世田谷の秋祭り File.33
横根稲荷神社例大祭
世田谷最小の旧横根村で行われる祭りは、規模が小さく、ちょっと寂しい感じのするものですが、団結した氏子の心意気を感じる祭りでもあります。
鎮座地 : 大蔵1-6-20 氏子地域 : 大蔵1丁目、大蔵2丁目と砧1丁目の一部
御祭神 : 豊受姫命、倉稲魂神 社格 : ーーー
例祭日 : 10月第二日曜(第一日曜の場合もあり)
神輿渡御 : 宮神輿、太鼓車
祭りの規模 : 小規模 露店数 : なし
その他 : なし
*** 旧横根村と横根稲荷神社 ***
* 旧横根村と横根稲荷神社について *
環八と世田谷通りが交わる交差点は三本杉陸橋です。環八の東名高速の交差点から三本杉陸橋にかけての西側は砧公園や清掃工場、世田谷市場と大きな敷地が続きます。現在の住所では大蔵になりますが、かつてこの付近には世田谷で最小の横根村がありました。横根というのは横野、横沼といった言葉と同じで、外れにある野原や沼を意味する言葉だとされています。実際にこの付近は人家は少なく、文化・文政期(1804年から1829年)に書かれた「新編武蔵風土記稿」にも民家9軒と記されているような寒村でした。
江戸時代には村の大部分が旗本領でした。文化十年(1813年)以前にその旗本領以外は大蔵村に併合され、明治8年に残りの全てが大蔵村に編入され、横根村は消滅します。その時でも村内に建っていた家屋は20軒ほどだったそうです。ちなみに環八を挟んだ北東には桜丘、桜と旧世田谷村の地域がありますが、桜丘や桜にも小字として横根という地名が幾つかありました。稲荷森稲荷神社の横根睦などがその名残ですが、ここの横根村とは関係ありません。
三本杉陸橋の少し南側に世田谷通りの旧道が残っています。くねくねと曲がりくねり、道幅は狭く、高低差もありと走りにくい道です。そしてNHK技研のところで現在の世田谷通りと合流します。この道沿い、環八から西へ向かい、谷戸川へ下りかけたカーブのところに大蔵庚申神社の祠があり、そこから南に道をそれた先に横根稲荷神社があります。
鳥居の真ん前が世田谷市場というのもある意味凄い立地ですが、かつての横根村で稲荷講を中心として篤い崇敬と深い信仰をあつめてきた神社です。三本杉という地名もこの神社の境内にあった根元部分に洞穴が空き、上部が三つ叉に分かれている杉の大木に由来していて、神社も三本杉のお稲荷さんと人々から親しまれていたとか境内の案内板にありました。
この神社は清水氏宅にあった屋敷社が起源になるそうです。しかしながら村は明治8年に大蔵村に編入され、明治41年には合祀令により、本村の氷川神社に合祀される事となってしまいました。合祀後はこの地で天災や疫病が続き、これはお稲荷様の祟りじゃ!ということで祠を跡地の隅に建てて祀ったそうです。戦後になると合祀令が解け、新たに京都伏見稲荷より稲荷神社を勧請し直し、社殿を建てて神社としました。
ちなみに旧道から南側、現在清掃工場がある付近は瀬田村でした。小字が三本杉と付けられていて、その名前の由来はこの地を開いたときに三本の杉を残したからだとか。別の文献では横根稲荷神社の境内に三本の大きな杉があったからと書かれていたり、単純明快そうな三本杉という地名も一筋縄ではいかないようです。
横根稲荷神社は規模の小さな神社ですが、敷地内はきれいに整備され、全体的に新しい感じのする神社です。境内に置いてある石碑によると、「社殿は永い年月により老朽化がはなはだしくなり相寄りあい語らいて御造営をいたし御神徳をお慰め申し上げることに致しました」とあり、平成元年に地鎮祭を行い、社殿を改築し、社務所を新築し、鳥居、狐像を建立し、手水舎と参道敷石の新設を行い、平成二年に遷座祭を執り行っています。
それ以前がどうだったのか分かりませんが、社殿以外は全て新しく建設したようなものなので、神社が新しく感じるわけです。そしてここの特徴は西の空がよく見えるということです。社殿の西側は谷戸川へ向かって斜面になっているので、視界が開けています。その為、夕焼け時はきれいです。
*** 横根稲荷神社の秋祭りの様子 ***
* 横根稲荷神社の秋祭りについて *
横根稲荷神社の秋祭り(例大祭)が行われるのは10月第二日曜日(第一日曜の場合もあり)で、日曜日に神輿が運行されるのは変らないのですが、前日に祭事が行われる場合と一日で済ませてしまう場合の年があるようです。二日間で行われる場合は土曜日の14時から、日曜日のみの場合は9時半から例大祭が行われます。
式典は時間の少し前に社殿前で希望者のみお祓いが行われます。修祓のようで修祓とはちょっと違うようでした。その後に背広を着た人など氏子関係者を含めた例大祭が社殿で行われます。例大祭は、まあ当然ですが、一の鳥居からくぐり、手水舎で清め、二の鳥居をくぐって社殿に向かいます。思ったよりも人が多くて驚きました。
