世田谷散策記 世田谷の秋祭りのバーナー
秋祭りのポスター

世田谷の秋祭り File.49

尾山宇佐神社例大祭

田園調布のお隣に位置する尾山台。坂が多く、狭い町域で行われる小規模な祭礼です。

鎮座地 : 尾山台2-11-3  氏子地域 : 尾山台1、2丁目
御祭神 : 誉田別命(応神天皇)  社格 : 無格社
例祭日 : 10月第一日曜と前日
神輿渡御 : 宮神輿、太鼓車
祭りの規模 : 小規模  露店数 : 数店
その他 : 抽選会、奉納演芸が行われます。

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*** 旧尾山村と尾山宇佐神社 ***

尾山宇佐神社の写真
神社の入り口

崖線上に立地しています。

尾山宇佐神社の写真
社殿

小さな堂宇で後ろは古墳です。

尾山宇佐神社の写真
キリスタン庚申塔

右手に十字架を持っています。

尾山宇佐神社の写真
八幡塚古墳

残念ながら入れませんでした。

* 旧尾山村と尾山宇佐神社について *

世田谷の多摩川沿いのほぼ南端に尾山台があります。すぐお隣は天下に名の知れた大田区田園調布です。尾山台の地価はよく分かりませんが、もし数十mしか違わないのなら、尾山台よりも田園調布の方に住みたいと思うのは人の心理かもしれません。でもその数十mで地価がビックリするぐらい違うのなら考えてしまいそうです。その辺の事情は分かりませんが、田園調布は知っていてもお隣りの尾山台を知っている人は少ないはずです。

その尾山台ですが、昔は「荏原郡小山(おやま)村」でした。紛らわしいことに荏原郡にはもう一つ小山がありました。長いアーケードを持つ武蔵小山商店街で有名な小山です。これでは紛らわしいので、明治8年に尾山村と変更されました。一方の武蔵小山の小山は明治22年に小山(こやま)村と読みを替え、紛らわしさは解消されましたが、後に行政区分が品川区と世田谷区に別れてしまい、そういった歴史があることを知る人はほとんどいなくなってしまいました。

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尾山村と変更された後、明治22年には玉川村に組み込まれ、昭和7年には世田谷区に所属することとなり世田谷区玉川尾山町となりました。そして昭和45年に新住居表示により、玉川尾山町の大部分(現在の1、2丁目)に玉川等々力1丁目と玉川奥沢町3丁目からそれぞれ少しずつ編入した地域(現在の3丁目)が加えられ、尾山町の町域が広がりました。

町名もこの時に尾山台となるのですが、町名が付けられる以前の昭和5年4月1日に大井町線の尾山台駅が誕生していて、駅名から付けられたと思われます。この駅は等々力駅と九品仏駅の間に新設された駅で、一応等々力に位置していましたが、既に等々力駅はあるし、そんなに離れていない場所にある大字の尾山が候補に挙がったと推測できます。

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ただ等々力に位置している以上、等々力の方にも敬意を払わなければ揉める元になってしまう。そこで駅の位置が等々力村台場に位置している事から尾山と合わせて「尾山台駅」となったとか。地名に台と付くと高台といった意味となるのですが、尾山台の場合は既に尾山が高台の意味なので、よくよく考えるとちょっと違和感があったりします。

でもまあ地名を付けた当時は千歳台、玉川台など台を付けるのが流行った時期です。これは「台」を入れると縁起がよいとか、地名に風格が出るとか、土地の値段が上がるとかいった思惑があったとか言われています。こういったことも考慮されたのかもしれません。

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尾山台は古墳が多くある地域です。崖線上に狐塚、八幡塚、天慶塚などといった古墳が点在しています。同じ崖線上にある野毛大塚古墳や田園調布の亀甲山古墳といった巨大な古墳の間に位置していることを考えれば自然な成り行きかもしれません。小山の地名の由来も宇佐神社を中心とした高台=古墳を地頭山、或いは小山とも呼んでいたことによるそうです。多摩の筏師たちはこの高台を「権左衛門の森」と名づけて距離の目安としたといった話も残っています。

