子なども郷土資料館で見ることができます。

No.24 蛇崩川緑道

せたがや百景切り絵 蛇崩川緑道

下馬から三軒茶屋・上馬・弦巻まで全長約3キロにわたって続く。蛇崩川にフタをして作った緑道で、地下には現在下水道の幹線が通っている。サクラ、フジ、サツキ、アジサイ、クチナシなどが季節季節に花咲き、道行く人を楽しませる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:下馬~三軒茶屋~上馬~弦巻など 備考:ーーー

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蛇崩川緑道 下馬の桜並木
下馬の桜並木

蛇崩川は、世田谷区が約3km、目黒区が約1kmの全長4キロほどの川で、昭和50年に川筋のほぼ全てに蓋がされ、緑道となりました。

世田谷区内の最下流部は下馬1丁目。少し遡り、三宿通りを横切った先にある駒繁公園に至ります。この駒繁公園から駒留中学校の間は、蛇崩緑道の印象的な場所の一つとなり、昔の曲がりくねっていた川筋を今でも感じることができます。また、この区間は桜並木になっているので、桜の時期に歩くととても気持ちがいいです。

蛇崩川緑道 弦巻のツツジ
弦巻のツツジ

弦巻でも印象的なスポットがあります。一つ目は、環七から弦巻通りまでの区間。広めの緑道には木々が多く植えられ、緑道内に設置されている通路は、蛇崩川の名前らしくくねくねと緩やかに蛇行していて、とても雰囲気がいいです。

次に、弦巻通りに緑道が設置されている区間。ここでは歩道にツツジの垣根が設置され、5月にはとても美しい光景になります。バス停にも藤棚が設置されていて、通り全体がお洒落に感じます。

蛇崩川緑道 水道管のオブジェ
水道管のオブジェ

最後に、もう一カ所。弦巻神社から中央図書館にかけては、水道管のオブジェが緑道の随所に設置されています。あるものはガードレール代わりに。あるものは照明の土台に。あるものはアートな形にと、他の緑道にないような楽しい感じの緑道になっています。

No.25 駒沢給水所の給水塔

駒沢給水所 正面入り口と給水塔

大正末期にできたこの給水塔の姿は、付近の人に長い間親しまれてきた。木造の平屋や2階建ての家々ばかりだったころは、現在よりもさらに目立っていたことだろう。ランドマークとして一対の給水塔は今も健在だ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:弦巻2-41-5 備考:ーーー

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駒沢給水所 王冠のような装飾が施されている給水塔
王冠のような装飾が施されている給水塔

大正6年、急激に人口が増え続けている渋谷町によって、多摩川から渋谷まで水道水を送る計画が発案されました。計画は綿密に練られ、鎌田に砧下浄水所を造り、ここで多摩川から汲み上げた水を濾過し、その水をポンプで駒沢給水所に送り、駒沢給水所からは自然の重力で渋谷まで送る事になりました。

完成は大正13年3月。この大プロジェクトの設計者は、中島鋭治水氏。砧下浄水所の多摩川の川底に管を入れて水を取る伏流水方式や、加圧して駒沢給水塔へ送るポンプ方式は、当時の技術としては斬新なものだったようです。

駒沢給水所 二つ並ぶ給水塔
二つ並ぶ給水塔(見学会の時)

中継地点となった駒沢給水所には、高さ22.72メートルの双子の給水塔が造られました。この塔のデザインは秀逸で、まるでチェスの駒のよう。当時の人々からも丘のクラウンと呼ばれて親しまれていました。

以前は、年一回、地元の団体によって見学会が行われていて、間近に見る機会があったのですが、セキュリティー強化のために中止となり、現在では中に入る機会がなくなってしまいました。

No.26 弦巻實相院界わい

弦巻實相院界わい せたがや百景の石碑

吉良家開墓の寺院で、正式には鶴松山實相院。禅寺にふさわしく、境内には木々がうっそうと茂り、森閑としている。まちの中の寺とは思えない風情があり、鳥の声に耳を澄ましたくなる。代官屋敷のちょうど裏手あたりになるが、この辺は江戸時代の世田谷の中心だったところだ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:弦巻3-29-6 備考:ーーー

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弦巻實相院 緑の多い境内
緑の多い境内

駒留通りの西側の端、中央図書館のある通りと交わる付近に、吉良氏朝が開基した實相院があります。

吉良氏朝といえば、吉良家の菩提寺勝光院を中興開山し、小田原の役(1590年)の際に世田谷城を明け渡し、世田谷から下総に下った人物。しかも、吉良家とは血のつながりのない北条家からの養子というお方です。

