* 旧深沢村と深澤神社について *
深沢は名前の通り深い沢、呑川が台地を削った深い沢地を中心とした地域です。現在の呑川は国道246号から駒沢通りまでが水を循環させている親水公園となっていて、駒沢通りから目黒区へは暗渠となった緑道になっています。このきれいに整備された様子からはあまり深い沢といったイメージが湧きませんが、かつては水量が豊富で、川幅は1m程、深いところでは水深が80cmもあったそうです。長い年月をかけて台地を削って深い沢になったのも頷けますし、「呑川」の名がたび重なる氾濫で回りの村々を「呑みこんだ川」と言われ、それが「呑川」と呼称されるようになったというのも納得です。
また深沢高校にある清明亭は元わかもと製薬社長長尾鉄弥氏の邸宅の一部として昭和6年に建築されたものですが、呑川へ向けての崖地を利用した地上階の約半分が列柱により支えられた木造住宅(懸造り)になっていて、武蔵野の趣のある眺望を得られるようにできています。かつては深沢の名にふさわしい渓谷のような風景が広がり、お金持ちが別荘にするにはふさわしい土地でもありました。
深沢が開けたのは小田原北条氏の配下、伊豆衆の一人と知られた南条右京亮重長がこの地を治めるようになってからです。南条氏は永禄七年(1564年)に下総で行われた里見氏との国府台合戦に功をたて、北条氏康から深沢郷を賜わりました。そして簡単な土塁で囲った兎々呂城を築いてこの地を治めたそうです。都立園芸高校はその兎々呂城の跡地に造られたとされ、園芸高校に城址跡の碑が建てられています。
ただこれには色々と諸説があり、別に深沢城があり、兎々呂城は出城だったとか、深沢城と兎々呂城は同じものだとか、玉川警察署付近、或いは深沢坂上付近から深沢神社の辺りにあったのでは・・・などとも言われています。また兎々呂城の名からお隣の等々力町の名が付いたという説もあったりします。
当時の世田谷は吉良氏が支配していたとはいえ、1560年には血筋が絶え、吉良氏に嫁いだ北条氏綱の娘、崎姫の子(吉良氏との子ではない)、氏朝を嗣子として迎え、奥沢の大平氏を直臣とし、用賀には飯田氏、瀬田には長崎氏そして深沢には南条氏が入り、北条の支配下に移行している時期でした。しかしながらその北条氏も天正十八年(1590年)に秀吉に滅ぼされて、主君を失った南条氏は城を壊して平地とし、性を南条から小谷岡と替え(後に谷岡)、この地で帰農し、深沢の名主を務めました。現在でも深沢神社の南付近に谷岡の性がみられます。
江戸時代になると初めは旗本領でしたが、正保年間(1644~1648年)頃から幕府の天領となり、純農村として発展していきます。新編武蔵国風土記稿には幕末の村の様子が書かれていますが、村内にはわずかに高低差があるけど多くは平地で、田は少なく畑が多い土地。野土にし粗田だったそうです。
大正や昭和の初め頃には呑川流域の崖でつくるタケノコがおいしくて有名だったとか。また明治45年から大正2年にかけて新町の南部から深沢にかけて関東で最初の郊外型分譲住宅地が東京信託会社(現日本不動産)によって新町分譲地として造成されました。深沢が高級住宅地となる始まりです。
またこの頃園芸高校や駒澤大学、そして駒沢公園の位置には駒沢ゴルフ場ができるなど雑木林ばかりだった村がどんどんと開けていった時期です。戦後になると宅地化がどんどん進んでいきます。それでも深沢村には秋山氏、三田氏、谷岡氏などといった土地を持った地主がいて、そういった地主の広い土地は遅くまで開発から守られてきました。近年そういった広く、閑静な土地に高級マンションが建ち、現在でも高級住宅地という土地柄は変りません。
深沢の中心を流れている呑川。その駒沢通りの南側に三島公園があり、その奥に三島幼稚園と深沢神社があります。三島の名が示すようにかつては三島神社でした。三島神社といえば静岡の三島にある三嶋大社が本山です。伊豆に流された源頼朝は深く崇敬した神社と知られ、頼朝が旗揚げを成功してから武門武将の崇敬が篤く、伊豆国一宮として知られています。
世田谷でその三嶋大社を本山とする三島神社というのは珍しい存在なのですが、これは兎々呂城の城主南条氏が伊豆出身の武将だったからです。創建は永禄七年(1564年)と伝わっているという事から、この地に三嶋大社の分霊と共に着任し、すぐにお祀りしたようです。
ただこれは伝承で、元禄九年(1696年)に南条氏の子孫である谷岡家が勧請したことになっています。新たに勧請したのか、きちんと勧請し直したのか、屋敷社程度のものを勧請し直して神社にしたのかその辺の事情は分かりません。
明治の初め(7年?)には村社となります。深沢にはズシごとに八体の神様が祀られていたのですが、合祀令で明治40年に伊勢神社と稲荷神社、明治42年に天祖神社、山際神社、稲荷神社、御嶽神社、八幡神社が三嶋神社に合祀され、社名も深沢神社と改められました。大正5年頃には社殿や神楽殿を改築しています。
この当時は社殿は呑川の方、北東向きに建てられていました。参道も同じく呑川の方へ向いていて、参道の北側、現在の三島幼稚園から三島公園にかけて湧き水による広い三島池がありました。この池には三島になぞられてなのか、一坪半程度の大きさの三つの島が設けられていて、それぞれ丸太の橋でつながれ、一番奥の島には弁財天が祀られていました。
この弁財天も伊豆の三嶋大社の末社として祀られている農耕用の水の神様を祀ったものだとか。この池には片目の鯉の伝説が残っています。この弁天様は眼病に患う人に信仰があり、病に苦しむ人々が願をかけ、身代わりに鯉の目をつぶして池に放したとかで、池の鯉が片目のものばかりだったという不気味な話も残っています。
昭和39年には三島池が埋め立てられ、呑川も埋め立てられ、緑道となります。そして三島公園と幼稚園が建てられました。恐らく敷地を売ってお金ができたことで、境内や社殿の大幅な改築が行われます。その際に今まで三島公園の方向にあった参道が南東側の道路の方に付けられ、社殿も南東向きになりました。
社殿は昭和41年建築の鉄筋コンクリートの神明造です。社殿の東側に境内社として弁財天が祀られていて、奥には階段を下りていくと小さな池と橋があります。小さなまいまいず井戸(渦巻き井戸)のような感じです。かつての大きな池から考えると寂れた感じですが、今でも眼病のお参りにくる方もいるそうですが、夏には蚊がもの凄く多そうな感じです。神社全体としては住宅地の中にポツンとある感じであまり趣がありませんが、境内には古い大木が幾つかあります。