古墳の一つである八幡塚を守るように鎮座しているのが尾山宇佐神社で、小山村の鎮守でした。宇佐神社はもともと八幡神社で、その謂れは古く、平安時代の永承6年(1051年)に源頼義が奥州の安部一族を平定しに赴く際に、ここ小山(尾山台)に陣を張ったとされています。その時、空に白雲が八つに分かれて棚引いたとか。その姿が源氏の白幡のようだったのでこれは縁起がいいと喜び、戦勝の暁にはこの地に八幡社を建立することを誓ってこの地を後にしました。

そして康平5年(1063年)に奥州安倍氏を平定し、約束通りこの地に八幡神社を建立し、神に勝利を報告し、感謝したのが始まりだとされています。源氏伝説は各地の八幡神社に残っているのでこの話が確かかどうか分かりませんが、区内では太子堂八幡神社や駒繋神社にも同じようないわれが残っています。

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明らかになっている神社の歴史は、元禄十二年(1699年)に伝乗寺の七世精蓮社進誉貞悦によって社殿が再建されたという棟札が見つかっています。その後、大正7年頃に社殿は再建され、昭和36年に改修されています。かつては神社の境内に大きな松が二本あり、まるで大きな門松のようだったとか。これが遠くからでも目立ち、神社の目印となっていましたが、第二次大戦中に枯れてしまったそうです。昭和53年には付近の稲荷社、天慶社、御嶽社の末社を合祀した神明社が境内社として建てられています。社殿には狐塚から出土した刀剣や土器片なども奉納されているそうです。

また面白いことに、境内には庚申塔があるのですが、その庚申塔の像は十字架を持っています。この地域には隠れキリシタンが多くいたのだろうか。何か特別な信仰が根付くような土地だったのだろうか?と想像が膨らみます。ちなみに坂の多い尾山台でも八幡神社の横を通る寮の坂は一番きついと言われています。寮の坂はその昔、伝乗院の寮がこのそばにあったことから名付けられたそうです。

*** 尾山宇佐神社の秋祭りの様子 ***

尾山宇佐神社の秋祭りの写真
秋祭りのときの入り口

宵宮の日は神輿や太鼓が置かれます。

尾山宇佐神社の秋祭りの写真
夜の社殿

抽選会の時以外はあまり人がいません。

尾山宇佐神社の秋祭りの写真
昼間の境内

神輿の運行前ですが、閑散としています。

尾山宇佐神社の秋祭りの写真
神楽殿に飾られる神輿

小さな神輿が2基運行されずに飾られていました。

尾山宇佐神社の秋祭りの写真
抽選会

この時だけは賑わいます。

* 尾山宇佐神社の秋祭りについて *

尾山宇佐神社の祭礼は、かつては9月22日に宵宮、23日に本祭が行われいました。ただ、とても小さな町域であり、氏子数、そもそも住民が少なく、3年に1度ぐらいしか余興を行うことができなかったそうです。現在では祭礼日は週末に移され、10月の第一日曜日に本祭、前日に宵宮が行われています。宵宮には19時半より抽選会が行われ、その後餅まきが行われます。本祭の日は10時より大祭式や神輿の御霊入れが行われ、12時に神輿や太鼓車が出発し、町内を巡幸して18時頃に戻ってきます。そして宵宮と同じように19時半から抽選会が行われ、その後奉納演芸が行われ、最期に餅がまかれて終了です。

尾山台は田園調布のお隣という立地条件もあり、町域の宅地化が進み、閑静な住宅街となっています。そういった土地柄に合わせて氏子町域も尾山台1、2丁目だけなので参拝者は少なく、露店も境内と参道入り口に数店並ぶだけです。とても小さなお祭りです。ただ抽選会の時だけは境内が賑やかになります。

*** 尾山宇佐神社の神輿渡御 ***

*** 宮神輿渡御 ***

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
渡御前の挨拶

社務所前で行われます。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
出発前の木遣り歌

慣例となっているようです。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
出発

狛犬の間から出発します。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
宮出し

脇の階段が使われます。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
太鼓引きの行列

思ったより子供が集まっていました。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
太鼓車

坂が多いので台車部分がしっかりしています。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
渡御の様子

坂が多いので大変です。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
夕暮れの渡御

暗くなるとテンションがあがってきます。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
神社に戻ってきた神輿

出たときよりも担ぎ手が増えていました。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
宮入

宮出しと同じように脇の階段から入ります。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
宮入りしてきた神輿

