* 旧船橋村と船橋神明神社について *
船橋は小田急線の千歳船橋駅から北側に広がり、西を環八、北を旧滝坂道に囲まれた地域です。船橋といえば、言葉の意味として川や湾に船(筏)を何艘も繋げて人が渡れるようにした浮橋のことを差します。しかし海や船が行き来する川がある場所ならともかく、そういったものがない内陸の地に船橋という地名があるのも変な感じがします。
地名の由来について調べてみると、はっきりとしたことは分かっていませんが、幾つか説があり、昔は烏山川周辺は船橋池を含む広い湿地帯で、そこを渡るために船橋が架けられていたという説や、佐野景綱という豪族の子の船橋春綱という人が下野の国に住んでいて、その子孫にあたる船橋吉綱の一族が移り住んだので船橋と呼ぶようになったという説もあります。
その他にも説がありますが、烏山川周辺が湿地帯だったのは事実であり、その他の説の信憑性も微妙なところなので、湿地帯に筏を繋げたような浮き橋がかかっていたというのが一番しっくりくる気がします。ちなみに船橋と聞けば千葉にある船橋がまず思い浮かぶかと思います。駅名は同じ駅名はなるべく使わないので、後から開通した小田急線の駅名はかつて千歳村船橋だった名残で千歳船橋になっています。
最初に船橋の名前が出てくるのは、天文二十二年(1553年)に吉良頼康が家臣の大平精九郎に与えた土地の文章に「施沢(廻沢)之内船橋谷」といった文字があります。その頃は現在の千歳台は廻沢村という名で、船橋や粕谷、八幡山は廻沢村に含まれていたと考えられています。
この後、村としての整備されたのか、文禄元年(1592年)に吉良氏がこの地を去った後、この地を治めるようになった徳川家康から旗本山本与次左衛門に船橋領72石が知行されています。享保14年(1729年)には山本氏の子孫が不祥事を行い、領地は没収され、以後幕末まで天領となります。
明治になると廻沢など周辺の村と共に千歳村に所属し、昭和2年には小田急線が開通します。小田急線の開通で駅前の人口が少し増えますが、烏山川流域の田と畑、そして雑木林がほとんどの農村のままでした。本格的に住宅街となるのは戦後になってからです。品川用水が埋められ、湿地帯や水田となっていた烏山川が整備され、田や畑、雑木林の宅地化がどんどん進みます。環八が開通した後の昭和44~46年にかけて大きく町域変更が行われ、環八より西は千歳台に編入されました。
船橋村の氏神は船橋神明社です。創建年代や由緒は不詳ですが、先に書いたように文禄元年(1592年)に旗本山本与次左衛門が船橋を知行されていますが、その時にこの地に移り住み、神明社と隣の宝性寺を建立したのではないかと推測されています。
境内にあるものでは天保十年(1839年)建立の石鳥居が一番古いものとなるようです。明治6年に村社に指定され、大正15年(1926)には社殿の改築を行い、昭和40年に社殿の屋根を銅板葺にするなど修理され、その時に社務所、神楽殿が建設されました。
平成2年には放火によって全焼。神社に備え付けられている案内板によると、過激派ゲリラの時限発火装置によって放火されたとあり、その物騒さに驚いてしまいます。平成の年号になったばかりの頃なので、天皇制反対といった類のゲリラなのでしょうか。
平成4年には氏子などの多くの奉賛により鉄筋コンクリート神明造、銅板葺の新社殿が建設されました。現在の社殿です。平成19年には古い石鳥居に変わって現在神社の入り口にある大鳥居が建設されました。社殿横の末社、六つ宮には稲荷社、天神社、厳島社、津島天神社、三峯社、御嶽社が祀られています。
現在の神明社は放火があったなんて思い浮かばないような落ち着いた雰囲気の神社です。特に鳥居をくぐってから社殿までの参道に植えられている松などの木々が重厚な感じを醸しだし、社殿の横にあるイチョウなどの木々も秋になると彩りを加えてくれます。
神社のすぐ隣は船橋不動、宝性寺で緑豊かで落ち着いた一角となっているのですが、船橋小学校の隣でもあるので、普段の平日は子供の声が常に聞こえてくるような賑やかな感じなのかもしれません。