* 旧岡本村と岡本八幡神社について *
現在の大蔵町は砧公園や大蔵運動場付近にある横に細長い地域で、岡本から見ればお隣さんといった感じですが、かつての大蔵村はとても広く、北部の砧、そして南部の鎌田や玉川の一部を含む地域でした。その大蔵村が今のように分裂したのは昭和30年に行われた町域変更の時で、それ以前の地図を見ると、岡本村は北、西、南を大蔵村にぐるっと囲まれるような形で存在しています。まるで大きな口に飲み込まれそうな感じというのが言い得ているかもしれません。
そういった大蔵に吸収されそうな頼りない感じで存在していた岡本でしたが、古くから独立した村として存在していました。岡本の地名の由来は、長円寺の山号の岡本山からとったという説、鎌倉時代の武将木曽義仲に属していた岡本次郎成勝の出身地であることから付けられたという説、丘陵起伏の多い地形から岡本と名付けられたという説などがありますが、どれももっともらしく、決定打にかけるようです。
岡本と言えばせたがや百景や国土交通省選定の関東の富士見100景に選ばれている岡本3丁目の坂が知られているでしょうか。ひたすら真っ直ぐなのにとても急な坂道です。車や自転車など乗り物で下ると、まるでジェットコースターに乗っているような気分になります。
岡本は谷戸川と丸子川に挟まれた大地上に位置している為にこのように急な坂道が多くあります。坂や丘ばかりの土地といった印象が強いのですが、その反面、丸子川は六郷用水の名残で、その流域では灌漑が進み、田畑が広がっていました。1650年頃の記録では田が176石、畑が45石と記録されています。人口も1695年頃には家数が35戸、235人、1808年には50戸220人と大きくはないけど、しっかりとした村を形成していました。
明治になると22年に大蔵や喜多見、宇奈根、鎌田とともに合併し、砧村の一部となりました。昭和11年にはあまりにも坂が多くて不便をするので、まず道を何とかしたいという住民の希望から砧第二耕地整理組合として登録し、積極的に耕地整理を行ったといった話があります。昭和30年には飛び地の整理が行われ現在の町域となり、隣の大蔵町も鎌田や砧に分かれ、現在の状態になりました。
岡本村の鎮守は岡本八幡神社です。丸子川沿いにある岡本民家園の脇にひっそりと参道があり、48段の階段を上った先に鎮座しています。創建に関しては詳しいことは分かっていなく、言い伝えでは鎌倉の鶴岡八幡宮より勧請したとのことです。年代も不明で、安政元年(1854年)に社殿を改築した記録があるので、それ以前に創建されていることは確実のようです。境内には八幡宮の社標もあることから、昔は八幡宮の名を名乗っていて、明治になって政府の指導で神社に改めたものと推測されます。
明治10年には村社に指定され、明治42年には合祀令により、愛宕社と仙元宮を境内社として合祀しています。大正九年には茅葺きを今の銅板葺きに替え、昭和39年には第六天祖神が合祀されています。近年では参道の階段が整備されたり、平成21年には神楽殿が新築されました。
岡本八幡神社には二つの名物があります。一つは先に書いた48段の階段です。結構急な階段で、しかも狭いのでちょっとビックリします。というか、初めて来た人は「これを登るの~」ってな感想になるかと思います。なら岡本3丁目の坂の上の方からやってくればいいという事になるのですが、それでも結構坂を下らなければならなりません。ちょうど国分寺崖線の中腹よりちょっと上に位置している感じです。
丸子川沿いに田んぼが広がり栄えていた岡本村なのでどうせなら一番高い位置に造ればよかったのではと思ってしまうのですが、元々は八幡宮の上に岡本山長円寺があったようです。火事で焼失してしまい、長年荒廃していたのを大正三年に村人の努力で現在の場所で再建したとか。
もう一つの名物はその階段の前にある石灯籠一対です。特に何の変哲のない新しい灯籠ですが、裏を見てビックリ。松任谷夫妻(ユーミン夫妻)の名が刻まれています。彫られている年号から平成八年に奉納されたようです。どこかこの近くに暮らしているのでしょうか。そのためこの灯籠の写真を撮っていく人が多く、ある意味世田谷で一番有名な石灯籠・・・、というのは大袈裟かもしれませんが、松陰神社の石灯籠ぐらい知名度のある石灯籠となるでしょうか。