西側が開けた高台なので空が美しいです。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
境内を回る神輿

余韻を楽しむように境内を何周もしていました。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
社殿へ

最後の締めへと向かいます。

尾山宇佐神社の神輿渡御の写真
最後のもみ

余韻を楽しむように担いでいました。

尾山宇佐神社の祭礼では、本祭の日に宮神輿の渡御が行われます。神輿は昭和61年に浅草・宮本重義によって建造されたもの。駒札は宇佐神社で、台座は二尺(62cm)、延軒屋根、勾欄造りの小振りな神輿です。田園調布のお隣といった土地柄、町域は閑静な住宅街に変ってしまい、担ぎ手に困って神輿が出せなかった時期もあったそうです。

今では同じ町域ながら玉川神社の氏子町域である尾山台商店街を初め、等々力の上原や奥沢九品仏の鷺睦など、そしてお隣の大田区からも応援がやってきてお神輿が巡幸されています。大田区と接しているだけあって大田区からの担ぎ手が多いのが特徴でしょうか。

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10時から例大祭が行われ、その時に御霊入れが行われます。12時から挨拶や半纏合わせ、乾杯等が行われ、出発前に木遣り歌が入り、そして神輿が上がります。神輿は社殿前の狛犬と狛犬との間に置かれているので、ゆっくりと後退し、そして境内を一周します。理由は聞いていないので分かりませんが、宮出し、宮入は参道の方からではなく、脇参道の短く急な階段が使われます。

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渡御は太鼓車、子供神輿、そして大人神輿となります。尾山台は3丁目までありますが、3丁目は玉川神社の氏子町域なので、実際の町域は尾山台1、2丁目だけとなります。とても小さな町域ですが、坂にまたがった町域なので厄介です。渡御コースもなるべくきつい坂を通らないように設定されています。年によって違うかもしれませんが、個人宅で5カ所、小休止が3カ所あり、18時頃神社に戻る事になります。神社へは宮出しと同じように脇参道の階段から登り、境内を回って、社殿前の狛犬の間で収めます。太鼓車は途中で神輿と分かれ、一足先に神社に戻ります。

* 感想など *

世田谷で最小の村だったのが横根村でした。後に大蔵村に編入され、現在の住所では大蔵1丁目付近ということになります。二番目に狭い村となると、ちゃんと調べてはいないので詳しくは分かりませんが、飛地だらけの鎌田村か、渋谷に近い三宿村か、代田村から独立した大原村か、ここ尾山台の前身である小山村になるはずです。鎌田村は飛地で構成されているといった特殊な村なので比較から外すとして、三宿や大原は都心に近いので早くから開けていきました。大きな街道も近くを通っていたので町域が狭くても人は多く住み、あまり不便はなかったはずです。

それに比べると小山村は狭い上に世田谷の端、しかも国分寺崖線上に村が広がっているといった立地の悪さもあり、丸子川沿いのわずかな低地に田畑を作り、細々と生計を立てるといった厳しい状態だったようです。狭く、色々と不便な中で人々が助け合って生活してきたのが小山です。

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そんな貧しい村が開けていくのはお隣の田園調布で大規模な宅地開発が行われてからです。駅前や幹線道路周辺から徐々に土地が宅地で埋まっていき、駅から離れ、昔は人が住むのにあまり適していなかった尾山台も戦後しばらくして宅地化の波にのまれます。

そして気がつけば人がほとんど住んでいなかった土地が住宅で埋め尽くされる事になります。しかし人口は増えたものの、土地の文化に愛着を持つ人は少なく、町域に大きな商業地もなく、人口に比例して祭礼が盛り上がるということはありませんでした。

逆に神輿渡御は担ぎ手がいなく中断している時期もあったほどです。すぐ近くにある田園調布八幡神社の神輿渡御も見てきましたが、もっと閑散としていて、ある意味想像通りでした。そういった土地柄なので、今は何とか応援の担ぎ手を確保して神輿を出せていますが、休憩所となっている旧家の世代が変って神輿渡御に理解が得られなくなってしまったりすると、色々と難しくなってしまうかもしれません。

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<世田谷の秋祭り File.49 尾山宇佐神社例大祭 2013年10月初稿 - 2015年10月更新>