* 旧烏山村と烏山神社について *
世田谷の北西部に位置するのが烏山です。この地には古くから人が住んでいたようで、先土器時代(1万8千年前)や縄文時代(1万2千年前)の遺跡が幾つか見つかっています。現在の住所表記では北烏山1~9丁目、南烏山1~6丁目に分かれていますが、かつては大きな烏山村でした。
烏山という地名は鎌倉時代の文献に見ることができますが、そのままの意味でこの地に大森林があってカラスが群生していたという説や、この地がカラスのような黒い黒土で覆われているからとか、烏山神社付近に烏山某と言われる人の館跡があったといった説などがありますが、その由来はよく分かっていないそうです。
烏山が発展するのは甲州街道が整備された江戸時代になってからで、東の高井戸宿、西の布田宿(調布)の中間に位置している事から間の宿として街道沿いを中心に家が建ち並び、世田谷では珍しく農業ではなく商いで生計を立てる人が多かったようです。
街道沿いはだいたい今の南烏山六丁目を上宿、四丁目を中宿、三丁目を下宿と区分されていました。江戸時代は京都を中心に上中下となり、昭和時代の住所表示では東京を中心に123と住所の付け方が変るので、住所の数字の若さと上中下が逆になっているのが面白いところです。
烏山と言えば寺町を思い浮かべる人も多いかと思います。せたがや百景にも選ばれて現在の烏山の特徴の一つとなっていますが、この寺町は古くからある寺町ではなく、震災後の新興寺町となります。大正12年の関東大震災以降は世田谷に移住してくる者が多かったのですが、ここではお寺まで引っ越してきて寺町を形成したのです。大正15年までに6寺、昭和4年までに16寺、昭和30年までに4寺と全部で26寺で構成されています。
当時の北烏山地域は養蚕業の衰退で荒れた状態でした。そのため土地が安かったのもこの地が選ばれた一因だったようです。お寺が団体で引っ越してこれるような閑散とした土地だったので、その後は土地開発が進み、大きな団地やマンションがどんどんと建設されていきます。旧甲州街道沿いはそうでもありませんが、少し中に入ると集合住宅だらけというのが現在の烏山です。
烏山村の氏神様は烏山神社です。詳しい由緒は分かっていませんが、境内にある手水鉢に元文元年(1736年)とあるのでその頃に創建されたのではと推測されています。創建当時は白山比咩大神を祀る白山権現社でしたが、その頃の烏山村の鎮守は御嶽大神を祀る御嶽神社だったとされています。
天保三年(1832年)には大風で社殿が倒壊したために改築され、嘉永三年(1850年)に御嶽神社を白山権現社に遷宮合祀したという記録があります。明治六年には村社に指定されます。大正七年には社殿の大改築や境内の整備が行われ、昭和7年に白山御嶽神社の社号が許可されています。拝殿前に掲げられている扁額に白山宮、御嶽宮と書かれているのはその名残で、社殿の後ろには昔の社標が残されています。
昭和10年に神楽殿を増築。昭和37年には烏山各地にあった天神社、神明社、稲荷社が合祀され、神社の名称も烏山神社と改称されました。昭和39年に神楽殿を増改築、40年に招魂碑を建立し、社務所を新築。昭和57年に神輿庫を新築し、境内を整備しています。現在でも境内は広々とした感じで、木々も多く、神社としてはいい雰囲気が残っています。ただ、神社周辺に関しては、烏山らしく付近に大きな団地が建ち並び、神社がポツンとある感じで宮元としての雰囲気はあまりありません。