* 旧祖師谷村と祖師谷神明社について *
小田急線の祖師ヶ谷大蔵駅から北側に広がっているのが祖師谷です。祖師谷はかつて下祖師谷村だった地域で、更に北側にある上祖師谷とは一つの大きな祖師谷村を形成していました。祖師谷村が上下に分かれたのは元禄八年(1695年)の検地の時で、元禄十一年以降は幕末まで両祖師谷とも天領でした。祖師谷の名前は、昔この地に地福寺があり、この寺に祖師堂があった事に因んでいるのではと言われています。
祖師谷村の氏神様は明治6年には村社に指定された祖師谷神明社です。祖師ヶ谷大蔵の駅から北に続いている商店街通り(祖師谷通り)を延々1km程歩いた村の外れ的な場所にあり、なんて不便な場所にあるんだろうと感じる人が多いようです。
しかしこれは小田急線が昭和2年に開通してから駅に近い南側、祖師谷村で言うなら南端が急速に発展していったのでそう感じるだけで、それまではこの神明社の西側、或いは北側が祖師谷村の中心地でした。それは農業を行う上で重要な水利に恵まれていたからです。北側には湧き水が豊富な釣り鐘池、そして神明社の西側を流れる仙川、そして仙川にかかる大石橋付近は田に適した平地だったので、この付近に人家が集まり、村の中心となっていました。
祖師谷が発展していくのは戦後になってからで、急速に宅地化が進んでいきます。田畑がどんどんと宅地や集合住宅に変わっていき、人口の増加に比例して駅前はどんどんと商店が並んで賑やかになっていきました。
昭和31年に誕生した公社祖師谷住宅はその象徴とも呼べるものです。昭和45~46年にかけて大規模な区画整理が行われます。その際に仙川から西の地(今の成城7~9丁目辺り)が祖師谷から新たに設立された成城町に変わります。千歳台2丁目付近も祖師谷から変更され、祖師谷は以前よりも小さな地域となってしまいました。
昔の下祖師谷村には小字の何カ所かに地域の氏神様がありました。明治10年の神社調書には「神明社、八幡社、稲荷社を合わせて三社宮とする」とあり、現在神明社の参道にある嘉永二年(1849年)の灯籠にも三社宮神前燈籠の文字が入っています。社殿も真ん中に神明社の天照皇大神、左に稲荷社の倉稲魂命、右に八幡社の仁徳天皇が祀られています。
明治43年には合祀令により熊野神社が合祀され、本殿内右側に祠、左側に八相殿の祠が祀られています。更には境内には向かって社殿の左側に熊野神社に合祀されていた稲荷森稲荷、右側に村内にあった三峯神社と稲荷社の祠が祀られているといった祖師谷中の神様が集まった神社というか、神様だらけの境内となっています。
神明社の創建年代や由緒は不詳ですが、口碑によると南北朝時代の正平年間(1346~69年)に新田義興・義宗兄弟等が足利尊氏討伐の挙兵をした際に、この地を通り、小祠の祭神が天照皇大神だと知り、新田兄弟は「吾が憩いたるは皇祖の吾を助くるものなり」として戦勝を祈願し甲冑一式を献じ、兵を励まして出発したと伝承されているとか。
その真偽はさておき、記録では社殿は安政時代初めに改築され、現在のものは明治29年に新築されたものです。昭和39年に屋根が銅板葺きに改築されるなど大修理が行われていますが、結構年季が入った建物です。その他境内では、昭和23年に祖霊社、昭和38年に神楽殿と社務所が建設され、平成に入ってから参道など境内が整備されているので、建物は古いけど全体的には整っている感じのする境内です。
また境内には多くの神社が合祀されているだけあって、祠だけではなく、灯籠や狛犬も多くあり、一番古い延享元年(1744年)の銘がある石灯籠は旧熊野神社のものと言われています。この熊野神社は釣り鐘池の近くにあったもので、今もまだ敷地は神明社の社地となっていて、広い空き地のようになっています。