* 森厳寺と結城秀康について *
「淡島の灸の森厳寺」とちょっと変ったタイトルが付けられている項目です。これは同じ敷地内に二つの特徴的な寺社があることでこういうタイトルになってしまったと思われます。
現在では幼稚園まで加わり、森厳寺、淡島神社、幼稚園、二本の大銀杏、焔魔堂、社務棟がそんなに広くない境内に所狭しと配置されています。そして入り口はそういった繁雑さを表してか色々な表札が並び、少し怪しい雰囲気になっています。
ちょっと怪しい雰囲気の門をくぐると、そこには大きな木に囲まれた薄暗い世界が広がっています。門前で感じる怪しい雰囲気の一端は中が薄暗いというのもありそうです。
境内に入って正面に幼稚園と大きな銀杏木、左側に淡島神社、そして右奥に森厳寺があります。
まずはお寺の名前である森厳寺から書くと、正式名は八幡山浄光院森厳寺で、この寺は慶長十三年(1608年)に結城中納言秀康卿の位牌所として建てられたものです。
残念ながら昭和39年に火災で消失してしまったので、現在の建物は近代的な造りをしています。
結城中納言秀康卿(結城秀康)って誰?なんか仰々しい名前だけど・・・。あまり歴史に詳しくない人はピンとこないかもしれません。
さりげなく世田谷にあるけど、この方はとても歴史的に有名な人なのです。なんとあの江戸幕府を開いた徳川家康の次男なのです。苗字が徳川や松平じゃないよ!ってことになりますが、それはこの人が歩んだ数奇な運命に理由があります。
年少期は豊臣家に養子に出され(実質人質)、後に秀吉の命で下総の結城家へ養子に出されたので苗字が結城なのです。秀康という名前も養父の「秀吉」と実父の「家康」から一字ずつ取ったものです。
それだけで話が終わらないのが秀康です。関ヶ原後には越前の福井67万石の封を受け、姓を松平に戻し、福井藩の越前松平家の家祖となりました。
慶長十年(1605年)には家康が将軍職を辞し、三男の秀忠へ家督を継ぐことを宣言します。
長男は織田信長に切腹させられているので、家督の順番的には次男の秀康となるはずだったし、重心の中からもそういった声もありました。しかし家康が選んだのは三男の秀忠でした。
秀康が将軍になれなかったのは性格的に粗暴だったとか、資質がなかったとか、一度豊臣家に養子に出されたからだとか、はたまた容姿がよくなかったからなどとも言われています。
そしてそのすぐ後の慶長十二年(1607年)、34才の若さで突然病死します。
若すぎる死も毒を盛られて暗殺されたとか、色々と疑念を抱いてしまいますが、諸説紛々、実際はどうだったのでしょうか。はっきりした事が分からないこそ、色々な伝説や陰謀説が歴史家などに語られています。
その福井藩の結城秀康と森厳寺の関係を書くと、秀康が臨終の際に越前の一乗寺の万世和尚に自分のために一寺建立してくれと頼んだそうです。万世和尚は高齢のため、弟子の孫公和尚にそれを命じ、孫公和尚はふさわしい地を探し求め、この地に辿り着いたそうです。
寺名は秀康の法号の「浄光院殿森厳道慰運正大居士」から命名されました。家康に冷遇されたとはいえ、立派な徳川家の血筋なので、ちゃんと三葉葵の紋章が掲げられています。
一応これが公式的な見解となっています。が、ただ・・・、普通に考えるなら越前の秀康がなぜ縁も所縁もない世田谷に?といった疑問が湧いてきます。あまりにも場所的に中途半端すぎます。
秀康が家康や徳川家を嫌っていたといった話はよく歴史書に出てきます。そう考えれば、葵の紋が入った寺を建てるのにわざわざ福井から江戸近くの世田谷にまでやってこなくてもよかったはずです。
秀康に関しては色んな逸話があるのですが、その中でも興味深いのは秀康には法号が二つあり、はじめは「孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士」と付けられていた事です。