その氏朝が下総から世田谷に戻ってきて、1603年に他界するまで夫婦で静かに閑居したのが、このお寺になります。

弦巻實相院 本堂
本堂

境内には木々が生い茂り、松丘小学校側から入っていくと、森の中に入っていくような感覚になります。逆に弦巻通り側からだと巨石が多く配置されている庭園のような印象を受けます。

吉良家ゆかりの寺ではありますが、氏朝の位牌が本堂に安置してあるぐらいで、あまり吉良家の歴史を感じることはできません。その部分においては残念に感じますが、境内の雰囲気はとてもいいので、訪れる価値はあるかと思います。

No.27 宮ノ坂勝光院と竹林

せたがや百景 宮ノ坂勝光院の案内板

世田谷城主吉良家の菩提寺。江戸期には家康から御朱印寺領30石を与えられた格式の高い寺で、境内には風格のある庭木も見られる。とくに美しいのは竹林で、竹垣とあいまって品のよい雰囲気をかもし出している。鐘楼の梵鐘は、戦争中応召されたが、鋳つぶされず、10年ほど前に元の姿で無事戻ってきた。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:桜1-26-35 備考:ーーー

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宮ノ坂勝光院 山門と竹林
山門と竹林

中世に世田谷城を拠点とし、世田谷を支配していた吉良氏の菩提寺になっていたのが、現在の住所では桜にある勝光院です。かつての住所は宮の坂だったようで、百景のタイトルでは宮ノ坂勝光院になっています。

宮ノ坂勝光院 吉良氏墓所
吉良氏墓所

墓地の一画には、世田谷区指定史跡になっている吉良家墓所があり、古い墓石が並んでいます。

吉良氏は足利家を起源とする由緒ある家柄。太田道灌に、小田原北条家などから一目置かれる存在でした。徳川家からも一目置かれていたようで、寺領30石与えられるなど、厚遇されていました。

現在ではこじんまりとした感じのお寺ですが、百景のタイトルにある竹林などの木々に境内が囲まれている様子は、とても素敵です。

No.28 収穫祭と東京農大

せたがや百景切り絵 収穫祭と東京農大

農業大学にふさわしく、緑の多い構内に校舎が建っている。正門を入ってすぐ化石植物メタセコイヤの小さな林がある。またイチョウは、東京管区気象台から委託を受けた生物季節観察標本で、東京の紅葉時の目安となっている。秋の収穫祭には学生、教師、住民ともに実りの喜びを祝う。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:桜丘1-1-1 備考:ーーー

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東京農業大学 農大の正門
農大の正門
東京農業大学 収穫祭での野菜販売店
収穫祭での野菜販売店
東京農業大学 食と農の博物館
食と農の博物館

調整中

No.29 経堂の阿波おどりと万燈みこし

経堂まつり ハートフル農大通り

ハイライトは万燈神輿。夜のまちに神輿の胴の武者絵が浮かびあがり、提灯の灯が揺らぐ。これを、かつぐために、威勢のよい若者が関東近県から500人も集まるという。阿波踊り参加者も毎年増えている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:農大通り商店街周辺 備考:万燈神輿は担がれていません

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経堂まつり 紫連の女踊り
経堂紫連の女踊り

小田急線経堂駅から南の世田谷通りや東京農大に抜けていく道は、農大通りと名付けられていて、ハートフル農大通り商店街を形成しています。

この商店街では、7月の中旬から下旬にかけての終末に経堂まつりが行われています。経堂まつりではステージやパレード、阿波踊りやサンバが行われます。

祭りの主役は、地元の阿波踊り団体、経堂むらさき連。阿波踊り大会で賞をもらうなど、なかなかの技巧派です。土曜日の夜には周辺から集まった阿波踊りの団体とともに、技を競い合いながら経堂通りを練り歩きます。

経堂まつり サンバ
サンバ

百景のタイトルや紹介文では、万燈神輿が祭りのハイライトととなっていますが、現在では担がれていません。残念ながら、廃れてしまったようです。

ただ、新たに人気となっているのが、サンバパレード。数団体が経堂通りを楽しそうに練り歩きます。経堂まつりといえば、土曜日の阿波踊りと日曜日のサンバとダブル看板になり、両日共にとても多くの人が訪れています。

No.30 奉納相撲の世田谷八幡

百景の切り絵 北沢八幡神社の秋祭り

石の鳥居をくぐると、右手に弁天池がある。その少し上手に土俵が設けられ、観客席がちょうど円形劇場のように広がっている。奉納相撲で知られるこの八幡は、吉良頼康の創建と伝えられる。江戸時代には「江戸三大相撲」の一つといわれるほど有名になり、現在も秋季大祭の9月15日には、学生や若者の奉納相撲が行われる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:宮坂1-26-3 備考:ーーー

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世田谷八幡 祭りの日の拝殿
祭りの日の拝殿
世田谷八幡 奉納相撲
奉納相撲

調整中

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