* 世田谷区民文化祭 郷土芸能大会について *
毎年三月の日曜日に世田谷区民文化祭の一環として郷土芸能大会が行われます。過去四回の開催状況を書くと、48回大会が平成27年3月15日(日)に成城ホールで、47回大会が平成26年3月2日(日)に北沢タウンホールで、46回大会が平成25年3月3日(日)に玉川区民会館ホールで、45回大会が平成24年3月11日(日)に烏山区民会館ホールで行われています。会場はこの4つの会場を持ち回りにしていて、日時は三月第一日曜日が基本で年によって第二、第三日曜日になってしまうといった感じのような気がします。(ちゃんと確認していません。)

出場団体は成城ホールで行われた平成27年が、給田小学校子どもばやし、安宅囃子保存会、川場村萩室獅子舞保存会、廻澤囃子保存会、駒留お囃子若駒連、船橋囃子保存会、大蔵石井戸囃子保存会、鎌田囃子保存会、烏山芸能保存会、上祖師谷囃子連、瀬田囃子保存会、等々力囃子保存会、喜多見楽友会となり、

北沢タウンホールで行われた平成26年が、給田小学校子どもばやし、菅原天神囃子保存会、川場村萩室獅子舞保存会、等々力囃子保存会、烏山芸能保存会、大蔵石井戸囃子保存会、喜多見楽友会、廻澤囃子保存会、安宅囃子保存会、上祖師谷囃子連、駒留お囃子若駒連、船橋囃子保存会、瀬田囃子保存会、鎌田囃子保存会、北澤囃子連

玉川区民会館ホールで行われた平成25年は、給田小学校子どもばやし、菅原天神囃子保存会、川場村萩室獅子舞保存会、北澤囃子連、駒留お囃子若駒連、上祖師谷囃子連、鎌田囃子保存会、安宅囃子保存会、廻澤囃子保存会、大蔵石井戸囃子保存会、船橋囃子保存会、喜多見楽友会、烏山芸能保存会、瀬田囃子保存会、等々力囃子保存会

烏山区民会館ホールで行われた平成24年は給田小学校子どもばやし、菅原天神囃子保存会、川場村萩室獅子舞保存会、等々力囃子保存会、鎌田囃子保存会、喜多見楽友会、大蔵石井戸囃子保存会、上祖師谷囃子連、瀬田囃子保存会、安宅囃子保存会、廻澤囃子保存会、駒留お囃子若駒連、北澤囃子連、船橋囃子保存会、烏山芸能保存会となっています。

年ごとに参加団体の数にバラつきがあり、毎年開始時間は午前9時50分から開会式となっていますが、終了時間はまちまちです。また見てわかるように四箇所のホールで行われていますが、そのトリを努めているのはその地域の代表的なお囃子です。成城では喜多見楽友会、北沢では北澤囃子連、玉川では等々力囃子保存会、烏山では烏山芸能保存会といった具合で、演目時間も長くなっています。
また姉妹都市というか、提携都市というか、縁組協定を結んでいる群馬県川場村の獅子舞もここの所毎年やってきます。川場村といえば一時期世田谷に合併すると話題にあったあの村です。ここの獅子舞は世田谷区では馴染みのない三人立ちの獅子舞で、顔立ちもぼってっとした感じではなく、精鋭な獣のような感じです。これは獅子は獅子でも鹿がモデルとなっていて、鹿供養の一面もあったりします。多摩川を越えた川崎などでは今でもこのような獅子舞を見ることができます。
* 世田谷の囃子について *
「世田谷の囃子って有名なの?」山車が出るような大きな祭りもないので、普通っていうか、一般的な囃子を演奏しているだけではないかと思っている人が多いと思います。神社が住宅地の中に埋まり、秋祭りの規模もどんどんと縮小している現状からすると、そういったイメージを持ってしまうのもしょうがないかもしれません。
しかしながら世田谷の囃子は意外と歴史があり、また特徴があったりします。厳密に言うなら特徴があったというほうがいいかもしれません。過去においては周辺地域から一目を置かれる存在であったのは確かで、世田谷で生まれた囃子が他の地域へも広まっていたりします。

世田谷の囃子は、江戸時代後期の文化年間(1804~17)に世田谷八幡宮の宮司であった大場増五郎が、当時流行っていた神田囃子を世田谷村に広めたのが一つの流れで、もう一つは大井に伝わる大井囃子が多摩川流域から伝わり、等々力、瀬田、岡本、喜多見などに広まっていったという流れがあります。これはあくまでも演奏のスタイルの違いで、お囃子というのはジャパニーズジャズといわれるように即興の演奏です。
素晴らしい演奏者、突出している名人がいたりするとその囃子は有名になれ、場合によっては新たな流派を生み出したりします。そういった人物がいるかいないかで大きく様子が異なるのが囃子の世界で、世田谷の場合だと二人の有名な人物を排出しています。

江戸末期から明治初期頃の船橋村に内海軍次郎という当時関東一のお囃子の名人と言われる人物が現れます。内海氏は大場直伝の囃子をさらに改良して船橋流を興し、各地で船橋流の囃子を指導しました。そして府中や調布で指導した弟子が今度は立川や八王子に指導してと船橋流がどんどんと西へ伝播していったのです。府中など東京の西部の祭礼を見学すると、お囃子が乗った山車に掲げられている提灯に船橋流と書かれていることがあります。この船橋流はここ船橋の囃子の流れを汲むものです。例えば府中囃子では、目黒流と船橋流の二つの流派があり、大國魂神社の西側が目黒流、東側が船橋流といった具合に分かれています。こういった様子を見ると船橋流凄いじゃないかってことになるのですが、実際に凄かったのは内海さんです。
現在でも船橋では船橋囃子保存会によってお囃子が続けられていますが、船橋流の総本山的な感じではなく、多くの弟子入り志願者がいてお囃子の聖地に・・・・といったこともなく、船橋流の演奏スタイルを粛々と守り続けているといった感じです。

もう一人は世田谷区の指定無形民俗文化財第1号に輝いた高橋福蔵翁(故人)です。等々力村で生まれた彼は笛を吹くのが得意で、13歳の時に諏訪分(現東玉川)に住んでいた大井囃子系に連なる野口吉五郎氏の弟子である吉村吉蔵氏の弟子となり、毎夜等々力から諏訪分まで通い、修練に励みます。そして福蔵氏が師匠に連れられて八王子八雲神社祭礼に出かけた時、近在の囃子師匠株と三日三晩に渡っての競演となったとか。その演奏の技術が認められて「等々力に高橋あり」と知られるようになったそうです。
福蔵氏は早くから才能を認められ、師匠から奥伝(おくでん)を伝授されていました。奥伝とは普通の祭礼囃子とは違った、いわゆる奥の手というか、奥義的な難易度の高い曲です。彼が育て上げた等々力囃子にはそういった奥伝が14曲伝承されていて、中には地元大井にも残っていない大井囃子の奥伝も伝え守られています。そういった事を留意して等々力の囃子を聞くとちょっとお囃子の通になった気分になれたりします。