これは生涯を通じて家康に冷遇されたことの恨みつらみで、誰が徳川家の墓に入るもんか、自分は結城の人間だと結城氏の菩提寺である曹洞宗の孝顕寺(茨城県結城市)に本人の遺言で埋葬されたという話です。
死に臨んで徳川氏と訣別したいという本人の意向なのでしょうが、これでは徳川幕府の立場、あるいは福井藩、結城藩としても幕府に対する立場がよろしくありません。後に福井市の浄光院(運正寺)に改葬されることになります。
そして孫公和尚を遣わせて江戸にほど近い世田谷という中立の地に法号の浄光院殿森厳道慰運正大居士からとった森厳寺を建てたという事でしょうか。
あくまでもこれは色々と推測されている中の一説にすぎません。あれこれと想像しながら奥深くまで考えると歴史も面白いものですし、自分なりの考えを持って散策すると訪れた時の楽しみも増えます。
* 淡島神社と針供養 *
境内に入って左手にある木造の古めかしい建物が淡島神社の淡島堂です。お灸と2月8日の針供養で知られ、灸の淡島さまと人々に慕われてきました。
淡島というのは住吉大明神の妻の名前になります。彼女は婦人病にかかって紀州に流され、流された紀州の地で海女の守護神となり、そしてひろく婦人病の守り神として祀られるようになりました。
なぜここに淡島神社があるのか。それはこの森厳寺を開山した和尚が紀州人で、紀州の淡島神社から勧請してきたからだそうです。
そして灸と絡めた逸話も残っています。なんでも住職の夢枕に淡島明神からお告げがあり、これこれこういったお灸方法を行えば持病の腰痛が治せるぜよ。と教えられ、その通りに灸治を行うと治すことができたとか、なんとか。このことから地元の紀州の加田から淡島明神の分社を勧請したようです。
そしてその灸治を毎月3と8の付く日に諸人に施した為に、江戸中の評判になり、門前町が栄え、大いに賑わったそうです。その名残となるのでしょうか。渋谷から経堂へ続く道は今でも淡島通りと名付けられています。
淡島神社の前には大きな針塚の石碑が建てられていて、その横にはローマの石棺が・・・、と思ったのは私だけかもしれませんが、独特な形をした古針の納め箱が置かれています。
この針塚というのは裁縫などで使った古い針に感謝し、供養するための塚です。この塚の前では毎年2月8日に針供養が行われます。
針供養とは、その名の通り針を供養する行事で、日頃使い慣れた針に感謝し、柔らかな豆腐に差し、供養します。
昔はこの日に限り女性は針仕事をしないといった風習もあったそうです。女性による女性の為の休日だった感じですね。
この針供養は森厳寺に限ったことではなく、全国的に淡島神社を中心に行われていて、関東では田畑に関する作業を始めるという「事始め」の2月8日に行い、関西では「事納め」の12月8日にやるところが多いそうです。
豆腐に針を刺すといった一風変わった儀式は今ではあまり見かけないし、誰でも参加できるので興味があれば2月8日に合わせて訪れてみてください。古い針があるなら持参するといいですよ。針は針でも注射針は産廃になるので不可ですが・・・。
* 森厳寺の大銀杏 *
森厳寺を外から見ると、この一角だけ木がこんもりとしている・・・という表現を超えて木が溢れているとか、境内から木が聳えているといった感想になるかと思います。
こんな都会の住宅地なのによくぞここまで木が育ち続けているものです。なんていうか、まさに森厳寺の名がピッタリといった感じでしょうか。
境内に入っても木々が頭上を覆っているので薄暗く、古刹めいた雰囲気を感じます、特に圧倒されるのが2本の巨大なイチョウの木です。とても立派なイチョウで、樹齢はおよそ400年と言われています。