例大祭が終わると神輿の御霊入れが行われ、最後に太鼓の撥入れが行われます。あまり世田谷では見かけない光景なので、ちょっと興味深く感じました。
祭りの期間中、境内に露店はでなく、祭事の時、神輿の出入りがあるとき以外はほとんど誰もいないのが実際です。もう少し目立つ場所に立地していればいいのでしょうが、さすがに市場の裏側にひっそりとあるといった状態では、砧公園に遊びに来た人や通りがかりの人が立ち寄るといったこともなく、関係者以外あまり足を運ぶことがない感じです。そのため夕暮れに染まる境内は哀愁が漂い、裸電球で照らされる境内はまるで深夜に訪れたかのように感じます。
*** 横根稲荷神社の神輿渡御 ***
*** 宮神輿渡御 ***
横根稲荷神社では毎年神輿と太鼓車が町内を巡行します。神輿はまだ新しく、木の色が美しく感じる神輿で、他のサイトの情報だと台座は2尺5分(62cm)とのこと。尋ねると平成4年に他所から安く譲り受けたもので、檜で出来ているとか。駒札はつけていませんでした。出発は12時半で、宮入は年によって18時とか、18時半になるようです。太鼓車は最後の休憩を飛ばしてくるので、神輿よりも少し早い宮入となります。
町域が小さいので、今年は何丁目を重点的に回ってなどといった心配事もなく、ルートや休憩所はほぼ毎年同じになります。巡行は太鼓車、神輿の順となり、婦人会の人が高張りや警護の提灯を掲げて誘導していました。担ぎ手も地元の人がほとんどで、氏子関係者総出で頑張っている感が伝わってくる渡御です。
渡御は氏子の家を一軒一軒回っていき、家の前で神輿を振って厄除け、安全祈願をしていきます。すぐお隣の宇山稲荷神社とよく似ています。神輿について歩いていると、○○さんのとこ今年は喪中だから次ぎ、○○ちゃんは法事でいないっていたから・・・とのどかな感じで進んでいきます。
担ぎ手は年配の方が多いので、坂道になるとちょっと大変。移動も所々台車を使います。少し面白いのが、NHK技研で休憩することです。現在の町名では砧になり、砧三峯神社の神輿もここに来ます。ここの土地は昭和30年までは鎌田の飛び地だったので、鎌田の神輿も・・・、来たら面白いのでしょうが、ちょっと遠いのでやってきません。
ここの渡御で一番盛り上がるのは宮入の時です。まず太鼓と子供たちが戻ってくると、お菓子の配布があり、その後、子供たちで神輿が担がれます。ここには小柄な古い神輿があり、それが使用されます。結構古風な神輿で、神輿の裏に書かれている由緒を見せてもらうと大正8年9月に自製、平成11年に修復と書かれていました。こちらには大蔵の駒札が付けられています。
昔はこの神輿しかなく、子供の頃はこの神輿を担ぐのにもの凄く憧れたんだとおじいさんがうれしそうに説明してくれました。大蔵が祖師ヶ谷大蔵の駅から二子玉川の駅近くまでの巨大な村域を誇っていた頃の名残となるでしょうか。さすがに今ではガタがきていてこれで町域を回ることは出来ないとか。
子供たちが交代で境内を何周か担いでいると、大人神輿が戻ってきますが、神社の先にある氏子の家に行くので一旦通り過ぎます。そうすると子供に担がれていた古神輿は一度社殿の前に戻されます。そして大人神輿が神社の社務所に最後の差し上げを行って、神社に入ってくると、女性が古神輿を担ぎ始めます。
一日高張りや提灯を持って警護していた婦人会の人や裏方に徹していた人、子供の付き添いに来ているお母さんが中心になって大神輿の後に続き、境内を三周だったか回ります。一日ご苦労さんといった感じで、みんなとても楽しそうに担いでいました。見ていてほのぼのとするような光景で、とてもいい祭りの終わり方だなと思いました。
* 感想など *
世田谷最小と言われた旧横根村、現在の大蔵1丁目付近という狭い町域で行われる祭りです。かつて横根は「門なし、寺なし」と言われ、道を歩いても家がなかったそうです。今では家が建ち並んではいるものの、砧公園に清掃工場、世田谷市場と巨大な施設が多いのが実際です。そういった地域で細々と続けられているお祭りは、余興もなく、露店もなく、境内にもほとんど人がいないといったちょっと寂しいものではありますが、毎年欠かさずに神輿は運行されています。
町会の規模としても小さいし、これといった大きな商店街もないのに、毎年きちんと神輿を出しているのは氏子関係者の努力の賜です。神輿渡御の様子を見ていると団結心というのを事あるごとに感じ、見ていて心地よく感じました。ただ氏子関係者が高齢なのが気になるところでしょうか。次の時代に氏子の関係が引き継げるかが問題になってくるかもと少し思うのですが、杞憂であって欲しいものです。
<世田谷の秋祭り File.33 横根稲荷神社例大祭 2013年8月初稿 - 2015年10月更新>