* 大蔵の永安寺について *
次の項に出てくる水神橋から北(成城方面)に向かって進むと、いきなり2車線道路が1車線になってしまいます。もっとも南に進んでもすぐに1車線になってしまうので、根本的にこの道が中途半端なのですが、そのちょうど1車線になった角に古刹めいた門構えの永安寺があります。
山門の前の短い参道には両脇に仏像や馬頭観音などがずらっと並べてあり、山門前がとてもいい雰囲気となっています。
その後ろのほうには立派な桜の木が植えられているので、桜や紅葉の時期は山門付近が少しやわらかい雰囲気になります。ただ・・・、門前には電線が多く横切っているので絵的にはちょっと微妙かもしれません。
この永安寺はかなり古い歴史を持っています。境内の案内板によると、 「 龍華山・長寿院・永安寺(天台宗) 本山の開山は清仙上人といい、本尊は千手観音で、恵心僧都の作と伝えられる。この寺は鎌倉大蔵谷にあった鎌倉公方足利氏満開基の永安寺にちなんで延徳二年(1490年)この地に建てられたという。」との事です。
少し調べてみると、鎌倉にあった永安寺が戦火で焼かれてしまったことで、清仙上人(二階堂信濃守秀高)がこの地に落ち延びるようにしてやってきたようです。
山号の龍華山というのは、鎌倉にあったときに本堂前に立派な龍華樹(桜)があったことに因んでいるからで、院号は足利基氏の法号をとって長寿院としたそうです。
この地にやってきたのは、どうやら大蔵つながりで選ばれたようですが、偶然にしてはちょっと出来過ぎているような気もします。世田谷の大蔵という地名の由来も曖昧なので、もしかしたら永安寺が引っ越してきたことでこの地を大蔵と名づけたという可能性もあるかもしれません。
山門から境内に入ると、二本の大きなイチョウが目の前に聳えています。なかなか立派なイチョウで、少し右側の方が小さいです。案内板によると樹齢数百年とか。二本の大銀杏といえば代沢の森厳寺を思い出します。あちらは樹齢四百年なので、ちょっと大きさや貫禄ではかなわないといったところでしょうか。
そのイチョウに守られるように本堂があります。建物自体は1742年(寛保二年)、江戸時代中期に建てられたもので、昭和35年に大改修が行われ、平成12年にも再び修復が行われているので、建築様式や雰囲気は歴史を感じるものの、外観は新しく感じる建物となっています。
本堂は天台宗本堂としての特徴がよく表れた建物となっています。とりわけ天台宗総本山から正式に許可された延暦寺紋(菊輪宝)が軒先の瓦に使われているのが、天台宗のお寺としては自慢になるようです。
本堂前の隅っこには造営記念としてそれまで使われていた鬼瓦が据えられています。これは昭和35年の大改修時に設置され、平成12年の改修時に屋根から下ろされたものです。
本堂内は正月にチラッと見たぐらいで中に入ったことがないので詳しくわかりませんが、案内板を読むと、内部にもこだわって建てられているようです。
本尊として千手千眼観世音菩薩、秘仏として石薬師如来、そのほか薬師如来、阿弥陀如来、大日如来、地蔵菩薩、聖観音、不空羂索観音、弁財天、弁財天十五童子など多くの仏像が安置されています。
本堂には賽銭箱が置かれているのですが、変わった形の紋章がつけられています。最初は分からなくてどういったものだろうと書いていたのですが、檀家さんからメールをいただき、丸に並び鷹の羽は石井家の家紋で恐らく賽銭箱を奉納したのではないかとの事です。
石井家は百景の紹介文にある石井家です。寺の門前に本家があり、六代目兼重は世田谷地域での図書館の始まりとなった「玉川文庫」を創った事でも知られ、大蔵では安藤家と並ぶ名家です。
その他、境内には本堂の斜め前に不動堂があります。昭和35年に建立されたもので、不動明王が祀られています。正月にはここで護摩が焚かれます。
この不動堂の前に山号の龍華山の由良になった龍華樹が植えられています。龍華樹といってもピンときませんが、八重桜の一種です。なんでも当時の村人が鎌倉まで出向いてその木を移植したとか伝えられています。残念ながら現在の木は当時のものではなく、何度か植え替えられたもので、今のものは平成12年の大改修の際に植え替えたものです。
山門横には開山堂長春殿があり、法事などのときに使われているのではないでしょうか。
本堂の左横、墓地の入り口には六地蔵が祀られています。屋根付きで、花も備えてあり、お地蔵様も居心地がいいのか、表情が不思議とご機嫌に見えてしまいます。
その横を通って進むと、本堂横に無縁仏となってしまった墓石が大量に置かれています。三界万霊供養塔として一番奥に聖観世音菩薩が祀られ、その前にずらっと墓石が置かれているのですが、数が多いのでなかなかの迫力です。初めて見たときはよくもまあこんなにきれいに並べたものだとビックリしてしまいました。
多くの寺では場所の関係もあるでしょうが、ピラミッドのように積み重ねられていて、積まれ方にお寺のセンスを感じたりするものですが、ここは全部平積みなので、えっ!って感じです。なかなかこういうお寺はありません。この寺の檀家さんや地域の先祖の霊への思いやりとか、優しさの表れなのではないでしょうか。
この三界万霊供養塔の少し上には七宝塔早雲があります。これは納骨堂および、永代供養墓です。
その先に墓地があり、墓地には百景の案内文にあるように石井家の墓地があるはずです。実は少し墓地を回ってみたものの、石井家の墓があまりにも多すぎてどれがそうなのか分かりませんでした。
石井家について書くと、6代兼重は江戸幕府に仕え、元禄3年(1690)永安寺前に玉川文庫を設立し、喜多見氏の和漢の蔵書を現在の図書館のように閲覧することができるようにしました。
その子の至穀は目覚しい出世をし、江戸幕府の書物奉行にまで上り詰めた人物です。寺のまん前にある石井家(現存)の出身だとか。きっと当時は大蔵の誇りだったのでしょう。