そのうちの一本は幼稚園の敷地内にあります。夏は園児のために木陰をつくり、紅葉の時期にはイチョウのカーペットを提供しているのでしょう。黄色いイチョウのカーペットの上で遊びまわる園児達の姿は絵になっていそうです。
季節ごとにそれぞれの良さがあるかと思いますが、やっぱりイチョウの大木は秋の紅葉時期が一番絵になる気がします。それは光の通りがよくなるからです。
新緑の時期に薄暗かった境内が紅葉時には光が入り、また黄色い葉に反射し、ほのかに明るくなります。その様子は幻想的にすら感じました。
ただ、ここの木はあまりに大木で、周囲に引いて全体を見渡せる場所がないので、下から見上げるといった鑑賞になります。
訪れる方としてはこれだけ立派な大木だと紅葉の時期が楽しみでありますが、これだけ頭上を覆い隠すように葉が生い茂っているとなると掃除する方は・・・。
紅葉が終わるころに訪れてみると、境内の隅っこに山のように積まれた落ち葉の入ったビニール袋が積まれていて、思わず笑ってしまいました。
見るほうはただ楽しいだけなのですが、これだけの落ち葉を掃除するのは本当に大変だと思います。見学者として最低限のマナーとして余計なゴミや騒動を増やさないようにしたいものです。
* その他境内にあるもの *
森厳寺の本堂と淡島堂の間にあるのが幼稚園です。日曜日に訪れたので境内全体がひっそりと静まりかえっていましたが、普段は園児達の元気のいい声で賑やかにちがいありません。
入り口入ってすぐ横、本堂と向いになっているのは閻魔堂です。堂内では閻魔様と不動様が睨みを利かせています。子供がのぞくと泣いてしまうかもしれません。幼稚園では悪いことをすると閻魔様のところに閉じ込めるぞ!なんて言われているのでしょうか。(笑)
閻魔様にも閻魔の日という縁日があります。その日には護摩が焚かれます。(1月と8月の15日 未確認)
閻魔堂と淡島神社の間にはとてもスマートな近代的な社があり、そこには弁財天が祀られています。外観の近代的さで油断しているとビックリします。弁財天様は手がたくさんあるし、人面、いや人頭蛇までいます。焔魔堂並みの怖さです。
この人頭蛇は宇賀神といい、弁才天と習合し、宇賀弁財天と呼ばれる存在です。頭は老翁、もしくは弁財天同様の女性になります。
正月に訪れた時には宇賀神の前に鏡餅が置いてありました。これ似ていると思いませんか。一説には鏡餅の原型はとぐろを巻く蛇だとか。これを見るとふむふむと納得してしまいます。
この他、本堂の裏側は墓地になっています。そこには2006年まで江戸時代の信仰である富士塚というものがありました。富士塚とは足腰の弱った老人や女人禁制によって入山が許されない人たちが富士詣でができるようにと人工的に造られた代理富士の事です。
墓域の整理のために崩すことになり、文化財的調査と発掘調査が行われたものの特に目ぼしい発見はなく、その痕跡は今ではありません。
北沢八幡神社にもさりげなく溶岩が多く使われていることを考えると、この地域では富士山信仰が結構流行っていたのかも・・・と思っていたら、ここの岩を運んだものでした。
* 感想など *
徳川家康の次男、結城秀康の所縁の寺、森厳寺。そして針供養で知られる淡島神社。これだけでも凄い散策スポットですが、それ以上に魅力的なのが2対の銀杏木です。普段でもその大きさや枝ぶりに心奪われるのですが、紅葉時には眩暈がするほど神秘的な光景になります。
イチョウといえば九品仏浄真寺にある都の天然記念物に指定されている木も立派ですが、私的にはここのイチョウが世田谷で一番の銀杏かなと思っています。ぜひ紅葉の時期にあわせて出かけてください。感動すること間違いないかと思います。
せたがや百景No.11 淡島の灸の森厳寺
ー 風の旅人 ー
2018年11月改訂