* 旧上野毛村と上野毛稲荷神社について *
大井町線の上野毛駅周辺が上野毛です。ちょうど二子玉川や瀬田の南側になります。上野毛の南側の野毛はかつて下野毛と呼ばれた地域で、明治まで同じ神社で祭りを共同で行っていた事などから、江戸時代以前は一つの野毛村だったのではと考えられています。
野毛という名は変わっていますが、ノゲとは崖を意味する言葉で、その名の通り国分寺崖線上に町域が広がっています。といっても上野毛の方は大部分が崖上の台地で、環八よりも内側が中心となっているのであまり崖というイメージはないかもしれません。
その一方下野毛村、現在の野毛の方は崖に町域が大きく被っているので、崖の名がふさわしい立地です。北の崖上の上野毛、南の崖下の下野毛といった感じでしょうか。昭和初期頃までは多摩川の水利に恵まれた下野毛の方が発展し、人口が多かったようですが、戦後になると区内の宅地化が進み、地盤が固く、洪水の心配のない台地の方が宅地に向いている事や大井町線の上野毛駅のある事からどんどんと宅地化が進み、今では上野毛の方が人口が多く、賑やかになっています。
上野毛は特に何があったといった土地ではありませんが、上野毛の歴史を語る上で外せないのが、上野毛の名主であった田中家です。現在の上野毛駅の北側や西側付近はかつて「筑後丸」という字が付けられていました。これは田中筑後という世田谷吉良家の家臣が住んで意た事から名づけられた字です。
この田中筑後の末裔が田中家で、「一本氏名主」という一段高い格式を与えられていた家柄だそうです。上野毛駅前の交差点から多摩川に向かって崖線を下る上野毛通り沿いの坂は稲荷坂です。坂の途中に稲荷神社があることから名付けられていますが、この坂の南側には上野毛自然公園があります。この自然公園も田中家所有のものでした。
しかもただの敷地ではなく、桜や楓が多く植えられた桜楓園と呼ばれる庭園だったのです。何でも先祖の一人が道楽の全てをかけて粋を凝らした庭園にしたとかで、付近の住民からは旦那の森とも呼ばれていたそうです。特に桜の花見の頃は美しく、都心より大勢の人が見物にやってきて、中には楽隊を引き連れてきて賑やかに踊ったりと、普段何もないような土地が大いににぎわったそうです。
とまあ田中家の影響の強い上野毛ですが、村の鎮守の稲荷社も田中家の屋敷内にあった稲荷社を村の氏神としたものです。こう書くとなんて横暴なといった感想を持つかもしれませんが、これには少々事情があり、元々上野毛と下野毛(野毛)は村の境界付近にあった六所明神を共通の氏神とし、祭礼も一年おきに交代で執り行なっていました。現在でも上野毛と野毛の境界をなしている坂道は明神坂と呼ばれているように、この付近に神社があったようです。
その六所明神が明治の初めに野毛の現在の場所に移転する事となってしまいました。移転した理由は下野毛の方で村社という格式が欲しい為に広い敷地に移転したかったからというのが有力な理由のようですが、いまいちはっきりしていません。当時の村の力関係でいえば圧倒的に下野毛の方が栄えていたので、上野毛側としても色々と断れない事情があったりしたのかもしれません。
ということで村の氏神がなくなってしまったので、どうしたもんだということになり、田中家のお稲荷様を新たな上野毛の氏神として迎えることになったというのが、村の氏神としての上野毛稲荷神社の始まりです。
上野毛稲荷神社は上野毛通りの稲荷坂の途中にひっそりとある神社です。敷地自体はそこそこ広いのですが、間口が狭いためあまり存在感がありません。崖線上に立地しているにもかかわらず敷地が結構広いのは、神社を建てる際に村人たちが協力し崖の傾斜を切り崩して平らな土地を造ったからです。
敷地の一番奥にある社殿は昭和29年頃に建て替えられたものだと思われますが、近年修復が行われたようで、きれいな状態を保っていました。境内は稲荷社の割には境内に狐の像が見あたらなく、敷地内もいたって簡素で、全体的には崖と木々に囲まれて薄暗い感じのする神社だなというのが率直な感想です。
また社殿の横には北野神社の石碑と石の小さな祠が置かれています。北野神社は北野天満宮、菅原道真公を祀った神社で、この石碑は明治35年に菅公千年祭記念に際して神社を再建したという碑のようですが、詳しくは分かりません。